五十男のちょっと不思議な酒処放浪記

ターシャ・ケッチャム

第1話

 見知らぬ店の前で足をとめる。

 こんな店あったかなあ、と記憶を探ってみたけれど、思い当たらない。

 

 暗い夜道にぽつんと一軒、隠れるようにひっそりと佇んだその店は、周囲の街並みからすれば新しく見える、うえに、その店構えはなかなかに洒落ていた。この時間に唯一開いている店のようだった。周囲に人気は無く、ノッポの街路灯だけがぼんやりと辺りを照らす。

 白木の戸にシミの無い手染めの暖簾のれん

 

 古風だな、と思う。見るからに、小料理屋の店構えだ、とも思う。

 飯屋なのか、店の中からも、外へ明かりが漏れている。


「こんな時間までやってる店があるのか・・・」


 刻限はもう夜半やはんになる。さて、この辺りにそんな店があるとはついぞ聞いたことがない。そう考えたところで、関心とは違う、いぶかしげに自身の顎ひげを撫ぜる。

 撫ぜるというと、これは一種の癖のようなものだったが。それも無意識のうちに撫でていたものだから、指摘されるまではそんなことにも気づけずに。


 途端に、ひゅーと冷たい風が吹く。一歩ぶん、強くもないのに背中を押される。夜になって風が出てきたようだ。首元からいってきた風を追い出すために襟ぐりを押さえて。それでなくとも石畳は冷たく、後から後から熱が足もとから逃げていくというのにこれではと。

 それというのも、ここのところ寒い日が続いていたものだから。例に漏れず、忘れずに厚着こそしていたものの。それでも手足の指の先からじんわりかじかんできてしまい、しきりに擦りあわせて吐く息を当てて温めてやっても、感覚が無くなってしまいそうになる。

 

(手袋をしてくるべきだったな)


 指先に白い息を当てて思うことには。あまり手袋は好きじゃないのだが、とでも。

 仕事柄、指先の感覚が鈍る装具は具合が悪い。けれども、それにしたってこれでは本末転倒だろう、すっかり冷えきりとうに指先は機敏に動きそうになく、こうして擦りあわせるために両手は塞がっているといった始末。


 そんなわけで、というわけでもなかったが、しきりに目の前の建物を見上げる。石造りの古い建物を改装したようなそれは、最近増えてきたという、ちょっとおしゃれな居酒屋にも見えた。その居住まいにすこし気後れをする。

 こんな五十がらみのおっさんが一人で入るにはふさわしくないような。


(いや、なに、大勢の方がよっぽど迷惑か)

 

 久しぶりの王都はなにもかもが変わっていて知らない店も増えている。

 再開発され、物流が増え、人の流れが変わり、鞍替えする店も多いと聞く。ここもそんな店の一つなのだろう。


「迷惑だなんて、ただの客がそんな大げさに考えることでもないか」


 すこし体を温めるだけのことだ。

 そう考えて、暖簾をくぐる。


 腹が据われば、その場でぐずぐずしている明確な理由も無くなる。ガララッと戸をひき、そうして入ったところ、やや間があって。


「いらっしゃい」


 カウンターの向こうに主人らしき人がいる。

 年のころは、同じか、下か、どうみつくろっても一回り以上年下ということはないだろう。いわゆる男盛りだ。


 店内に他に客はいない。

 それに、おや、とは思いはしたが。時間も時間だったのでこんなものなのだろうとも思い。


「一人だけど大丈夫かい?暖簾がかかっていたからやっているものだとばかり思っていたが、それとももう閉めるところかい?」


「いえ、大丈夫ですよ。まだ火は落としてませんから。ささ、こちらへどうぞ」


 カウンターのみの店内は見たかんじ十席ほどだ。外観とおなじくこぎれいな店内には、当然のこと、埃やら油汚れなんてものは無く、よく手入れが行き届いている。他に店員の姿も無ければ、一人でまわしている店なのだろう、カウンター席のみなのもそのためなのか。

 きっちり髪をまとめ、清潔感のある装いの主人はほがらかに、こちらの席にどうぞと正面にある、主人から見て目の前の席をこちらに勧める。


 言われるがままに席に着く。

 そこで他の席に着くのは不自然だったろうし、他に客がいないのであればここで遠慮する理由も無く。そんなことより、室内に火があるおかげでここは暖かい、それで、ようやくこれで人心地つけると、背もたれに体重をあずけて、わずかに力を抜いた。


