第28話 姫騎士とゴディバ夫人
1056年12月上旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
「失礼しますね」
侍女が開けた執務室のドアから、少し疲れた顔の母アデライデが入ってきた。
会議室で行われていた廷臣たちの会議がようやく終わったらしい。
アデライデに続き、侍女たちが飲み物を持って執務室に入ってきた。
湯気がたちのぼるコップが3つ。
そこからほのかに柑橘系の香りがする。
目の前の机に置かれたコップをみて、喉が渇いている事に気づいた。
オッドーネと2人でずいぶん長い間、話をしていたんだな、と改めて思う。
「どんな事を話していたんですか?」
飲み物を準備してくれた侍女たちが執務室から出ていき、3人だけになった後、
アデライデが僕たちに聞いてきた。
「あぁ、皇帝陛下が亡くなられた事。 そしてドイツ往復の道中についてジャン=ステラに話しておいたぞ」
「それに、お父様、お母さまの昔の話も聞かせていただきました」
「昔のお話? ジャン=ステラはどんな昔話を聞いたのですか?」
昔の話を教えてもらった事をアデライデに伝えたら、オッドーネがぎょっとした顔になった。
“それは言ってはダメだ” と慌てて僕に目配せをしてくる。
あれ? 口止めされていなかったよね。
それに、今更アデライデに「何も聞いていませんよー」って言っても遅いと思う。
だから、素直にアデライデの武勇伝と、そこから連想したであろう宮中での噂話を伝えてみた。
「お母さまが若い頃は、騎士だったという話を聞きました」
「ああ、その話ですか。 騎士ではありませんでしたが、騎士みたいな事をしていましたよ」
アデライデは昔を懐かしむような顔で、オッドーネよりも少し詳しく話をしてくれた。
「私の父、オルデリーコには息子がいませんでした。
いえ、正確には弟が1人いたのですが、若くして亡くなってしまったの。」
先代のトリノ辺境伯であるアデライデの父、オルデリーコ・マンフレーディ2世には1男3女の子供がいた。 そのうち成年できたのは女性3名のみで、アデライデの弟は10才の誕生日を迎える事なく亡くなっている。
唯一の息子をなくしたオルデリーコの落胆ぶりは激しかったらしく、その代理が勤まらないかとアデライデは奮闘したのだった。
鎧を着けて馬に乗り、武器の使い方を習得し、戦場での作法を学ぶ。
そして、騎士の華である馬上槍試合も行った事があるそうだ。
馬上槍試合は団体戦と一騎打ちの2種類がある。
トゥルネイと呼ばれる団体戦では横一列に並んだ馬上の騎士たちが距離を置いて相手チームと対峙する。
始まりの合図とともに疾走を開始し、すれ違いざまに槍で相手を馬から叩き落とす。
叩き落とされた騎士はけがをするのは当然。
打ち所が悪く亡くなってしまう事もしばしば発生する荒っぽい競技である。
一方、ジョストと呼ばれる一騎打ちは武器を使う巧みさを競い合う。
馬上の騎士が横向きに対峙した状態から始め、相手を落馬させた方が勝ち。
どちらの競技も戦場で活躍できることを主君や同僚たちにアピールする機会と捉えられている。
だから、力自慢の荒くれ者である騎士達が自分の名誉をかけて全力で戦うのが常である。
“それは、けが人続出するのは当然だよね”
と僕は思う。
実際、あまりにもけが人が多くでるので、教皇庁から馬上槍試合禁止令が何度も発出されているくらいだ。
ただ、騎士の名誉云々の言い訳とともに全く守られていない。
“そんな競技に女性が参加するなんて無茶でしょう?”
