第489話 引退後の生活について、本気出して考えてみた
僕はふと内沢さんの腕に嵌めている時計を見た。
時計にはあまり詳しくないが、かなり高価なものであろうことはわかる。
内沢さんは僕の視線に気づいた。
「ああ、これか。現役を引退して、車もマンションも手放したが、この時計だけは絶対に手放さないことにしているんだ。
これは俺がプロ野球選手であった、証だからな」
そう言って、内沢さんは左腕に嵌めている時計を見せてくれた。
確かに普通の会社員が嵌めているものとしては、高価ものだろう。
「今になって後悔しているよ。
もっと野球に一生懸命に打ち込めば良かったってな。
俺はプロ生活の最後の方は、野球が面白くなくなっていた。
もっと言うと、嫌いになりかけていた。
だから引退して、会社員になってしばらくは野球から一切距離を置いていた。
だが、知人の頼みで臨時コーチをした時に、あいつらと出会って…」
そう言いながら、内沢さんは遠くでキャッチボールしている子どもたちを見た。
そして僕の方に顔を向けた。
「野球の楽しさをもう一度、思い出したんだ。
やっぱり野球は楽しいよな。
投げて、打って、守って、走って。
俺はプロに入って、大金をもらってその楽しさをどこかに忘れてしまったのだろうな」
内沢さんはそう言いながら、立ち上がった。
僕もつられて一緒に立ち上がった。
「今日は会えて良かったよ。
来てくれてありがとな。
高橋、本当にお前は良い選手になったな。
俺は心から嬉しいよ。
お前も谷口もプロ野球選手だけど、楽しそうに野球をやっているように見える。
俺も本当はお前らみたいになりたかった。
だがまだ遅くは無い。
俺はあいつらに野球の面白さを伝え、そしていつか教え子の中から、お前らみたいなプロ野球選手を育てる。それが俺の今の夢だ」
そう言って、内沢さんはニャリと笑った。
それは昔の内沢さんからは想像のできない、素敵な笑顔だった。
「さあ、練習再開するか。
忙しいところ悪いが、もう少し付き合ってくれるか?」
「はい、もちろんです」
僕らは並んで、子供たちのところへ歩いて行った。
「次は俺と高橋選手の真剣勝負だ」
そう言って、内沢さんはボールを掴み、マウンドに向かった。
キャッチャーは球団スタッフの戸田さん(もちろん野球経験者)、そして駒内選手がセンターのポジション位置についた。
「行くぞ、3球勝負だ。
負けたらお前、毎週コーチに来いよ」
すごい無理難題だ。
「僕が勝ったらどうするんですか?」
「そりゃ、お前が勝って当たり前だろう。
まあ、お前が勝ったら、ラーメンでも奢ってやるよ」
「ギョウザはつきますか?」
「ああ、チャーハンもつけてやる」
それなら負けられない。
初球。
外角へのストレート。
かなり速い。
140km/hは出ているのではないか?
