明井 花


 外は、未だ雨が降り続けているようだ。窓を叩く音がそのことを報せてくる。


 雨に打たれてずぶ濡れになった幼馴染の、その壊れてしまいそうな顔を見た時は、どうなることかと慌てたが、何とか彼女を励ますことができ、雨が降ったその地も固まろうとしているのだと思ったその矢先、明井花は語り出した。


 どうやら、彼女の表情を曇らせていた憂いは、一つだけではなかったらしい。


「……あの日の朝、テンちゃんが言ったこと、覚えてる?」


 既に涙で頬を濡らしている彼女が、ぽつりと僕を見ないままそう言った。


 ……え、何だっけ? そもそもあの日っていつだ?


「……いや」


「……この先何年、何十年経っても言われるのかと思うと……って」


 ……ああ、そういうことか。


 あの日――友情に破れた僕が、次に希望を見出した、恋にもまた破れたのだと自覚したその翌日であり、感情を爆発させて取り返しのつかない大立ち回りを演じた。 


 確かに覚えている。僕は絶望に侵されかかっていた心を救ってくれたハナにそんなことを言ったな、うん。


「あたしはそれに『コレからもずっとからかってあげる』って言ったの……それなのに」


「……うん?」


 ハナの頬を伝う涙が一つ、もう一つと増えていく。


「あたしとのことをからかわれたせいで、テンちゃん……キレちゃったんだよね。あたしの、せいで……」


「それは違う!」


 僕は即座に否定した。


「違わないよ! そのせいだけではないかもしれないけど、そのことがなければ……テンちゃん一緒に学校行ってたかもしれないじゃん!」


 ハナが僕を見た。瞳に溜め切れずに溢れた涙は、頬を伝い、膝に落ち、最早水滴で描かれた点どころではなく、しとどに濡れた染みを作っていた。


「いや、時間の問題だったと思う――」


「せめてあたしがその場にいて、そのからかったヤツをぶん殴ってれば、こうはならなかったんだよ!」


 こんなに取り乱すハナを見たのは、初めてかもしれない。


「おいおい……ハナにそんなことさせられるかよ」


「テンちゃんだったら! あたしが初めて出来た彼氏にすぐフラれて落ち込んで、目に隈作ってたらどうする?」


「……そりゃ、慰めるよ」


 ……ハナが何を言いたいのか、僕にはもう分かっていた。同時に、ハナが僕に絶対的な信頼を寄せていることも。


「……そのことで、あたしがクラスの女子にいじられてたら?」


「……絶対に、ぶっ飛ばす……な」


「そうでしょ!? あたしはそれができなかったの! 朝の会話で満足してたの!『コレからも一緒なんだ』なんて浮かれて舞い上がってたの! テンちゃんがあんなことになってたなんて……何も知らずに!」


 感極まったハナが立ち上がりかける。僕はすぐさまそれを制するように、可能な限り落ち着かせようと諭すような口調で言う。


「それは、その場に居なかったからだろ。仕方ないよ」


 だが、彼女の気持ちは止められなかった。


「仕方なくないよ! あたしが、心のどこかで『なんだかんだ言ってテンちゃんは一人で何でも出来る』なんて思ってたから! 騒ぎが聞こえてきても、テンちゃんのことだなんて思いもしなかった! 駆けつけなかった! あんな、知った風なこと言ったのに……!」


 ……知った風なこと?


 僕はあの朝の記憶をなぞってみる。


 ――子供だよ。あたしも、テンちゃんも。天才で、何でも出来ちゃうの知ってるけど、本当にびっくりするくらい些細なことで傷ついたり、落ち込んだりするの知ってるんだから。


 ……あぁ、あの言葉を、後悔していたのか。


 ……あの言葉を、嘘にしてしまったと、悔いていたのか。


 僕がどれだけ救われたか分からない、あの言葉を……!


「どうやったら、償えるのか、分から……ない……からっ! あたしがテンちゃんを学校に戻して、次からは! 絶対守るからって……それしか、思いつかなくて……あたしバカだから、それしか! 思いつかなくて……!」


