第22話 そういえば婚約者がいたっけ
1056年9月中旬 イタリア北部 ピエモンテ州 トリノ ジャン=ステラ
明日になったら父オッドーネはドイツのゴスラーへと出立する。
死期が近づいている神聖ローマ皇帝ハインリッヒ3世の元へと駆けつけるのが理由の一つ。
もう一つは、ゴスラー宮殿で花嫁修業をしているベルタに会うためである。
今年5才となるベルタは父オッドーネと母アデライデの次女。
1年前のクリスマスの日、ハインリッヒ4世と婚約し、そのまま婚約者と一緒に育てられている。
貴族社会でも婚約者が一緒に育てられる事は稀らしいので、まぁ、体の良い人質ってところかな。
そんなこんなで慌ただしい真っ只中ではあるのだが、今のうちに父や母と話し合っておく事があり、執務室に呼び出された。
侍女のリータに抱えられて子供部屋を出る時、アデライデ
“またジャン=ステラなの?”
別に僕だって好き好んで執務室に呼び出されているわけではないんだけどなぁ。
その言葉を胸にしまい、できるだけ明るい声でアデライデ
「また、あとで遊ぼうねー」
今度はあやとりでも教えてみようかな。
兄たちも一緒なら、3目並べや石とりゲームがいいかな。
一番上の兄ピエトロは8才のわんぱく盛り。
2才児の僕に対しても力加減をあまりしてくれないから、体を使った遊びは無理だよね。
いや、その前にじゃんけんを覚えてもらおう。
そう考えているうちに、執務室に到着した。
◇ ◆ ◇
「おお、来たか」
「ごきげんよう、ジャン=ステラ」
父のざっくばらんな挨拶と、母の少し畏まった挨拶が僕を出迎えてくれる。
「お父様、お母さま、ごきげんよう」
相変わらず執務室の机の上には、丸まった羊皮紙と木札が積みあがっている。
なんだか前来た時よりも羊皮紙の山が高くなっている気がする。
「前来た時よりも増えていませんか?」
つい、思った事を口に出してしまったら、父オッドーネから即座に突っ込まれた。
「ああ、ほとんどがお前に関係する書類だがな」
「あらら、それは失礼をばいたしました」
僕は左手を胸にあて、右手を少し後ろに回してお辞儀をした。
執務室の側仕えがこんな礼をしていたのを思い出し、見よう見まねで試してみた。
なんか、見ていてカッコよかったから、一度してみたかったんだよね。
そしたら、一瞬、静まり返った後、父に爆笑されてしまった。
「うわっはっは、なんだそれは」
執務室にいた側仕えと侍女たちもくすくす笑っている。
悪い感じの笑い方ではなく、微笑ましいものを見たときの好意的なものだったからいいんだけどさ。
でも、僕はなぜ笑われているのかわからない。
「えーと、 お父様、なぜ僕は笑われているんですか? 」
すこし、頬をふくらましてそういうと、今度は側仕えたちもこらえきれないとばかりに笑い声をあげた。
「すまん、すまん。 2歳児が畏まった言葉遣いで、執事の礼なんてするもんだから、つい、な」
「そうですね、笑いのツボにはまってしまったみたい」
お父様の弁解の言葉に続いて、左手で涙を拭くような仕草をしながらお母さまが追撃の一言を言い放った。
別に笑わせようとおもって行ったわけじゃないのになぁ。ちょっとへこんじゃうよ、僕。
「お父様もお母さまもひどい! 礼儀作法に
「そうだな。申し訳なかった」
「いいですよ、もう。」
まだちょっと拗ねていた僕を母アデライデがそっと抱きしめてくれた。
「ジャン=ステラ、ごめんなさいね。別にからかうつもりはなかったのよ」
「いいですよ、もう」
今度は優しい声で僕は同じ言葉を紡いだ。
「そうだなぁ。せっかくだから礼がもっと上達するようにアドバイスをしよう」
オッドーネが側仕えにお手本を見せるよう指示をだす。
「何が違うかわかるか?」
と父に問われるが、正直な所、僕にはさっぱりわからない。
そもそも自分が礼をする姿を見たわけではないから、違いを聞かれても困るのだ。
姿見の鏡があればよかったのに。
首を振ってわからない事を伝えると、オッドーネが違いを教えてくれた。
それは、簡単な事だった。
お辞儀の角度が深すぎたのだ。
“お辞儀の角度は45度で”
前世で習ったマナー講習では、最も敬意を表すお辞儀の角度が45度だと習った。
一方でこちらの礼は、右足を後ろに下げながら、ちょっとだけ頭を傾ければよいらしい。
さっき僕がした礼は頑張って頭を下げたから、60度くらい傾いていたかもしれない。
そりゃ、大人のマネをしたつもりの子供がかわいい失敗をした、みたいに見られも仕方ないよね。
「さて、本題に移ろう。 皆は下がってくれるかな」
オッドーネが側仕えと侍女に執務室から出ていくように命じる。
あれ? 人払いをしなければならないような話ってあったっけ?
