第90話 僕だって崖っぷち
北岡投手がマウンドから僕の方を向いて、何かを言ったように見えた。
「あとで覚えておけよ」と言ったようにも、「あとで奢ってやる」と言ったようにも、見えた。
恐らく後者だろう。
今季は一軍に残っているとは言え、プロ初ホームラン以外は数字としては残していない。
そろそろ結果を残さないと、また二軍落ちとなってしまう。
最近、泉選手が二軍で打撃好調と聞いているし。
僕だって崖っぷちにいるのだ。
さて、ノーアウト一塁でバッターは8番キャッチャーの高台選手ということで、送りバント、ヒットエンドラン、盗塁。
いろいろな攻撃パターンが考えられる。
2対1で勝っているが、ここはもう1点取っておきたいところだ。
僕はベンチのサインを見た。
ベンチのサインは、バントエンドランだった。
良かった。グリーンライトじゃなくて。
「隙があれば、盗塁しても良い」というのは、僕としてもプレッシャーが大きい。
その点、サインプレーであれば、ミスをしない限りは責任の多くはベンチが負うことになる。
相手の北岡投手は僕の足を知っていることもあり、かなり警戒している。
初球を投げる前に、立て続けに4球も牽制球を投げてきた。
ここは牽制死だけはあってはならない。
僕はあまり大きくはリードを取らず、安全に帰塁することを心がけた。
初球、内角への直球だった。
僕は投げると同時にスタートを切った。
高谷選手はヒッティングの構えから、素早くバントの構えをしたが、バットに当てることができなかった。
僕はそれを横目に見ながら、必死に走った。
静岡オーシャンズの捕手の前原選手は肩は並みである。
(肩と長打力は、原谷さんの方が上だ)
だからバントが失敗してもワンチャンあるかもしれない。
だが前原選手の送球はストライクで素晴らしい所に来た。
捕球したショートの新井選手がタッチに来る。
僕は僅かにセンター側から回り込んで、スライディングした。
少し二塁ベースへの到達が遅くなるかもしれないが、タッチをかいくぐれるかもしれない。
僕が二塁ベースにタッチするのと、グラブが僕の足に触れるのはほぼ同時に見えた。
判定は?
「アウト」
うわあ、残念。
だが朝比奈監督がベンチから出てきた。
リクエストのようだ。
審判団が確認のために、バックネット裏のモニタールームに入っていった。
僕は立ち上がって、バックスクリーンの大型モニターに映し出された映像を見た。
うーん、微妙。
アウトにもセーフにも見える。
別の角度からの映像で、三塁側の泉州ブラックスの観客席が大きく沸いた。
というのも、ほんの僅かだが、僕の足が先にベースについているようにも見えたのだ。
中々、審判団は戻ってこない。
「元気そうだな」
セカンドベース上にいた新井選手が声をかけてきた。
「はい、何とかやっています」
「今のどうだ。俺はアウトだと思ったが」
「うーん、微妙ですね」
「まあな。どっちもあり得るよな」
と話していたら、ようやく審判団が出てきた。
そして主審が右手を横に広げた。
「セーフ」
判定が変わった。
結果的には盗塁成功だ。
これでノーアウト二塁。
チャンスが広がった。
カウントはノーボール、ワンストライク。
僕は二塁ベース上から、ベンチのサインを見た。
サインはグリーンライトだった。
隙があれば走って良いと言っても、ここはちょっと走りずらい場面だ。
僕は1球様子を見ることにした。
北岡投手は僕の足を相当気にしている。
セカンドにも牽制球を3球投げてきた。
バッターの高谷選手はバントの構えだ。
北岡投手が2球目を投じた。
高台選手はバットを引き、ボールは真ん中低目に外れた。
これでワンボールワンストライク。
またベンチのサインを確認したら、今度はノーサインだった。
好きに打てということだ。
とは言ってもこの場面はゴロを転がす事が求められる。
北岡投手が、牽制球を2球挟んで、3球目を投げた。
コースは外角低目へのストレート。
高台選手は見逃した。
判定はボール。
カウントはツーボールワンストライク。
ベンチのサインは、バントエンドランだった。
ここはストライクが来ると読んでのサインだろう。
でも普通の送りバントではダメなんだろうか。
高台選手はバットを寝かさず、立てたままである。
北岡投手が投球動作に入ると、同時に僕はスタートを切った。
ど真ん中の速球だ。
高台選手はバットを寝かした。
だが、またしてもバットに当てることができなかった。
おい。
僕は必死に走った。
前原選手がキャッチして、三塁に投げてくる。
僕はまたしてもレフト側から回り込むようにスライディングした。
サードの戸松選手がタッチに来る。
判定は?
「セーフ」
自分で言うのも何だが、うまくタッチをかわした。
前原選手が悔しそうに天を仰いだ。
というのも少し送球がファールゾーン側にそれたのだ。
僕にとってはこれが幸いした。
結果としてこの試合、盗塁を二つも決めたことになる。
さあ、ノーアウト三塁の大チャンスだ。
高台さん、頼みますよ。
僕は三塁ベース上から、バッターボックスの高台選手を見た。
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