吐露


 僕は自室でベッドに腰掛けたまま、ソワソワと落ち着かない心持でいた。


 ……一体ハナに何があったというのだろう?


 すぐにでも問い詰めたい気持ちを抑え込む。


 先程の彼女の表情を見るに、何か辛いことがあったに違いない。


 ならば彼女の心を乱さないことが最優先だ。


 彼女がシャワーを終えて上がって来たら、焦らずに一つ一つ聞いてみよう。


「……うん」


 そう僕が結論付けたところで、部屋のドアが開く。


「……ありがとう、テンちゃん」


「……う、うん」


 相変わらずの物憂げな表情と、濡れた髪が相まって、何だかハナが……いやいや、気のせいだ。


「……やっぱり、僕のTシャツじゃ、大きいな」


「……うん」


 そう、彼女は僕のTシャツと、ハーフパンツを身に着けている。


「……テンちゃんの匂いがする」


「そ、そりゃそうです」


 僕と同じシャンプーを使って、僕の服着てるんだから。


 だってのに、いちいちハナの言うことにドキっとさせられて、何だかペースが狂う。


「ん。お茶沸かしといた。少しぬるくなって丁度いい温度になってるんじゃないかな」


「……ありがとう」


 マグカップを受け取ったハナが、両手でそれを口許に持っていき、ず……、と音を立てる。


「……おいしい」


「そう。良かった」


 続いて僕もハナに倣うように、一口お茶を啜る。


「…………」


「…………」


 ……うーん、自分からは、話してくれないか。


「……何が、あったの?」


 僕はなるべく穏やかな口調を心掛けた。


「……鍵、落として、家に入れなかった」


「うん。でも、それとは別に、何かあったんだよね。じゃなきゃハナがあんな顔するワケない」


「…………」


「…………」


 焦らなくていいよ、と伝えるように僕はもう一口お茶を飲み、ふぅ、と息を吐いた。


「……テンちゃん」


「……んん?」


「今日ね……前に言った、大会だったの」


「あ、そうだったんだ……」


 ……ああ、そういうことか。


「…………」


「…………」


 僕は急かすことはしなかった。ハナの気持ちが整うのを辛抱強く待った。


「……負けちゃった」


「……そっか」


「……うん」


 ……顔には出さなかったが、友人が亡くなったとか、ハナが誰かに何かされたとか、本気で洒落にならない案件で無かったことに僕は密かに安堵していた。


 だがハナの中では一大事だ。何か言うにしても言葉は慎重に選ぶべきだろう、などと僕が思案していると、ハナが言葉を紡いだ。


「……勝てなかったなぁ。最後の夏……終わっちゃった」


 そう言ったハナの瞳から、一筋の涙が頬を伝って落ちる。


「……うん。お疲れ、部長」


「……ありがとう。みんなもそう言ってくれた。みんな泣きながら、でも『頑張ったよね』って」


「……僕も、そう思うぞ」


 何を言ってんだ僕は。僕がハナの部活に懸ける何を知っているというんだ。


「うん……実際、みんな練習頑張ってたし、結果は……ついてこなかったけど、悔しがる資格があるくらいには……みんな努力してたと思う」


「……うん」


「そう思って、あたしは……いつも通り、笑ったの。悔しくて泣いちゃう後輩や友達を抱き締めて……『頑張った』って……いつも通りの、みんなが求めてる部長を貫いたの」


「……うん」


 そう返事したところで、マグカップを持つハナの両手に力が込められていくのが分かった。


「でも……帰り道で、抑えきれなくなった……! もっと……頑張れたよ……! もっと練習してれば……! 勝てたかも、まだあのチームでテニスできた! 次の試合で負けちゃっても……! 一つは……成果を残せたんだよ……!」


「……ハナ」


「練習不足だった……! 放課後のメックでみんなと駄弁ってる時間とか! もっと頑張れば良かった! あの時のレシーブを! 落ち着いて返せてれば! あそこでちゃんと出来ていれば……!!」 