昔を懐かしむように話すアデライデには悪いが、あまりにも無謀だと僕は思う。
先ほど父オッドーネが話してくれた母の武勇伝では、せいぜい鎧を着て馬にまたがり、祖父と一緒に領内巡回した程度だと思っていた。
それが、マジのガチで騎士してたなんて。
アデライデの勇気には脱帽である。
「そんな危ない競技なのに参加するなんて、お母さまは勇者ですね。
それにおじい様もよく許可をだしたものです」
当然であるが、女性は男性に比べて体が小さく力も弱い。
だから、真剣勝負で勝てるとは思えない。
もちろん、主君の息女相手には手加減するんだろう。
だけど、勝敗の判定が落馬ではあまり意味がない気がする。
想像してほしい。
鎧という
受け身を取ることも難しいから、頭から落ちたら首の骨くらい簡単に折れるだろう。
落馬をするなら手加減にあまり意味はなさそうだ。
僕の疑問に対して、ちょっと恥ずかしそうにアデライデが実情をおしえてくれた。
「そうね。 最初は団体競技のトゥルネイだけに参加するはずだったの」
多数の騎士が二手に分かれて突撃するトゥルネイなら手加減は可能である。
対戦相手が決まっているわけではないので、全員がアデライデ以外を狙えばよい。
そうすれば、アデライデが落馬することはないだろう。
だから、祖父オルデリーコも参加を許可したのだ。
「きっと手加減されて、私が槍で突かれる事はないと思っていたわ。
それでも、すれ違う時はとても怖かったわよ」
全力疾走する多数の馬がすれ違うのだ。
ドドドドドドドドドっと地響きとともに土を舞い上げながら前から迫ってくる横一列の馬上の騎士たち。
それを迎え撃つ恐怖で身がすくむ。
「私は槍を突き出す事もできなかったわ。私にできたのは落馬しないようにするだけ。」
恐くて目線が下を向いてしまい、ただただ手綱から手を放してしまわないよう夢中だったそうだ。
「だって、恰好わるいでしょ。 槍が当たってないのに、馬から落ちるなんて」
そういって、アデライデはクスクス笑っている。
「お母さまはすごいですねぇ。」
そんなお母さまに対して、僕の口からはありきたりな言葉しか出てこない。
僕が思い描いたイメージ、横一列にならんだ10台の大型バイクが自分の方に突っ込んでくるというもの。
すれ違う隙間はあるけど、すれ違えずぶつかってしまうかもしれない。
唖然とするしかないような乱暴な競技にお母さまが参加したなんて。
本当に、言葉が出てこない。
そんな僕に対して、アデライデはその後の話を語ってくれた。
「そうね。私は落馬しなかっただけ。
だけど、周りの騎士たちは私の勇気を讃えてくれたわよ」
『アデライデ様、万歳! トリノ辺境伯家万歳!』って感じで大騒ぎだったらしい。
「でもね、それで私も調子にのってしまってね。
おだてられた挙句、一騎打ちのジョストにも参加したの」
対戦相手は近衛騎士で最も腕のたつと言われる大柄な男。
背中を突かれて馬の首につっぷした所を横向きにころがるよう馬から落とされたそうだ。
「全く相手にならなくって負けたけど、いい経験になったわ。
それにね、馬上槍試合に参加したからこそ、今の自分があるのよ」
女の身でありながら馬上槍試合に参加した事によって、アデライデは騎士たちに自分たちの仲間だと認められた。
認められたからこそ、アデライデがトリノ辺境伯家の当主となった後、自身で軍を統率することができたのだ。
もちろん、当時からアデライデは後継者だったから、認められなかったとしてもいずれ軍の指揮をとる立場にはなったであろう。
だが、現場も知らない女領主が軍を指揮しようとしても、騎士たちは従わなかったにちがいない。
騎士のほとんどは、トリノ辺境伯領に多数ある村の領主、あるいは領主一族である。
従わないという事はトリノ辺境伯の影響下から抜け出し、他の領主を主君とし、その庇護下に入ることを意味する。
すなわち、トリノ辺境伯領内は内乱勃発の危機、そして他領主との戦争が始まりかねなかった。
祖父から母アデライデへと代替わりした後、内乱が発生する事もなくスムーズに権力が継承されたのは、元を辿ればアデライデが「トリノ辺境伯家の姫騎士」と称賛される理由となった馬上槍試合に行きつくのだ。
「ちょっと長く話し過ぎてしまったわね」
そう恥ずかしそうに言うアデライデに対して、オッドーネは驚きを露わにしている。
「アデライデの噂話が本当の事だったとは知らなかったぞ」
「姫騎士」の噂は結婚前から聞いていたが、領地を掌握するために誇張された話が吹聴されているとオッドーネは思っていた。
「だから、お母さまの話とゴディバ夫人の話とを同じような噂だとお父様は言っていたのですね」
僕の一言にオッドーネの顔色が変わった。
「いや、それはだなぁ。」