 そして着いて早々。


「うちはおまかせのみなんですが、よろしいですか?」


 客ひとり、主人ひとりときては。

 一見なので、勝手が分からないのはこちらだったので、正直その申し出はありがたい。


 鷹揚おうようにうなずくと、「ああ、頼むよ」と返し、あとは調理場できびきびと働く主人をながめているだけで時間はすぎる。

 手際よく、包丁を動かし、鍋をゆするその姿は堂にったもの。


 これはさぞかし味にも期待できそうだと、内心でほくそ笑む。

 がぜん期待は高まり。反面、それにしても、いくら表通りから外れているとはいえ、ここまで客がいないのはせなかった。店の雰囲気は良く、主人の人当たりもこんなふうにやわらかい。飲食店に特有の、あの嫌な酸化した何かのにおいもしなければ。ということは、やはりよっぽど他に難でもあるのか。


 まさか味がと、一瞬それがよぎったところで。


「旬の野菜の炊き合わせです」


 差し出されたのは、小鉢に品よく盛られたさいを煮た物。

 数種の野菜を形をくずさないようにしてやさしく炊いた物を、絵付けのほどこされた椀に一つづつ盛った物。


 その淡い色味は、一見して薄味に見えるけれど、口に含めばほどよく塩気があるのが分かる。噛めば、さくっとした後に香気が鼻をぬけ、とろっとした後には出汁だしが舌にふれ。

 上品な味だった。挨拶代わりの先付けには申し分ない。


「・・・うまいな」


「ありがとうございます」


 そう言いながら、主人がグラスを差し出す。

 酒だ。常温の酒。小ぶりのグラスになみなみとそそがれ、やや度数が高めなそれは喉を流れ落ちた瞬間に火に変わる。かっと胸元が熱くなり、じょじょに腹のあたりに落ちていく。


 冷えた体に心地好かった。炊きものと交互にやれば、血のめぐりが良くなったのか、足先までがぽかぽかしてくる。

 そうして食べ終わるころにはすっかりリラックスしていた。酒肴しゅこうを楽しむ心地に、思わず目尻を下げる。


「ご主人、美味い酒だね。料理とよく合っている」


「ありがとうございます。ええ、贔屓にさせてもらっている酒蔵さんの酒なんです。無理を言って卸してもらっているんですよ」


 ここらあたりじゃ果実の酒が一般的だったが、それにしても穀物の酒とはめずらしい。交通網が整備されて新しい酒が入ってくるようになったのだろうか。

 そんなこちらの思惑を見透かしてか、ご主人


「今の王様が街のために尽力してくださったおかげなんですよ。そのおかげで、こうして安気あんきにこちらも商売ができるというものです」


 今の王様というと、先王が崩御ほうぎょしたのがおよそ六年前になり、即位したのは五年ほど前だ。

 の王は、即位してすぐに国づくりの指針をまとめて。曰く、国家安寧のためには国を富ませる必要があると。しかも、果断なことに、王はそれを、周囲の貴族たちや有力者たちの反対をおしきり実行してみせた。

 

 荒れた道を改修し、新たな道を敷設ふせつする

 その結果がこの酒というわけだ。


「そうか・・・。まあ、あいつもがんばっているんだな」


 新王のもたらした、穀物の透明な酒がグラスの中でゆれる。そのまま、主人には聞こえないよう、ちいさな声を酒で流しこむ。

 そんなたしょうの因縁は、酔えば忘れてしまうていどのもの。


「・・・こちら、お造りです」


 主人はそれを気にせず、次のさかなを供する。薄造りの生の魚だ。皿の上に花びらのように重ね盛られ、一枚一枚は下の皿の模様が透けて見えるほどにその身は透きとおり。

 これはまた、ずいぶんとめずらしい。


「これは、生の魚か」


「ええ、そうなんです。北の街道が整備されたおかげで、新鮮な生の魚介もこっちに入ってくるようになったんですよ。朝にとれたものが、晩にはこうしてお客さまにお出しできるというわけです」