 僕は泣きじゃくるハナの両肩に、優しく手を置いた。


「ねぇ、ハナ。聞いて?」


 ……どうして僕は、ハナにだとこんなに優しくなれるんだろう? こんな声が出せるんだろう? 自分でも不思議だ。


「ぐすっ……何?」


 それこそ、子供の様に僕を見上げるハナの目を見ながら、僕は口を開いた。


「僕はそのことで、ハナを恨んだことなんか一度もないよ? ハナのせいだなんて思ったことも一度もない」


 いつかハナが僕にそうしたように、頭に優しく手を置いてやる。


「……嘘だぁ」


「本当。アレは僕が我慢できなかったんだ。心のどこかで『どうして何一つ劣ることのない僕がサルどもに気を使わなきゃならないんだ』って……思ってたんだよ」


「…………」


「ずっと、気にしていたんだね。ずっと、後悔していたんだね。僕のせいで……」


 いつも僕に向けていた、花が咲くような笑顔の裏に、こんな影があったなんて。


「違うっ……あたしのせいなの……テンちゃ――」


「な? キリがないだろ? だから、もう止そう? 僕はハナのせいだと思ってないし、ハナも僕のせいだと思ってない」


 僕は泣きじゃくるハナの瞳を見つめながら、いつもの彼女の様に笑ってみせた。慣れないなりの最大の笑顔を作った。


「……ん」


 そう言ってハナが僅かに頷く。


「だから、『ごめん』はもういいんだ。ハナ、僕のことでそんなに心を痛めてくれて……『ありがとう』」


「テン……ちゃん……」


 ずっと自分だけの問題だと思っていた。


 ずっと誰にも、何の迷惑も掛けていないと思っていた。


 僕のしでかしたことで、こんな近くにいた大切な人を傷つけていたなんて。


「道理で……やたらと『学校行こう』を連呼すると思ったら。……バカだな、ハナ」


「うぅ……バカだもん。でも……」


 ハナが少し拗ねたような目で、恥ずかしそうに僕を見る。


「ん?」


「本当は……ちょっとだけ、嘘なの……」


「嘘?」


「あたしの『学校行こう』は、ここに来る理由で……口実」


「口実?」


「だって……テンちゃんに恨まれてると思ったら……怖くて、『役目』だって、自分の『償い』だって思わないと……怖くて、来れないよぉ……!」


 僕がハナを恨むなんて……有り得るワケがないじゃないか。


「そんな、ハナ……なんて面倒くさいことを」


「あたし、バカだもん……最初は、脚震えてたんだよ? 学校行こうって叫んで、もしテンちゃんがあたしを無視したらどうしようって、無言でカーテンを閉めたらどうしようって……本当に、本当に怖かったんだよ?」


 またも新たな事実を知った。


 あの時、目一杯元気な笑顔と声で突撃してきたハナが、怯えていたなんて。


「マジか……」


「唇をへの字にして、『行かない』っていつもの拗ねた声で応えてくれて……嬉しかったんだよ? 泣きそうなくらい、嬉しかったんだよ……!」


「どうして……そんなに?」


「だって、一緒に居たかったんだもん……」


「……っ」


 僕は思わずハナを抱き締めそうになった。


 ……って! なんでだ!?


 ……コラ、勝手なことをするな腕! 落ち着け、落ち着け……!

 

 僕がそう思っていると、ハナの方から僕の腕の中に飛び込んできた。


「……は、ハナ……!?」


「テン……ちゃん、テンちゃん……!!


「ハナ……大丈夫。大丈夫だ。心配しないでも、ずっと一緒だよ」


「ううえぇぇ……!」


 ハナは僕の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。


 僕の上着にあっと言う間にハナの涙が染み込んでいく。


 その涙は温かく、僕の固まった心を溶かしてくれたような気がした。


 胸に温かなものが広がっていくような感覚を覚える。


「ありがとう……ハナ」


 僕はそう言ってハナの背中と頭を腕で包み込んだ。




◆◆◆◆




 数時間後。


 少し目を腫らし、頬を赤くし、気恥かしそうに笑うハナを家まで送ったあとのことだ。


「おかえり。母さん」


 玄関前で、母さんの帰りを待っていた僕の顔を見て、母さんはすぐさま何かを悟ったようだった。


「ただいま。……決めたの?」


「うん……決めたよ」


「そう、どうするの?」


 僕は、それ・・を伝えた。


「そう、すぐ夕飯の支度するわね。パパにも自分の口から伝えなさい」


 そう言って母さんは嬉しそうに笑った。




◆◆◆◆




 時間が流れて、春が来た。


 僕は桜の花びらが舞う道を一人歩きながら、帰路に就こうとしていた。


 まだ真新しいブレザーの胸元には『入学おめでとう』と書かれたコサージュが付いている。


 そんな僕が校門を出ようとした時、声を掛けられた。


「もう帰るの?」


 僕と同じ色のブレザーに、同じ位置のコサージュ。


 短く切られた活動的なショートカット。


 胸のリボンにミニスカート。


「うん。そっちは入学式当日から部活?」


 僕がそう返すと、肩に掛かったテニスラケットの入ったケースを嬉しそうに見せつけ、彼女はにんまりと笑った。


「そう! 体験入部から一発かましてくる!!」


「そう。ハナは相変わらず、才能ないのに努力してるな」


 僕は抑揚の無い声でふんぞり返っている少女……明井花にそう言った。


「テンちゃんは相変わらず、才能あるのに努力してないね。いってきます!!」


 どこまでも嬉しそうに、そう言った彼女が僕と逆方向へ駆けて行く。


「いってらっしゃい……て、もういないか」


 僕は改めて校舎に背を向けて、帰路へと踏み出した。


「……さて、どんな高校生活になるかな」

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