6年目 新しい生活の始まり
第130話 彼は来る。きっと来る。
年が開けたら、自主トレである。
元旦に区役所に結婚届を提出し、その翌日に自主トレを行う、沖縄に向かった。
今回は沖縄でグラウンドを借りて行う。
僕、谷口、竹下さん、原谷さんのいつものメンバーに、同級生の富岡、杉田も加わった。
そして自主トレと言えば、彼である。
そう彼だ。
彼は来る。きっと来る。
そして予想通り、今年もやって来た。
彼は年季の入ったノックバットを鬼の金棒のように掲げ、突然やってくる。
そして有無を言わせずノックの雨を降らせる。
彼の目的は不明である。
報酬も受け取らず、わざわざ自分の休みを犠牲にしてやってくる。
性格がサディスティックなのは間違いないだろう。
三連休の最終日の自主トレ終了後、グラウンドでへばっている僕らを前に彼、つまり山城元コーチはこう言った。
「悪いな。俺が自主トレを手伝えるのは、多分今回限りだ」
「僕、一度でも自主トレを手伝って欲しい、と言ったことありましたっけ?」
「新年度から俺、母校の高校の監督に就任することになった」
さっきから会話がかみ合っていない。
「へー、良かったっすね。
おめでとうございやす」
僕は恩師に尊敬を込めて言った。
以前、山城さんは将来、母校を甲子園に連れて行くのが夢と言っていた。
(作者注:第7話)
夢の一歩がかなったということだろう。
「これもお前が野球雑誌で余計な事を言ってくれたからだ」
うーん、何のことだろう。
あ、思い出した。
ある野球週刊誌には、12球団の選手一人に同じテーマで質問する特集コーナーがある。
何ヶ月か前、泉州ブラックスの分について、僕に取材が来た。
「野球人生での恩師」というテーマだったので、僕は山城さんの名前を出したのだ。
顔と態度と性格は悪いが、ノックの技術だけは一流である。
今も頼みもしないのに、自主トレに押しかけてきて、日頃のストレス解消のために、僕らに鬼のようなノックの雨を降らせる。
奥さん似の可愛い娘さんとイケメンの息子さんがいるが、山城コーチに似なかったことは、神に感謝すべきであろう。
僕がプロとして何とかやれているのは、山城さんのお陰であると言えないこともないかもしれない。
というような事を答えたのだが、記者が一部を切り取って、勝手に美談のような記事にしてしまったのだ。
「お前が余計な事を言ってくれたお陰で、その記事を読んだ学校関係者が俺の事を思い出して、監督として呼んでくれたようだ。
一応ありがとうと言っておく。感謝しろ」
ちょっと日本語がおかしく無いだろうか?
「すみません。昨日12時間しか寝ていないので、寝不足なんです。
帰って寝ても良いでしょうか」
「あまり寝過ぎると、頭悪くなるぞ。これ以上悪くなると、野球のルールもわからなくなるんじゃないか。
そうだ、これやる。」
山城さんはA4の紙にマジックで書いた、輪ゴムで止めた丸めた紙を僕に差し出した。
僕がそれを開くとこう書いてあった。
『仮免許皆伝』
「何すか、これ」
「忘れたのか。以前、免許不皆伝の紙をやっただろう。
今回、仮免としてやる。
ありがたく思え」
「いつになれば、免許皆伝になるんですか?」
「俺の現役年数、14年を超えた時だ。
残念ながら、お前には野球のセンスは無いが、努力することだけは才能がある。
だから弛まずそれを続けることができれば、俺なんか簡単に追い越すことができるはずだ。
おっと、早く行かないと最終の飛行機に乗り遅れる。じゃあな」
僕らはせめて飛行機代だけでも受け取ってもらおうとしたが、今回も頑なに拒否された。
山城さんは慌ただしくタクシーを捕まえ、車は夕陽の中に走り去っていった。
僕らは帽子を取って、深々と礼をして山城さんを見送った。
いつか山城さんの夢がかなって、甲子園に言ったとき、盛大に差し入れをしてやろう。
それこそ嫌がらせのように、食べきれない量の焼き肉や、使い切れない野球道具を送ってやる。
僕はそう誓い、今日の自主トレ最後のランニングを始めた。
仮免許皆伝の紙は、額に入れて、僕のファン第一号の少年が書いてくれた絵の横に貼ろう。
僕はそう思った。
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