しばらくして側仕えと侍女が出ていった後、オッドーネに聞いてみた。
「今日のお話って人払いが必要なんですか?」
「普通なら不要だと思うが、お前の場合、何をぽろっと口に出すかわからないからな。
念のためだ、念のため。」
「そうですね、 後で口止めなどの処置をするよりも、先回りして対処しておいた方が楽ですものね」
まぁ、たしかにそうかな。
口が軽いというよりも、何を話したらダメなのかの判断ができないんだよね。
自分の言動に責任が持てない以上、人払いをするという判断は正しいのだと思う。
今日のお話の内容は3つあると事前に聞かされていた。
1つ目はトリートメント、2つ目は僕に家臣を1人つけてくれること。
そして3つ目はギリシア正教会の修道士をトリノに招きたいのでその算段について。
「まずはトリートメントの話ね」
アデライデが話始める。
トリートメントを入れるためのガラスの容器が5つ準備できたと教えてくれた。
“たった5つだけ?”
と思ったが、トリノ特産品として皇族に献上しても問題ない品質の容器をこの短時間に準備できたのはすごい事だったらしい。
「トリノの職人はすごいのですからね」
生まれ育った愛着のある土地だからか、アデライデが自分事のように自慢する。
郷土愛が強い事はいい事だと思うよ、うん。
「それでだ、この5つを誰に渡すかと、利益の分配を決めておこうと思う」
オッドーネがアデライデに続いて話しだした。
「トリートメントをどうするかは、お父様、お母さまにお任せしませんでしたっけ。それに利益って、皇族に献上するんですよね」
利益が出るのかと不思議そうな顔をする僕に物事を教えるような口調でオッドーネが話を続ける。
「まあ、そうなんだが。お前にも関係する事だからな話を通しておくのだと思ってくれ」
明日ドイツに向かって出発するオッドーネが5つのトリートメントを全部持っていく。
そして、皇后アグネス、次期皇后予定者である姉ベルタ、そしてハインリッヒ3世の末の娘であるユーディットに献上するとの事。
皇后と次期皇后に献上するのはいいとして、末娘のユーディットだけなんで特別扱いするんだろう?
皇帝ハインリッヒ3世には、たしかユーディット以外にも娘がいたはず。
「皇帝陛下には他にも姫様がおられたかと思いますが、末娘のユーディット様だけに献上するのはどうしてなのですか?」
僕がそういうと、オッドーネとアデライデはお互いに顔を見合わせて、
「やはり覚えていなかったか」
と納得しあっていた。
「ユーディット様はあなたの婚約者ですよ」
そういえば、ローマ教皇とマチルダお姉ちゃんがトリノに滞在していた時、そんな話を聞いたような、聞かなかったような。
ちょっと顔をしかめたあと、まあいいやと開き直った。
「うーん、そうだったのですか。覚えていないです。」
あっけらかんと忘れていたと言い放った僕に対して、父と母は少しあきれ顔になっていた。
「まぁ、2歳児に結婚なんて言ってもイメージわかないし、覚えていられないよなぁ」
「それに、まだ正式に婚約を交わしたわけでもないですからね」
皇帝ハインリッヒ3世と父オッドーネの間で婚約は約束されている。
しかし神に報告、というか教会で婚約の取り決めを交わしていないので、まだ公式な婚約とはなっていないようだ。
ふむふむ、そんな慣習があるんだね、とまったく他人事としか思えない自分がいる。
前世でも結婚していなかったし、さらに相手が2才の幼女ですよ。
“いや、わたしレズでも幼女趣味でもないんですけど…”
前世の知識が邪魔をして、女性と結婚することに違和感がありまくり。
違和感というか、そこはかとない嫌悪感が心の中で浮き沈みしている。
せめて、他人事だと思っておかないと心の平静が保っていられないかもしれない。
僕と一緒で女性だったらそうだろうなぁ、と理解できるんじゃないかな。
そして男性諸君は想像してほしい。
転生したら女性になっていて、幼稚園児の男の子と結婚する事を迫られた。
ホモでもショタでもなければ、“えー、まじかー” ってがっくりだろう。
こちらの世界で過ごす時間が長くなったら男だという意識も育つのかな?
って、あれ? マチルデお姉ちゃんは可愛いって思ったのはなんで?
ーーー
ジャン=ステラ もしかして僕、年上趣味?
オッドーネ 初恋は年上のお姉さんが多いらしいぞ
ジャン=ステラ 年上のお兄さんが今世の初恋相手になるよりはまし?
オッドーネ (中世の)キリスト教で同性愛は神への冒涜、 殺害対象だぞ
ジャン=ステラ 衆道が盛んな日本の戦国時代だったらセーフなのにね
ちなみに、ジャン=ステラは2才で、マティルデ・ディ・カノッサは11才です。
婚約者のユーディット姫はジャン=ステラと同じ2才です。
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