 スッと、小皿にそそがれた赤に近い茶の液体をつづけて差し出し。


「これは魚醤です。これも北から入ってくるようになったんですが、あまり魚臭いと素材の味を殺してしまうので、低温で長期間発酵させることで臭いをかなり抑えているんですよ。そのぶん値段はお高くなってしまうんですけどね」


 茶目っ気のある表情でそう言うと、さあどうぞと今度はグラスではなくさかずきをわたされ。


「冷やは定番なんですが、冷たいものに冷たいものじゃ体が冷えてしまうので、燗で。ぬるくしてありますのでためしてみてください」


 そんなふうに言われてしまえば、だ。ここまできて主人の目利きを疑うのもこれは野暮だろう。皿の上の、薄造りの身を一つもちあげると、魚醤にちょんとつけて口に運ぶ。魚醤の方はといえば、これはまたずいぶんと旨みが強い、ややもすると淡白な身の味を壊してしまいそうな。けれど杯のぬる燗をつづけて口に運んでみたところ、くずれかけていた味のバランスがぴたと調和する。

 それぞれが、それぞれの味を下支えした。それに奇妙な満足感がある。


「これは・・・、なるほど、面白いな」


「でしょう。こちらの方は生の魚を食べるというとぎょっとされる方も多いんですが、北の方の漁師さんは火もつかえない船上ではこうして魚を食べているんだそうです。意外なもので、美味しい食べ方はやはり地場の人にきいてみないとわからないものですね」


「この魚醤も旨いな。うん、臭みも無くはないが、旨い」


「素材の味を殺さないのも大切ですが、味を膨らませて調和がとれるというのも料理のみょうですよね。寒晒かんざらしの脂ののった白身を、旨みと香りとでここまで持ち上げてやるとこんなにも美味しくなるんですから」


 ことさら、ゆっくりと味わう。それを見て満足そうに微笑む主人はよっぽどの料理好きなのだろう。こだわりを語る口調にいっさいのよどみがなくなる。

 今も、次の肴を用意するかたわら、使う食材の説明によねんがないという。


(だとすると、これはおかしな話だ。これで繁盛しないのは道理がない)


 この店は、確かに、飲食店のつらなりからは外れている。がしかし、こうした隠れ家的な店というのはえてして常連からは好まれるものだ。

 その証拠に、現にこうして次の肴を待ちながら、目の前の肴をつまんでいると気分はもうすっかり常連だった。くつろいだ気持ちで、気がねなく主人の話に相槌が打っていると、時間を忘れる。


 ぱちぱちとした音に目をやれば、主人は揚げ鍋の前でじっとたたずむ。

 そこからは、さすがにだんだんと言葉少なになる。集中したと思ったら、サッとタネを油にくぐらせる、そこからは無言だ。何度かタネにふれ、あぶくのいきおいが落ち着いたころにこれまたサッとひきあげ。


「・・・さきほどの寒晒しの魚の半身を衣をつけて揚げた物です。どうぞ、ご賞味ください」


 見るからに、カラッと揚がっている。

 細く湯気がたちのぼり。


 それを見ては、寿司と天ぷらを前にして長話に興じる野暮天もないと。

 さっそくゆるく反ったその姿をもちあげて、衣に歯を入れる。


 小気味のいい音が顎らへんから響いて、耳からぬけた。

 身がほろりとほどける。てきどに歯を押し返しはしたが、抵抗もそれまでだ。やんわりほぐれて、熱がとおってとけた脂が身からにじむ。生のときとは違い、旨みの広がりのはやいこと、あっという間に口いっぱいに広がったかとおもえば香りが蒸気とともに鼻からぬけた。


 そこに、差し出されたグラスの冷酒を流しこめば、脂だけが喉の奥にやられて、味の余韻だけが口中にのこる。

 熱い肴に、冷たい酒。これも調和を意識しているとは笑みを深めた主人のえびす顔から知れたもの。


 つづけて、数種の野菜を揚げた物、貝柱をかき揚げにした物を提供されては、酒がすすむしかない。

 間髪入れずに口直しの菜が供されて。


 真薯しんじょに冷たい餡がかけられて、そこからはほのかに柑橘の香りもする。出汁がよく効いていて、けれど強い印象はない。余韻をこわさず、これに清涼感をあたえ。

 次への期待をいやおうなく高める一品に。


「ちょっと趣向をかえて、こんなものはどうでしょう」


 そう言って、目の前には炙りの肉が来る。

 他に、皿の上にこれといった付け合わせは無い。そんな物はよけいだと、シンプルに焦げ目がつくまで炙られた肉だけがスライスされて皿に盛られた。


(へえ、ここにきて肉か)


