初恋アンインストール

「なんか……すごい甘そうなの、買って来たね……」


 僕は、カフェの向かいの席に腰掛けた彼女……音無さんの前に置かれた、なんたらフラペティーノだかいう、ただでさえ甘そうなコーヒーの上にクリームが乗っかったシロモノに視線を注ぎながら、若干引き気味の声を出した。


「コレ……大好きなんです。私、甘いものに目が無くて」


 そう言って彼女は、少し恥ずかしそうにはにかむ。


「へえ……」


 僕は、そんなことすら知らなかったんだな……。


 ほんのひととき、短い期間での交際だった。それこそ、彼女が何を好み、何に対し頬を弛ませるか、そんなことすら知ることが出来なかったくらいの。


 それでも、僕はその短い期間、彼女にのめり込んでいた。


 傷つけられ、裏切られたと思い、涙を流す程度には。


 傷つけてしまったと思い、忘れられない後悔として、それを引きずる程度には。


「……っ……っ」


 僕がそんなことを考えていると、目の前の彼女が突然大粒の涙を流し、両手で口許を覆った。


「ど、どうしたの?」


「ご、ごめんなさい……こんな、普通にお話出来ると思っていなかったので……!」


 テーブルに落ちた、いくつもの雫が、水溜まりを作っていく。


「恨まれていると、思っていました……会っても、目も合わせてくれない、口も利いてくれない……それが当たり前だと、そう思っていました……あなたを見つけた時、声を掛ける時、脚が震えて、心臓が爆発しそうでした……!」


「…………」


「それほどのことをしてしまったのだと……ずっと、後悔していました……! ごめんなさい……謝って済むことではないけれど、本当に……本当に、ごめんなさい……!」


「…………」


 頭を下げ、泣きじゃくる彼女に、僕は掛ける言葉が無かった。


 目も合わせない……口も利かない、か。


 実際に、そうなっていてもおかしくなかったのだ。


 もし僕がハナや、小太郎や、神原のことで頭がいっぱいじゃなければ。


 俯いて、泣いていなければ。


 もし校門を出る時に、彼女の姿を目の当たりにし、心の準備をする時間があったのなら――僕は彼女を無視していたかもしれない。


「…………」


「…………」


「今まで……何度も言われてきた。『天才には凡人の気持ちなんて分からないよ』って」


 自分でも、何を話すつもりかなんて決めていなかったが、僕は口を開き、言葉を紡ぎ出した。


「……いつも、思ってた。凡人がそれを天才に言うのは許されるのに、何故天才が凡人に言うのは許されないのだろうって」


「…………」


「僕だって言いたかったよ。『凡人のキミには天才の気持ちなんて分からないよ』って」


 気がついたら僕は、ハナや両親の前でしか、いや、彼女達の前でも吐露したことのなかったかもしれない心の底に溜まっていた澱を掬い上げるように、今まで溜め込んでいた汚い感情を吐き出していた。


 でも、コレが僕の偽らざる気持ちだ。


「でも、本当にそれを言ってしまったら、傷つけてしまう。僕はどんなに煩わしく思っていても、誰かを傷つけたかったワケじゃない。被害者面をしながら加害してくる人達から離れたかっただけだ」


「神乃ヶ原くん……」


「だから、放っといて欲しかった。そんな時……キミが現れた」


「……ごめんなさい」


 再び彼女が俯く。


 ……こうなるのが分かり切っていたのに、何を責めるようなことを言っているんだ、僕は。


 でも、必要なことなんだ。


 僕は、ずっと苦しかった。胸の奥に刺さって抜けない刺に苛まれていた。


 もし彼女も、僕と同じようにずっと苦しんでいたのなら、助けてあげたいと思う。消してあげたいと思う。


 コレは本心だ。


 だから、その痛みを消す為には……再び傷を開くことになったとしても、必要なんだ。


「いいんだ。僕は別にキミを恨んではいない。そりゃ、一切の遺恨も、わだかまりも残していないと言えば、さすがに嘘になるけど。僕が……キミに期待し過ぎていたのが悪い。何せ他のことに失望したタイミングで優しくされたから、『この人だけは違うんじゃないか』って、コロっと落ちちゃったんだよね。我ながらチョロかったと思う」


 ──僕がもっと自分を律していれば、と言いそうになって、それはそもそも『付き合わなければ、出会わなければよかった』という意味合いになってしまうと思い、口をつぐんだ。


 そこで気がついた。


 ……そうか。僕はそもそも彼女と付き合ったこと自体を後悔していたワケではないんだな。


 チョロくて、甘くて、尻尾を振るかの如く懐いて、はしゃぎ過ぎた結果、全てを台無しにして、泣いて──結果、色んな人を傷つけた。ハナも、音無さんも、自分自身も。


 自分の浮かれっぷりを思い返すと、情けなくて死にたくなるから、忘れたい過去として封印しておきたかっただけなんだ。


 でも、あの失敗があったから今の僕がある。


 あの失敗で絶望し、涙し、そこから色々な人に支えられ、再び僕は学校に来た。


 だから、無駄ではないし、記憶から消去アンインストールしていいことじゃない。


 名前をつけて、心の隅に保存しておきたい。


「振り返ると、恥ずかしくもあるし、痛みもある。でも……恨みや憎しみは感じない」


「神乃ヶ原くん……」


「もう一度言うよ、音無さん。僕は、キミを恨んでなんかいない。初めて付き合った恋人と、上手くいかなかった。ただそれだけの、どこにでもある思い出だ」


「神乃ヶ原くん……!」


「キミが僕とのことでずっと心を痛めていたと聞いた時……僕は少しもいい気味だと思ったり、胸がスッとするような心持ちにはなれなかった。それってつまり、そういうことでしょ?」


「神乃ヶ原……くん……!」


「だから……もう、泣かないで。僕のことに囚われて、コレからの幸せを逃すような真似はしないで欲しい」


「……ごめんなさい……! ありがとう、ありがとう……!」


 それからしばらく、彼女は泣き続けた。


 コーヒーの上に乗ったクリームが溶けて、沈澱していくまで。


 混じり合い、薄まり、彼女がそれを飲み干すのを見届けるまでは、僕は彼女のそばにいようと思った。

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