第23話「二人だけの研修」

「――えっ、早速研修をしたい?」


 厨房に入っていた秋人は母親に呼び出されたのだが、夏実の研修をしたいと言われ戸惑ってしまう。


「夏実が働きたいのって、夏休みからなんだけど……」

「夏休みは忙しくなるんだから、今のような余裕がある時にしておいたほうがいいに決まってるでしょ?」

「それは、まぁ……」


 夏休みといえば、主婦だけでなく学生も多く訪れるようになる。

 巷では結構人気な喫茶店ということもあり、休みの日はとても混んでしまうのだ。

 そんな中、確かに夏実の面倒を見る余裕はないのかもしれない。


「わかったなら、はい。夏実ちゃんをよろしくね」

「えっ!?」


 母親が夏実の体を秋人の前に出してきて、秋人は思わず声をあげてしまう。

 モジモジとする夏海を前にしながら、秋人は慌てて口を開いた。


「夏実の指導、俺がするの……!?」


 よろしく――というのがどういう意味かを理解している秋人は、面喰ったように母親に尋ねてしまう。

 すると、母親は呆れたような表情で口を開いた。


「何を驚いているわけ? あんたが連れてきたんだから、面倒を見るのはあんたがするべきでしょ?」

「いや、だけど……!」


「それに、夏実ちゃんも秋人のほうが緊張しなくていいわよね?」


 まだ反論をしようとした秋人の言葉を遮り、母親は夏実へと声をかけてしまった。

 夏実はチラッと秋人の顔を見た後、しおらしくコクリッと頷く。


「はい……」

「ということで、よろしくね、秋人」


 夏実が頷いたことで、母親はとても機嫌が良さそうに夏実を秋人に預けてきた。


「いや、母さん……!」

「これ、店長命令だから。逆らうのは許さないわよ」


 まだ諦めない秋人に対し、母親は目を据わらせて声のトーンを数段下げた。

 それは、言葉通り秋人の反発を許さないことを意味する。


「……夏実、とりあえずこっちでやろうか」


 母親の態度を見て、秋人は諦めたように夏実の手を優しく引っ張った。

 夏実は手を握られて途端に体温が急上昇するものの、秋人の手を払おうとはせずにおとなしく連れて行かれるのだった。


「――それじゃあ、とりあえずこのマニュアルに目を通してくれる?」


 休憩室に移動した秋人は、引き出しから小冊子を取り出すと、それを夏実に渡した。


「ちゃんとしたマニュアルがあるんだ……」

「こっちのほうが効率がいいからね。わからないことがあったりしたら遠慮なく聞いてくれていいから」

「うん、ありがとう」


 夏実はお礼を言い、その後マニュアルへと視線を移した。

 そして、数分後――。


「ふにゅぅ~……」


 テーブルへと、突っ伏した。


「いや、そんな難しいことは書いてないだろ……?」


 ダウンした夏実を前にし、秋人は驚きを隠せなかった。


「だって、覚えることが多すぎる……」


 夏実は勉強がとても苦手だ。

 必然、覚えることも苦手とする。


 そんな夏実にとって、マニュアルはある意味天敵だった。


「…………」

「うっ、黙らないでよ……」


 秋人から何も言葉が返ってこなかったので、夏実は恐る恐る秋人の顔を見上げる。

 すると――秋人は呆れた表情を浮かべるのではなく、笑うのを我慢している様子だった。


「な、何を笑ってるのよ……!」


 全身を震わせている秋人に対し、夏実は顔を赤くしながら怒ってしまう。

 だけど、秋人は目の端に涙を溜めながら、可笑しそうに口を開いた。


「いや、夏実はやっぱり、まじめすぎるなって思ったんだよ」

「えっ?」


「目を通してとは言ったけど、覚えてとは言ってないだろ? だいたいどんな感じかな、というのを知ってほしかっただけで、やることは段々と覚えていけばいいんだよ。そのための、研修期間なんだから」

「あっ……」


 夏実は秋人の言いたいことを理解し、自分の失敗に気がついた。

 そんな夏実に対し、秋人は優しい笑みを浮かべる。


「前に言っただろ、できないことがあるのは仕方ないんだ。それを、できるようにしていけばいい。だから、最初から完璧にやろうと無理する必要はないんだよ」


「…………」


 秋人の顔を見ていた夏実は、思わず俯いてしまう。

 そんな夏実を不思議そうに秋人は見つめながら、再度口を開いた。


「今日はまず、挨拶の仕方とかお客様への対応方法を覚えようか。夏実は実際にやってみたほうが覚えられるタイプだろうし、マニュアルを読むよりも体に叩き込んだほうがいいかもしれない」


 秋人が優しくそう言うと、夏実は嬉しそうに顔を上げてコクコクと頷いた。


 それからは秋人がまず手本を見せ、夏実がオウム返しのように真似てみる。

 そして駄目なところは秋人が注意をし、夏実が理解できるまで丁寧に教え込んだ。


 結局夏実は、お客様への対応を一通り覚えるのでその日は終えてしまったが、帰る際には充実した表情を浮かべていたので秋人は安堵する。


「これからやっていけそうか?」

「うん! 秋人がいてくれるから、大丈夫そう!」

「――っ」


 夏実が満面の笑みを向けてきたので、秋人は一瞬息を呑んでしまった。

 そして、赤らんだ頬を隠すようにソッポを向いてしまう。


「そ、そっか、それはよかったよ」

「うん! えへへ……明日からもよろしくね、秋人! それじゃあ、バイバイ!」


「あっ、送って行かなくて大丈夫なのか?」

「うん! まだ人通りが多い時間だし、暗い道には入らないから大丈夫!」


「そっか、じゃあ気を付けてな」

「うん、バイバイ!」


 夏実は秋人に手を振ると、はしゃいだ様子で帰っていった。

 秋人はそんな夏実の後ろ姿を見つめながら、バクバクと鼓動がうるさい自分の胸に手を添える。


「あいつ――」

「――とっても、かわいい子よね」

「――っ!?」


 夏実のことを口にしようとした瞬間、秋人の言葉を奪うように背後から声がしたので、秋人は慌てて振り返った。

 すると、秋人の母親がニヤニヤととてもいい笑みを浮かべて、秋人を見ていた。


「これは、この先がとても楽しみね」

「母さん……!」

「ふふ。ほら、見送りが終わったなら厨房に戻ってきなさい」


 母親はそれだけ言い残すと、店の中へと入ってしまった。

 秋人はそんな母親の後ろ姿を見つめながら、嫌なところを見られた、と思わずにはいられないのだった。

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