 俯いているので表情は窺えないが、ハナの顔から落ちた雫が、いくつもの点を膝へと作った。ポタポタと。


 ……ここで『勝負の世界でたらればを言い出したら……』なんて渇いた意見を口に出せる程にまで、僕は心が荒んでいる人間ではなかった。


 ……分かるよ。ハナ。


 僕だって今まで何度も、何度も「あの時ああしていれば」を感じて、涙を流し、歯を食いしばってきた。


 夢に見る度に自己嫌悪に苛まれて、他にやりようがあったはずだと自分を責めた。


「テンちゃんにもあんな大見栄切って……それが、このザマだよ……もう、情けなくて……ごめ――」


「謝らないでよ、ハナ」


 僕はハナの謝罪を遮った。自分でも驚くくらいに優しい声が出た。


「――テンちゃん?」


「……そりゃ、来ないだの、いなくても大丈夫だの言われて、寂しかったよ。でも、それでも僕はハナが自分でやるべきだと思って選んだ道なら応援したい気持ちの方が強いし、それで実際努力してたんだから、何も謝ることなんてないよ」


「…………」


「僕は何も気にしてない……ワケでもないけど、別にそのことに対して文句を言ったりハナを責めるような気持ちはないよ」


 ついさっきまで、あの言葉に散々イライラしていた癖に、我ながら良く言うと思った。


 それどころか、ハナが相手じゃなかったら僕はきっと『結果が全ての世界でたられば言っても仕方ないだろ』とまで言っていたかもしれない。実際僕は今までそう思っていた。そう思って結果を出し続けてきた。


 だけど今、僕の中でその認識が揺らぎ始めている。コレが進化なのか退化なのかは、正直分からない。


 自分でも理由は分からないが、この場においては、僕の考えを押し付けるより、傷ついているハナの心をどうにかしてやりたいという思いの方が優先順位が上だった。


「それに……まだ終わりじゃないよ、ハナ」


「……?」


 ハナが顔を上げて僕を見る。


「取り返しがつかないことなんてない。悔やむ気持ちがあればいつからだってやり直せるよ」


 ……自分に言ってるみたいだ。


「最近気づいたんだけど……人は失敗から学ぶ生き物なんだ。失敗して、悔しくて、その悔しさを糧にして次こそは……って、前に進んでいく生き物なんだ」


「……うん」


 ハナが小さい声だけど返事をした。ちゃんと聞いてくれている。


「だから、全然失敗しない僕なんかより、ハナが優れているところは、そこなんだよ。何度も失敗して、それでも失敗することを恐れないで努力できる。一度の挫折で逃げ出してしまった僕なんかより、ずっとずっとすごいんだよ、ハナは」


「テンちゃん、違うよ……テンちゃんは――」


 分かってる。ハナが僕は逃げたんじゃない、と言いたいのは。ちゃんと分かってるから。


「違わないよ。僕は……! 才能なんか無いのに努力することをやめないでいられる、ハナのそういうところが……!」


「え」


 ハナの声で我に返る。


「…………」


 ……何を言おうとしているんだ僕は?


「……その、すごくいいところだし! 立派……だと思う!!」


「……うん、ありがと……テンちゃん」


 何だか妙な間が空いてしまったが、慰めることが出来たようだ。


 ……慣れないことはするもんじゃないな。


「あたし……高校行ったら、またテニス部入る……」


「……うん」


「この『悔しい』を……そのまま忘れたくない……!」


「……それが、ハナだよ」


 そんなことを言いつつ、僕の頭には選択肢の一つとして考えていた道が浮かぶ。


 僕も――、なんて言葉が。


 ……でも、いいのか? こんな衝動に駆られるみたいに自分の将来を決めてしまって。


 自分の融通の利かないクソ真面目さが少し嫌になる。


 もう少し適当に生きることが許されていれば、僕は何の迷いもなくこの直感に従うことだろう。


 でもここで考えることを放棄したら、それこそ両親の思い、そしてそんな両親の思いに応えたいという自分の思いに失礼なのでは?


 ……ハナが、ここで言ってくれるなら。


 いつもの調子で勢いよく放ってくれたなら。


 今なら、今言われたなら……決められるのに。


 ――分かった。どんな道だろうと反対しない。だから自分で真剣に考えて自分で決めなさい。


 父さんの言葉を思い出す。


 ……そうだ。もう一生忘れない、二度と裏切らないと心に決めたんだ。


「あのね……テンちゃん」


「ん……? 何?」


 物思いに耽っていた僕は、ハナの声で意識を彼女へと向け直す。


「あたし……あたしね……!」


 いつの間にかマグカップを置いていたハナが、自分の膝の上でぎゅっと拳を握り締める。


「ハナ……?」


「ずっと……テンちゃんに……謝らなきゃいけないって……思ってたの……!」


 この時、僕は明井花がずっと一人で抱えていた、その思いを知った。

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