 そのこうばしい香気に鼻腔をくすぐられる。

 ここまでで、すでに体は十分に温まり、すっかりくつろいだ心地だったけれど、どうやらそろそろこのコースも締めらしい。メインらしき肉については、主人からはそれ以上の説明は無かったので、さっそくそれを口にする。


 口にすれば、魚とは違った肉の力強さと脂の旨みが、満ちていく。


「旨い。が、旨いは旨いが・・・、なんだろうなこれは」


 予想通り、と言わんばかりのしたり顔の主人が言うことには。


「これも魚醤なんです。漬けこんで焼いてみたところ、これがとても美味しかったのでお客さまにもお出しするようになったんですが。この魚醤の肉にも負けない荒々しさこそが、地元の人がよく使う伝統的な製法の魚醤のもつ旨み、なんでしょうね」


 と言い。これまた、そそがれた酒は強い酒だった。アルコール度数が、じゃない、伝統的な製法でつくられたというこの酒は吞口のみくちが強い。いっそ喧嘩するつもりで、肉とぶつかる。

 いやはや、調和させたり、喧嘩させたりと。このご主人はいったいぜんたいどうしたいのか。まるで、手のひらの上ででも踊らされているかのような。

 

 心地好く踊らされるのだから悪い気分じゃないのがまた憎らしい。

 

「締めのお菓子をお持ちしますね」


 そう言い残し、裏へと行ってしまう。

 そのわずかな間も、今日の余韻がいつまでもある。すっかり身も心も温まっていた、酩酊とまではいかない、ほろ酔いの頭にはそれすら演出に想える。


 だからか。


(いい店なんだがな・・・)


 さびしい店内なのが、無性に残念に思えた。

 一介の客が心配するようなことではなかったのかもしれないが、これではあんまり勿体ない。


 空のグラスも寂しげに。

 これが老婆心というやつなのか。


「お待たせしてすみません」


 主人のそんな声に、気持ち良くなりかけていた頭の中に、ハッと意識がもどる。


「こちら、果実酒と焼き菓子になります」


「ここで果実酒、なのかい?」


「ええ、そうです・・・」


 ここまできて、不思議なことに言葉を濁す。

 まるで、一本の引かれた線を上から塗り潰すようだ。


 そんな思いが顔に出ていたのか、主人はこれまた不思議な、どこか懐かしむような顔をしてその笑みには苦みもあり。

 これは立ち入ってしまったようだ。視線を外し、皿の上を注視する。


 平皿の中央に焼き菓子がのっている。持ち手の細いグラスには液体がそそがれて、赤い。

 焼き菓子の端をそっとけずる、そのまま口へと。


(ナッツと、スパイス。甘い、けれど甘すぎない)


 慎重に、今度はグラスを口もとに近づけた。


(香りは強くない。花のようだ。しっかりと甘い、けれど、後を引かない)


 ほのかな味だ。

 ここにきて酸味と甘味、それとかすかな苦味。スパイスの複雑さも邪魔にならない。引き立てあっているのはお互いにじゃない、まるで今日の料理に足りなかったところを補いあうように、線を円にするために構成の全体をこれで整えた。


