第592話 サインは…

 ノーアウト二塁となり、カウントはノーボール、ワンストライク。

 そして2球目。

 光村選手はヒッティングに行ったが、ファール。

 これでノーボール、ツーストライク。

 

 そして3球目。

 僕はスタートを切った。

 一心不乱に三塁ベースを目指す。

 そして横目で見ると、投球は低目へのボール球のようだ。


 滑り込むと同時に、送球が来た。

 どうだ?

「セーフ」

 よっしゃあ。

 僕はガッツポーズした。

 京阪ジャガーズベンチはリクエストはしないようだ。


 ふと見ると、光村選手は三振したようで、ベンチに帰っていった。

 もちろん、僕にはわかっていた。

 光村選手は僕の盗塁を助けるために空振りをしてくれたのだ。


 ありがとう。

 帰りに牛丼の特盛りでもご馳走してやろう。

 僕は財布の中身を思い出しながら、そう心に誓った。


 これでワンアウト三塁で、バッターは谷口。

 谷口にとって打点を上げる大チャンスだ。


 僕は三塁ベース上で、ベンチのサインを確認した。

 えーと、あのサインはスクイズ…、じゃなくて、何だ?

 盗塁に見えるが…。

 もっとも盗塁しろ、ではなく、盗塁ができれば狙え、というサインだ。


 嘘だろう。

 幾ら何でも、ありえない。

 僕は自分の顔から笑みがこぼれるそうになるのを、必死に我慢した。

 面白いじゃん。


 もし本当に万が一、ホームスチールなんて決めた日には、盗塁王争いは3個差になる。

 でもいくら小説でもチートすぎないだろうか。


 ベース上から大平監督と目が合った。

 大平監督は大きく頷いている。

 この試合は大平監督にとってもラストゲーム。

 最後にホームスチールをさせて、思い出深いものにしたいのかもしれない。


 ホームスチールが成功しやすい条件は幾つかある。

①相手が左ピッチャーであること(セットポジションの時に一塁側を見ているから)

②遅い変化球を投じた時(カーブ、チェンジアップなど)

③バッターが右バッターの時(キャッチャーにとって死角になるから)


 宗投手は右投手であり、160km/h前後のストレートを投げるし、変化球もツーシーム、スプリットなので遅くても140km/h台である。

 よって条件の①、②は当てはまらない。

 谷口は右バッターなので、③は当てはまる。

 ホームスチールを決めるには、条件は良くない。


 そして1番大事なのは、相手が警戒しているかだ。

 初球。

 内角へのストレート。

 谷口は見送り、ボールワン。

 牽制球は1球も来なかった。

 

 キャッチャーは、水戸捕手。

 高卒2年目の期待の若手だ。

 経験を積ませるために、シーズン終盤になって一軍に昇格した選手だ。

 水戸捕手は宗投手に山なりでボールを返した。

 

「次行くぞ」

 僕はリードしながら谷口へ、手を表裏させて見せた。

 谷口は無表情で、バットを少し高く掲げた。

 これは僕と谷口との間での、盗塁のサインだ。


 そして2球目。

 外角へのスプリット。

 谷口は空振りした。

 だが僕はスタートを切らなかった。


 そして水戸捕手が送球すると同時に僕はスタートを切った。

 水戸捕手はゆったりとした動作で、山なりのボールを返す癖がある。


 後は何も考えず、ホームベースを目指すだけだ。

 そして僕はホームベースに足から滑り込んだ。


 宗投手からの送球はワンバウンドした。

 水戸捕手は体でボールを止めたが、タッチはできなかった。

「セーフ」

 ベンチ、観客席が大きく涌いている。

 すでに盗塁王争いも2個差になっており、さすがにここでホームスチールを狙うとは相手ベンチも観客も予想していなかったようだ。


 やったぜ。

 僕は大きくガッツポーズして、ベンチに戻った。

 これで盗塁王争いは3つ差をつけた。


「バカも振り切れると、なかなかのものだな」

 大平監督が腕組みをしながら、笑みを浮かべながら言った。

「ホームスチールのサインを出す方も、なかなかのものだと思いますよ」

「ハッハッハ、確かに」

 大平監督は愉快そうに笑った。


 いずれにしてもこれで盗塁王はほぼ当確となった。

 僕と大平監督のこのチームでのラストゲーム。

 最後まで全力をつくす。 

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る