第536話 油断大敵
スタートを切った後は余計な事は考えず、ひたすら二塁ベースを目指す。
無心になりトップスピードに乗る瞬間が僕は好きだ。
辺りがまるでスローモーションになったように遅く感じる。
これこそ、盗塁の醍醐味だと思う。
投球は内角へのストレートのようだ。
湯川選手はバットを振った。
これは僕へのサポートである。
ちなみにこの盗塁は僕の意思ではなく、サインプレー。
よってアウトになっても僕のせいではない。
そう考えると、気は楽である。
楠捕手からの送球はセカンドよりの素晴らしいところに来た。
ベースカバーに入ったショートの田宮選手は、捕球と同時に僕の足にタッチに来た。
タイミングはアウトかもしれない。
だが僕だって伊達に盗塁王を争っていない。
ややセンターよりに回り込むように滑り込んだ。
「アウト」
一拍置いて、二塁塁審の手が上がった。
僕はもちろんベンチにリクエストを要求した。
大平監督が出てきて、リクエストをした。
そしてリプレー検証に入った。
もっとも僕自身はセーフを確信していた。
タッチを受けた感触よりもベースタッチの感触の方が早かった。
大型ビジョンにさっきのリプレー映像が流れ、小さな拍手と「あーあ」という嘆息が球場内を包む。
つまり岡山ハイパーズファンの目でも、セーフに見えるのだろう。
2、3分して審判団が出てきた。
「セーフ」
やっぱりそうでしょ。
僕は無表情を装って、二塁ベースについた。
これで今シーズン、27個目。
盗塁数でトップに並んだ。
今日は3打数3安打、ホームラン1、盗塁2。
このまま勝ったら、ヒーローインタビューかな。
視界に難しそうな、渋い顔をしている新川広報の顔が目に入った。
最近の新川さんは色々と悩み事があるようである。
広報の仕事は見かけほど、気楽ではないのかもしれない。
ノーアウト二塁となり、バッターは引き続き2番の湯川選手。
追加点のチャンスだ。
そして3球目。
湯川選手はヒッティングの構えから、バットを横にした。
送りバント。
手堅く追加点を狙う作戦だ。
だが投球が外角高めへのツーシームだったことが災いし、ボールは少フライになってしまった。
ヤバい、と思った時には既に楠捕手が打球をノーバウンドで捕球しており、すぐさま二塁に投げられた。
僕は戻れずアウト。
ノーアウト二塁が一気にツーアウトランナー無しになってしまった。
「今のは仕方ないよ。
バントの上手い湯川選手が失敗するなんて、思わないよね。ドンマイドンマイ」とは誰も言ってくれない。
僕は冷たい視線を背に受けながら、トボトボとベンチに戻り、隅の方に座った。
「すみませんでした」
同じく隅に座っていた、湯川選手が声をかけてきた。
「仕方ないさ。
失敗は誰にでもある」
「そうだ、失敗は誰にでもある。
だが今のはちょっと頂けない。
お前、もし湯川が空振りしたら、そのまま三塁を狙おうとしていただろう」
金城ヘッドコーチがいきなり振り向いて言った。
チッ、バレていたか…。
今のバントはサインプレーであったが、もし湯川選手が空振りし、相手バッテリーに隙があれば三塁を狙おうと考えていたのは否めない。
「いいか、今はうちが優勢になっているが、このプレーで流れが変わることもあるんだぞ」
「はい、スミマセン」
でも4点差あるし、須藤投手は調子良いし、まだまだうちのチームが優勢だと思う。
そう考えていたら、3番の道岡選手が凡退し、イニングチェンジになった。
さあ5回裏を抑えると、あとはKLDSが控えている。
4点差あるし、今日は快勝かな。
そんな事を考えていたら、ツーアウトを取ってから須藤投手の投球が急に乱れだした。
2人連続でフォアボールを与え、ツーアウトながら一、二塁となった。
いずれもフルカウントからのフォアボール。
どちらも決して明らかなボール球では無かったが、球審の腕は上がらなかった。
僕らはマウンド上に集まった。
「4点差あるから、仮にホームランを打たれても1点勝っている。
思い切って投げろ」
武田捕手の激に、須藤投手は頷いた。
あとワンアウトで勝ち投手の権利を手にできる。
もう一踏ん張りだ。
ここで迎えるバッターは、トップに帰って、僕と盗塁王を争う高輪選手。
長打力もあるので、警戒が必要だ。
そう思っていた初球。
スコーン。
打球は大きな弧を描いて、バックスクリーン横に飛び込んだ。
見事なスリーランホームラン。
あらららら…。
これで4対3。
ほらな、言わんこっちゃない。
金城ヘッドコーチが腕組みをして、首を振っている。
でもまだ1点勝っている…。
そう思っていたら、続く4番の倉田選手にもツーベースヒットを打たれた。
ここで大平監督が出てきた。
ピッチャー交代。
勝ち投手まであと一人だったのに…。
油断大敵。
呆然とした表情でマウンドを降りた須藤投手を見ながら、改めてそう思った。
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