第50話 蒸留するのは、お酒じゃないよ
前回のあらすじ
マティルデお姉ちゃんに贈物を届けてもらうように手配しました。
メッセンジャーは、新東方三賢者の一人、イシドロスでした。
1057年5月中旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ 執務室
「はい、このクマさんをマティルデお姉ちゃんに渡してね」
僕の前に跪くイシドロス・ハルキディキが、クマの縫いぐるみを両手で押しいただくように受け取る。
その姿を見ていたら、今更ながらクマのぬいぐるみを届けるお
イシドロスは、一つの修道院を主宰する司祭様どころか、周囲一体の修道院を管轄する司教様。一応宗教世界ではとってもえらい存在、のはず。
どのくらい偉いかというと、ベリーの司教に就任するアイモーネお兄ちゃんと同じくらい偉い。
あれ? 従兄のアイモーネお兄ちゃんと同じかぁ。
なんだか、急に司教様という立場にありがたみが無くなった気がする。
前世の記憶からか、司教と言ったら宗教界でとっても偉い人のようなイメージがあった。
たしかに一般人、というか平民からしたら、司教って雲の上のような人で間違いない。
しかし、今の僕は、上級貴族の中でも辺境伯という上級貴族のメンバー。
たとえ預言者という肩書がなかったとしても、男爵家出身であるイシドロスは、下位の存在で間違いない。
(僕も
法の下の平等を
慣れていなくても、目の前には階級社会が広がっている。含む所がないとはいわないけど、問答無用で虐げられる立場でなかったのは幸いだった。
アイモーネとイシドロスを比較することで、認識を改める機会が得られたと、いまは喜んでおくことにする。
それはさておき、新東方三賢者の残る2人、ユートキア輔祭とニコラス副輔祭がイシドロスを羨ましそうに見ているのがとっても気になる。
「ああ、預言者様に使命をいただけたイシドロスが羨ましくてしょうがない」、とか思っているんじゃないかと、僕の胸中が不安になる。
その使命とやらが単なるお遣いなんだけど、そんなにうれしいものなのかな?
一体全体、狂信者の思考というものがさっぱりわからない。
しかし、僕の代わりに働いてくれるなら、それはそれで助かるのは間違いない。
目的のためには手段を選ばずの精神を発揮し、狂信者に働いてもらうのも悪くないだろう。
むしろ、昼夜を分かたず頑張ってくれるにちがいない。
ブラック職場になるのは避けたいけど、じゃがマヨコーンピザを味わえる未来を目指して、二人の奮闘に期待することにしよう。
「おほん」、とわざとらしく咳払いをして、イシドロスに向いていた2人の視線を僕の方へと取り返す。
「ユートキア輔祭と、ニコラス副輔祭に聞きたいことがあります」
僕は2人に、蒸留を知っているかと問いかけた。
前世では小学校や中学校の理科実験で学ぶ蒸留だが、ここトリノでは知っているものは誰もいない。
アイモーネお兄ちゃんに聞いたところ、エジプトや地中海東方にはアルコール分の強いお酒があると言っていた。
東方から来たユートキアとニコラスなら知っているかもしれないと思ったのだ。
案の定、ユートキアとニコラス、さらにはイシドロスも知っているとの答えが返ってきた。
「ギリシアの大偉人、アリストテレスが塩水を蒸留したとの記録が残っております」
「あれ、お酒の蒸留じゃないの?」
「お酒ですか?」
僕とイシドロス達3人組がそろって首をかしげて、不思議そうな顔をしている。
蒸留すると言えば、蒸留酒の事を指すのかと思っていたら、違ったみたい。
イシドロスとニコラスにとっては、海水から水を蒸発させて塩を取り出す蒸留だった。
一方、修道女であるユートキア・アデンドロはさらに一味違った答えを返してくれた。
「花の蜜や香りのする露を蒸留して香水を作っていました」
そうだったんだ。知らなかったよ。
蒸留で香水が作れるんだ。
前世の僕、つまり藤堂あかりにとって「香水」はとても馴染みある言葉でした。
ふとすれ違う時に漂う女性の嗜みとしての香り。
藤堂あかりだった私にとってそれは、憧れの香りだったのです。
ただ残念な事に、私がもっとも慣れ親しんでいたのは、農学部の実習の「田舎の香水」。
いわゆる糞尿の香りが最初に脳裏に浮かぶんだもん。
我ながら、悲しい前世だなぁ。
その思いに反比例して、というわけではないが、化粧ポーチの中にはいつも香水が入っていた。
おばあちゃんの
「ユートキアに香水を作ってもらえたらうれしいな」
その思いを口に出そうとしたら、隣に座る母アデライデが先に口を開いていた。
「トリノで香水を作ってくださらない?」
「はい、聖母様がお望みとあらば喜んで。どのような香りをお望みでしょうか」
「そうねぇ。 ジャン=ステラ、どんな香りがいいと思いますか?」
