第486話 杉澤さんの引退セレモニー
「放送席、放送席、今日のヒーローは9回裏、ワンアウト満塁からサヨナラデッドボールを受けた、原谷捕手です」
パチパチパチ。
球場内から、拍手が上がった。
いつもより、小さめに感じる。
ファンの方々もどのように反応して良いか、戸惑っているのだろう。
「9回裏のあの場面、どんな事を考えていましたか?」
「はい、どんな形であれ、三塁ランナーをホームに返すことだけを考えていました」
「デッドボールが当たった瞬間。
腕を抑えていましたが、かなり痛かったのでしょうか」
「はい、多分痛かったと思います」
多分って何だ。
それは大して痛くなかったと同義語だろう。
「今日の試合、ドラフト同期の杉澤投手の引退試合ということで、気合が入っていたのではないですか?」
「はい、そのとおりです。
杉澤さんの球を受けられるのは、これが最後だと思うと、感慨深いものがありました。
そして今日の試合、僕をスタメンで使ってくれた首脳陣にも感謝しています」
「原谷捕手に取って、杉澤投手とはどんな存在でしたか?」
「はい、憧れであり、頼もしいピッチャーでした。
入団時、いつか杉澤投手とスタメンでバッテリーを組むことが目標だったので、この杉澤投手の最後の試合でバッテリーを組めて嬉しかったです。
そしてこの試合、スタンドのどこかでドラフト同期組の皆が見てくれているはずです。
今日、静岡オーシャンスタジアムに同期7人が再び揃うことができて、とても嬉しいです。
見ていますか、竹下さん、飯島さん。
そして谷口、高橋、三田村!!」
長げぇよ。
僕は呆れながら呟いた。
「ドラフト同期の皆さんが、この球場に駆けつけてくれているんですね」
「はい、引退された方も、チームが変わった奴も、チームスタッフとして復帰した奴もいますが、同期の絆は永久に不滅です」
まるで原谷さんの引退試合みたい。
相変わらずKYな人だ。
「今シーズンはこれで最終戦ですが、来季に向けた抱負を一言お願いします」
「はい、抱負は豊富にあります」
あーあ、やっちゃった。
一気に球場内が冷え込んだ。
杉澤投手の引退セレモニーを前に、球場内を冷やしてどうするんだ。
ヒーローインタビューが終わり、次は杉澤投手の引退セレモニーだ。
かって左のエースとして活躍し、ここ数年は故障に苦しんだが、ファンの方々は復活を待ち望んでいた。
残念ながら、手術をしてもかっての球威を取り戻すことはできなかったが、ファンの目にはかっての勇姿が焼き付いているのだろう。
杉澤投手は今日の引退試合を一度は断ったらしいが、引退発表後のファン、そしてスタッフからの声を受け、これまでの御礼として引き受けることにしたらしい。
(球団としても引退グッズが売れるし…)
準備が出来、球場内の照明が落とされ、マウンド前にマイクが立てられた。
「さあ、これより杉澤投手の引退セレモニーを始めます。
杉澤投手、前の方にお進みください」
ファンの大きな拍手の中、杉澤さんはベンチを飛び出し、マイクの前に立った。
まずはバックスクリーン横の大型ビジョンをご覧ください」
司会のアナウンサーの声に続き、大型ビジョンに映像が流れ始めた。
まずはドラフト会議での抽選と当時の田中大二郎監督がクジを引き当てた瞬間、そして入団記者会見時の映像。
当然、端の方に僕も映っている。
相変わらずイケメンだが、まだ初々しいというか青々しい。
懐かしいな。
あれから9年も経ったのか…。
その後、杉澤投手がエースとして活躍している姿、そして手術後のリハビリ時の姿、昨年の復活登板と最後に今日の試合の映像が流れた。
そしていきなり画面が切り替わり、札幌ホワイトベアーズのユニフォームを着た僕と谷口の映像が流れた。
「杉澤さん、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした。また忘年会でお会いしましょう」
一昨日の試合終了後、ビールかけに行く前に撮った映像だ。
次に画面が切り替わり、居酒屋の映像が流れた。
竹下さんと飯島さんが映っている。
「杉澤、お疲れ様。
これからは試合を気にせず飲めるな」
「これからは飲み友達だ。乾杯」
カッチーン。
二人でビールジョッキを合わせた。
そうか、この映像を取るために昨夜9時に集まったのか。
「杉澤さん、お疲れ様でした」
「でした」
今度は静岡オーシャンズのユニフォームを着た原谷さんと、ジャージ姿の三田村が映っている。
そして入団時の田中大二郎元監督や、その後を継いだ君津元監督、現在の誉田監督、トーマス・ローリー他、かって一所にプレーした選手の映像メッセージが流れ、最後に奥さんと子どもたちのメッセージが流れた。
もちろんご家族はこの場に来ている。
そしてマイク付近が照明で照らされ、杉澤さんの挨拶が始まった。
「まずは今日、このような場を設けていただいた、静岡オーシャンズの方々、そしてファンの皆様、そしてこれまで僕を支えてくれた全ての皆様に御礼申し上げたいと思います。
ありがとうございました」
そう言って、杉澤さんは深々と頭を下げた。
「9年前、ドラフト1位で指名して頂き、全力を尽くしてまいりましたが、肘痛もあり、必ずしも皆様の期待に答えられなかったと思います。
でもそんな僕に対して、皆様には暖かく応援して頂き、それが心の支えになりました」
そこで杉澤さんは一度、言葉を切った。
「いつか肘痛を克服し、またマウンドで投げて勝ち星を挙げることが、皆様からの温情に対する恩返しになると考え、リハビリに励んでまいりました。
しかしながら、力及ばず、勝ち星を増やすことができませんでした。
その点は残念に思います」
そこでまた杉澤さんは頭を下げた。
「でも僕は人生には無駄な経験は無いと思っています。
どんな経験でも、それを活かそうと思えば、必ず何かに活かせると信じています。
だから、僕はプロでの経験、そしてリハビリの経験を活かして、同じように怪我で苦しむ選手の力となれるようになりたいと思います。
それが僕の次の夢です」
大きな拍手が球場内を包んだ。
「今後は選手とは違う立場で、静岡オーシャンズ、そして野球界に恩返しをしていきたいと思います。
今日はこのような場を設けて頂き、本当にありがとうございました」
そう言って、杉澤さんは最後にまた深々と頭を下げた。
そして杉澤さんは、自身の登場曲が流れる中、ブルペンカーに乗って、手を振りながら球場内を一周した。
引退を自分で決め、そしてこのようにファンにお別れを言える選手はほんの一握りである。
そういう点では杉澤さんは幸せ者だろう。
そして杉澤さんの引退セレモニーの後、また球場内の照明が全て落とされた。
今度は静岡オーシャンズのシーズン終了のセレモニーが始まる。
さあ明後日からはクライマックスシリーズに向けた練習が始まる。
日本一に向けて、僕は気合を入れた。
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