 主人に目をやれば、静かにうなずく。

 それにうなずき返すでもなく、ただ黙して、最後まで食べきる。


 食べきってしまえば。それこそ、長居こそ野暮天だったが。


「・・・作為が違う。これは、なんというか・・・、別人のおもむきがある」


 思わず口をついて出る。なにも推理がしたかったわけじゃないのにだ。

 そうした雰囲気に思わず口から出ていた。言わなければならないことがあると、そのためのこの日の邂逅かいこうなのだと。


 そこに待っている誰かがいると。

 なるほど。めぐりあわせというより、これはまさに縁だった。


「娘さん、か?いや、奥さんかい?」


「ええ、妻です・・・」


 他に誰もいない店内は、このためにあったんだなとも思う。

 戸がガタガタと鳴った。外には冷たい風でも吹いているんだろう。


「亡くなってちょうど一年になります。命日なんです」


 さして大きくもない声が、静寂にこだましてきこえた。

 悲愴さもなければ、たいがい未練というわけでもなさそうな。吐露する声はなおもつづく。


「本当なら、今日は店を開けるつもりなんてなかったんです。・・・でも、気付いたら開けてました。怒られるとでも思ったんですかね」


 実直な職人の目つきが、思い出話を語る遠くをのぞんだ目つきになる。

 ひとりで店を守って一年。ようやく一年なのか、もう一年なのか。


 お菓子だけでなく、この店を始めようと言い出したのも奥さんの方からだったらしい。元々は小さな商店を家族で営んでいたそうだが、目の前に大型の商店ができてしまえば、それですっかり家業の方はかげってしまったらしい。


 主人もこれで必死に親から継いだ店を残そうとがんばっていた、とはいうものの。


「どのみち限界だったんですよ。情けないことに、妻には店のために外に働きに出てもらい。残される娘のことなんてまったく気にかける余裕もない。ボロボロでしたよ。それで、精も根も尽き果てたころに妻がこの店をやろうと言いだしたんです」


 思いつきで商売の鞍替えなんてうまくいくわけがない。と、最初は反対していた主人も、ついにはそんな熱意にほだされて。だからといって、そんな素人がはじめた店になんて、とうぜん客が居着くはずもなく。


「なんでもやりましたよ。店を閉めたその後で、他の店の仕込みの手伝いをやったり、頼みこんで仕事を見させてもらったりと。いつ寝てるんだ、と今ふりかえっても思うくらいには働いて働いて。それは妻もおなじでした」


 主人は、焼き菓子の乗っていた皿と果実酒の入ったグラスに、交互に目をやり。

 つられてこちらの注意もそれに向く。向いたところで。


「お菓子を食後に出そう、って言いだしたのも妻なんです。どうにも、食事の締めに困っていたというのもあるんですが。ほら、うちの料理だとパンがあわないでしょう。メインを食べていただいて、お酒をちょっと楽しまれた後に帰っていただくというのでも、わたしはよかったんですけど。妻が、それなら甘いお酒ならどうだろう、ってそれはもう熱心に」


 甘いもので食後の余韻を壊されちゃかなわない、と最初こそ取りあわなかった主人だったが。

 嬉々として、提案されたその酒をためしてみたところ。果実を寒風に晒してつくられたその甘い酒は。


「これが悪くなかった。もちろんそのままお客さまにお出しできるかというと、そんなことはなかったんですが。妻と二人で、毎日、営業時間が終わってから顔突き合わせてああでもないこうでもないって・・・。なぜでしょうね、苦しかったはずなのに、なぜか最近、無性にあの頃のことを思いだすんです。・・・完成して、お客さまにお出しできるようになってからも、少しづつ少しづつ改良していって。そのうちに店もしだいに軌道にのるようになっていって」


 亡くなった時のことを、昨日のことのように覚えているのだろうか。語る声にゆらぎはないのに、目つきだろうか、顔の角度だろうか、そこに立っているだけでも、その場に崩れていってしまいそうな主人の姿があった。

 それきり、何も言えなくなってしまう気持ちが、痛いほどに。


 くいと、残った果実酒をあおる。

 すまないけどこれのお代わりをくれないか、と言うと。主人はハッとなって。


「すいません。よけいな私事わたくしごとでしたね。すぐにお代わりをおつぎします」


 と、何事もなかったかのように、別のグラスに酒をつぐ。そうして、すこしは職人としての顔をとりもどしたのか、ボトルからこぼさないよう慎重にそそぎ、スッと差し出す。

 グラスを傾けて持ち上げる。顔も知らない奥さんへの献杯けんぱいというわけでもなかったが。照明に透かした赤い酒は綺麗だった。故人の想いを透かして見ているかと思えば、それもとりわけ。