おふう。お母さまに先を越されたよ。
嬉々としてユートキアにお願いをし、そして僕に香りについて問いかけてくるアデライデ。
さすが、人に
これが、上位貴族のあるべき姿なんだろうなぁ。僕にまねできるかしら。
そんな事を考えながらも、お母さまに香りについての返事をしておく。
「香りですか? 柑橘類の果物の皮を使ったらどうでしょう。甘くて爽やかな香水が出来そうですよ」
「ユートキア輔祭、ではそれでお願いしますね」
「アデライデ様、承知いたしました」
僕の提案を受け入れたお母さまと、香水作成を快諾したユートキアのやり取りが終わるのを見計らい、ユートキア輔祭とニコラス副輔祭に声をかける。
「香水についても一段落したので、蒸留について尋ねた理由を話しますね」
ようやく僕のターン。蒸留について聞いたのは蒸留酒を作って欲しいのでも、香水を作って欲しいからでもないのだ。
そもそも僕がお酒を飲める年齢になるのはまだ先の事。それに、前世の私、藤堂あかりにとっても、お酒に良い思い出はないのだ。職場の親睦会で、よっぱらった先生方のお相手をした事とか、牧場のおじさん達の延々と続く自慢話を聞かされる羽目になったとか。いっそこの世にお酒なんて無かったらよかったのに。
とはいっても、存在するものは仕方がない。多くの人にとってお酒は生きる喜びだと理解はしている。
だから、僕の嫌悪感だけで蒸留酒の作成を止める事はしない。
お金稼ぎにはとっても役立ってくれるだろう。だから別途お願いはしておこう。
でもね、お酒なんかよりも、ずっとずっと優先したい事があるんだ。
できる事なら食料を増産したいと思ってる。
この時代、おなかがいっぱいになるまで食べられる人間なんてごくわずか。
平民はいつも飢えと戦っている。
そんな中、僕だけが美味しいピザを食べたいと言い続けるのは、後ろめたい。
じゃがマヨコーンピザを作るため、僕はアメリカ大陸からジャガイモ、トマト、コーンをヨーロッパに持ち帰らないといけない。そして、アメリカ大陸からジャガイモを持ち帰ったらヨーロッパの食糧事情が改善することはわかっている。
しかし、ジャガイモの有効性を、歴史上の知識として知っているのは僕一人だけ。
それに、ジャガイモを持って帰ってきたらすぐハッピーになるわけではない。
どこかの小説みたいに、一夜の内にジャガイモが無限増殖して、ヨーロッパ全土で栽培できるようにはならないのだ。
芋を増やすためには、収穫した芋を食べず、種芋として来年まで取っておく必要がある。
その間、栽培する手間は増えるだけで、食べ物は増えない。
芋に割いた手間の数だけ、小麦をはじめとする他の作物の収穫は減るだろう。
それが切っ掛けで飢饉が起きる可能性だってあるのだ。
(現実がもっと優しかったらよかったのに)
だからこそ、僕の後ろめたさを解消するためにも、まずは食べ物を増やす事から始めたい。
そんな思いを込めて、ユートキア輔祭とニコラス副輔祭に蒸留の話をするのだ。
「蒸留を知っているあなた方に作ってもらいたいのは、
木酢液は、木材から炭を作る時に出る煙を冷やすと出てくる水である。
水といっても透明ではなく、赤みがかっているし、ちょっと酸っぱく、木を焦がしたような
この木酢液には、いろいろな使い道がある。
土に混ぜれば、土が肥えて収穫量が増える。
葉っぱにかければ、カビが生えるのを防いでくれる。
そして、葉っぱを食い荒らす害虫を減らしてもくれるのだ。
また、木酢液を作る過程で、木材の防腐剤として使えるタールも同時に手に
タールを船底に塗ると船の寿命を伸ばせるから、アメリカ大陸を目指すためにも大切な物資である。
まさに、一石二鳥。
木酢液の作り方とその利用目的について話を終えた僕は、熱心に僕の話を聞いているユートキアとニコラスに発破をかける。
「最初から上手く木酢液を作れるとは限れませんし、上手な使い方を模索する必要もあります」
例えば、木酢液を薄めず植物にかけたら、まず間違いなく枯れてしまう。
「良い事ばかりとは限りません。失敗もするでしょう。ですが、二人にはそれを乗り越えて木酢液、そしてタールの生産に励んで貰いたいと思っています」
(できるかな? できるよね)
少しの間不安げな顔をしていたユートキアとニコラスの2人だったが、意を決したのか真剣な顔付きに戻り、努力することを誓ってくれた。
「ジャン=ステラ様を信じて、生産と利用方法を確立したいと思います」
別に僕を信じなくてもいいんだけどなぁ。
しかし、心の
苦笑しつつ、僕は2人に声をかける。
「大丈夫。僕の知識は、預言なのでしょう? 少しの失敗はすると思うけど、最後には成功することが約束されているからね」
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