その変化を敏感に感じ取ったのか、アデライデがオッドーネに問いかけた。
「あら、オッドーネ様なんのお話をジャン=ステラにお話ししたのですか?」
「いや、まぁ。 あのな。他愛のない話だよ。 そう、ゴスラーの宮殿で流れていた遠くの国の噂話。
アデライデ、君が気にするような事じゃない。」
今話題にのぼったゴディバ夫人とは、イギリスはマーシア伯爵の妻である。
だから、オッドーネが言うようイタリアからみればイギリスは遠くの国の噂話である。
だったら、もっと平然としていればいいのに。
歴戦の勇者のはずのオッドーネも、アデライデの前ではタジタジである。
「あら、噂話なら話してくださればいいじゃないですか。
ジャン=ステラ、あなたもそう思いません?」
「はい、お母さま。 僕もそう思いますです。」
お母さま、鋭すぎです。 話し方も表情も優しいままなのに、なんか怖いです。
僕の口調が変になっちゃってるよ。
「でもね、お母さま。 ゴディバ夫人の噂話って本当に単なる噂話なんですよ。」
「あら、そうなの?」
不思議そうにこちらを見てくる母アデライデ。
耳は僕の方を向いているが、視線は父オッドーネの方を向いている。
“単なる噂話なら、なぜオッドーネ様の態度が変なの”
とアデライデの目が雄弁に語っている。
一方のオッドーネの顔には “ジャン=ステラ、言わないでくれー” って書いてある。
「お父様、別にいいじゃありませんか。 ゴディバ夫人の美談なんでしょう?」
「まぁ、そうなんだが...」
ごにょごにょと口ごもるオッドーネに代わり、僕がアデライデに説明する事にする。
「イギリスのマーシア伯爵がひどい政治を行っているらしいのです」
マーシア伯レオンフリックはコベントリーという町に重税を課している。
このままでは生活が成り立たない、というくらい税金を絞り取られていたそうだ。
そこで町民たちは司教に税金を安くしてほしいと歎願をしたのだが、伯爵は受け入れなかった。
ここで登場するのがゴディバ夫人。
敬虔なキリスト教徒である彼女は、司教に代わって夫である伯爵に減税を何度も何度もお願いをした。
このお願いを何度も突っぱねた伯爵だったが、ゴディバ夫人の執拗なお願いにとうとう根負けしたのだ。
ただし、無条件ではなく、ある条件をゴディバ夫人がのめば減税しようと約束した。
結果、ゴディバ夫人は奮闘により、コベントリーの町民は重税から解放されて、しあわせに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。
「というわけで、ゴディバ夫人のお陰でコベントリーが繁栄している、という噂話ですよ、お母さま」
「そうなんですか。ジャン=ステラ、教えてくれてありがとう」
僕の説明にアデライデは素直に感謝してくれた。
父オッドーネは僕が核心に触れずに話をまとめた事にホッとしているようだ。
一方のアデライデといえば、何か腑に落ちない、という顔をしている。
「別に普通の話だと思うのだけど。 どうしてオッドーネ様はそんなに慌ててらっしゃったのですか?」
「いやぁ、それはだなぁ」
オッドーネがちょっと焦っているけど気にしない。
“それはですねぇ、お母さま。
伯爵がゴディバ夫人に出したのが「馬上、裸になって町を一周しろ」という条件だったからですよ。
お父様は、馬にまたがってという部分で、お母さまの姫騎士物語と一緒にしていたんですよー。
ひどいですよねー ”
と暴露するのは止めておいた。
まぁ、宮廷での男どもにとっては他愛のないゴシップだったのだろう。
それに、ゴディバ夫人を貶めるわけではなく、逆にその勇気と神に対する敬虔さを称揚しているとオッドーネは言っていた。
表向きだけかもしれないけどね。
それでも遠い未来には、ゴディバ夫人をシンボルとする有名なチョコレートメーカーが存在するのだ。
ヨーロッパでも日本でも大人気のチョコレートで、亡きおばあちゃんの大好物だったなぁ。
そう思うと、「セクハラやめて!」とばかりに、藤堂あかりが培ってきた前世の感覚でオッドーネを非難するのも憚られる。
そっと溜息をついて気持ちを切り替えた後、僕は話を本題にもどそうと声をかけた。
「ゴディバ夫人のお話はさておき、宮中で得られた情報を教えてもらえませんか」
ーーーーー
あとがき:
アデライデ・ディ・トリノが騎士の真似をしていた逸話は、イタリア語のwikipedia には載っています。
日本語版には残念ながら載っていませんでした。
ゴディバ夫人(990年頃ー1067年)の話は、伝説ではあっても史実ではないらしいです。
一体、どこで生まれたお話なんでしょうね。
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