2球目、チェンジアップ。
空振りしてしまった。
子供たちが大きく湧いている。
ずるい、変化球を投げるなんて。
そして3球目。
内角低目へのストレート。
思い切り打ち返した。
打球はレフト方向に飛んでいる。
完全にヒットコースだ。
だが忘れていた。
センターにいるのは、外野守備の名手、駒内選手だ。
全速力で打球に追いつき、グラブを横に出し、地面スレスレで何と捕球してしまった。
あの打球を取るか?、普通。
子どもたちは大いに湧いている。
やばい、これから毎週末ここまで来ないといけない。
「まあ、今のはヒットだな。
普通のプロ野球選手では今のは捕れない」
内沢さんが助け舟を出してくれた。
「え?、俺捕ったけど…」
駒内選手が戻ってきて、グラブからボールを取り出して、内沢さんに渡した。
「まあ、口止め料として駒内選手にもラーメンとギョウザとチャーハン奢るから、許してくれや。高橋が…」
「まあそれで手をうつか。言っとくけど、俺は大盛だからな」
え?、僕が駒内選手の分を出すのか。とんだ出費だ。
「俺も見てましたけど…」
キャッチャーをやっていた球団スタッフの戸田さんが、キャッチャーマスクを外しながら言った。
「わかりましたよ。口止め料として、戸田さんの分も払いますよ」
僕はやけになって言った。
1人分も2人分も大して変わらない。
レシートをもらって結衣に渡さないと。
練習が終わり、僕ら4人は内沢さんの行きつけだという町中華に入った。
壁には幾つか、有名人のサインが貼っており、その中には静岡オーシャンズ時代の内沢さんのサインもあった。
それを見ていると、後で書いて欲しいと店主が色紙を持ってきた。
悪い気はしない。
「今日はありがとうございました」
内沢さんが僕らに頭を下げ、僕と駒内選手にビールを注いだ。
戸田さんは帰りの車の運転があるので、酒は飲めない。ジンジャーエールを飲んでいる。
「いえいえ、僕も楽しかったですよ。ねぇ、駒内さん」
「ええ、たまに子どもたちと触れ合うのも楽しいもんですね。
しかし良く教育されていますね。
挨拶も良いし、並ぶ時はキビキビしているし」
「ありがとうございます。
野球はチームプレーなので、個人個人が我を出すのではなく、フォザ・チームというのを教えたいと思っています。
子どもたちにも才能がある子もいれば、作者の子供時代のように、野球は好きだけど運動神経が数本切れているような子もいます」
そう言って、コップに入ったビールを一口飲んだ。
「でもみんながプロを目指すわけではないし、目指せるわけでもないです。
そこにはやはり持って生まれた、才能というものもあります。
だから、せめて野球の楽しさを知ってもらいたい。
大人になっても野球を好きでいて欲しい、そう思ってあいつらを指導しているつもりです」
そう話している内沢さんの目は輝いているように見えた。
静岡オーシャンズで一緒にプレーしている時には見たことがない表情だ。
「内沢さんは仕事は何されているんですか?」
「ああ、知人の紹介で内装業の会社で働いている。
日々勉強でなかなか大変だけど、その分、新しい知識が身につくのも楽しいよ」
そう言いながら、たった今テーブルに置かれたギョウザを一つ食べた。
「ああ、どうぞ皆さんも食べてください。
ここのギョウザ、手作りでなかなか美味いんですよ」
僕らも箸を付けた。
サイズは小ぶりであるが、噛むと肉汁が口の中に溢れて、なかなか美味しかった。
チャーハンも油でベタついておらず、良く火が通っている。
パサッとして、それでいて味が濃厚でこれも美味しかった。
ラーメンもスープはやや薄味だが、それでいて複雑な味わいで、やはり美味しかった。
濃い味のチャーハンとも良く合う。
派手さはないが、さすが昔から常連に愛されている町中華の味だ。これも一つのプロだ。
結局、支払いは全て内沢さんがしてくれた。
「気にするな。
これでも現役時代の貯金がそれなりに残っているし、今もそこそこは稼いでいる」
マンションや車を売ったのは支払いが苦しかったというわけではなく、普通の会社員として生きていく上でのケジメだったそうだ。
「この時計は俺がプロ初ホームランを打った時に、今の誉田監督からプレゼントしてもらったものだ。
だからこれだけは手放さず大事に使っていく。
そしていつか息子が成長したら、やろうと思っているんだ」
引退しても、生活水準を落とせず苦労したという話を良く聞く。
その点、内沢さんは当時から付き合っていた、今の奥さんの支えもあり、順調に第二の人生に進めたのだろう。
「ご馳走様でした」
「おう、またいつか遊びに来いよ。
俺もいつか札幌に試合を見に行くからな」
「はい、その時は是非連絡下さい」
車は動き出し、内沢さんは見えなくなるまで手を振っていた。
今日、内沢さんに会えて本当に良かった。
僕にもいつか引退する日が来る。
そして引退後の方が人生は長い。
引退しても、内沢さんみたいな人生を送れたら良いな。
そう思った。
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