 そのまま誰もいない隣の席のその前に置く。

 主人はそれにひどく不思議そうな顔をしていたが。


「奥さんの分だ。夫婦の苦労話を聞こうってときに、ここに二人がいないんじゃまったく締まらない」


 もう一杯、果実酒をもらう。今度の酒は、乾杯するように主人に掲げ、話のそのつづきを誘う。

 いい夜だ。思い出話に花を咲かせるには、こんな寒くて温かい夜こそがちょうどいい。


 故人とのあらましを、ぬるんだ酒であたためながら。

 

「楽しい奥さんだったんだろ?パワフルであったかくて、この酒みたいに陽気で」


「ええ。気の弱いところのあるわたしを、いつもひっぱっていってくれました。ここだけの話、プロポーズも妻の方からだったんですよ。わたしがぼーっとしているあいだに、あれよあれよという間に、結婚しちゃってましたね」


「うらやましい話さ。恋女房と仲むつまじくなんて」


「・・・孝行してやりたかったんですけどね。この忙しさが落ち着いたらって、そんなことを考えているうちに。なにもしてやれないうちにですかね。子どもがわんわん泣いているんですよ。なのに、それなのにわたしはその時に泣いてやれなかった。きっと、そのときはまだ実感が無かったんでしょうね。それからようやくです、妻の死を自覚したのは、翌朝に厨房にこうして立って、それでようやくです」


「・・・奥さんは幸せものだったんだな」


「そうでしょうか?いらぬ苦労ばかりさせてしまいました。こうしていまでも唯一、妻の考案してくれたお菓子とお酒だけは頑なに変えることなく提供しつづけていこうと、妻のためにしてやれることなんて、情けないことに本当にこんなていどなんです」


 果実の甘い酒を、焼き菓子にもたっぷりと染みこませたデセール。同じ酒をつかっちゃ面白味がないからと言って、方々を二人して探しまわったそうだ。

 暇さえあれば、二人で食べ歩いては料理のアイデアを披露しあう。


 主人に代わって、遠方に赴くことも多かったそうだ。北の交易路が整備されるとまっさきに向かい、大量の魚を仕入れてきた、そんなことさえあったそう。聞いただけで、バイタリティの塊のような女性だった。

 今では、主人の記憶の中だけにある。


 鮮明に憶えているのだろう。記憶の中を探り、ひとつひとつを丁寧にひもといていく。


「未練、なんですかね・・・。暗い部屋で独りでいると、いてもたってもいられなくなって、店を整えて暖簾を表に出してました。常連さんには今日が休みだってことはあらかじめ伝えて予約はお断りしていたので、正直言って、誰も来るはずがないとおもってました・・・」


 その表情には苦笑い。なるほど、そういうことか。

 

「・・・店に入っていくとき、すこし驚いた顔をしていたね。妻だ、とでも思ったからかい?」


「ええ。こうして待ってたら、来てくれるんじゃないかと。たまに冗談でやっていたんです、客がさっぱりだったときに、妻がお客さんのふりしてこうしてガラガラって。・・・一瞬、あのときのように妻が帰ってきてくれたのかとおもいました」


 ふー、と主人は大きく息を吐く。

 吐いても吐いても吐き出せないものを、未練と思いながら。


 両手をまな板に置き、くずれないよう支えた。顔は俯いてこちらからは見えなくなる。

 それでも今日も板場に立つ。亡き妻の残してくれた、店と思い出とを大切にまもりながら。


「・・・邪魔したね。旨かったよ」


「ええ。ありがとうございます。それと、すみませんでした」


「後は夫婦ふたり水入らずだ。こんな夜ぐらいは、奥さんを想って呑むもんさ」


「ええ。そうですね。こんな顔して接客していたら、それこそ妻に怒られてしまいますからね」 


 暖簾は下げとくよ、と言い残し。後ろ髪ひかれることもなく戸をくぐる。

 後ろ手に戸をカララッと閉めてやれば、もう中からは物音さえしない。


 急に寒さがもどる。吐く息を白くして見上げた空からは雪さえ降ってきそうだ。

 さっきまでの穏やかさがまるで嘘のように。そう思って、その場で、振り返ってみても店はあったが、そこにはもう自身の居場所などありはしない。あとは寒さに身を縮こまらせながら帰る他なく。両の掌を脇の下に挟みこむと、背中をまるめて歩きだす。


 そうして、振り返ったことには。


「変わりゆく、か・・・」


 奥さんのことしかり、ご主人のことしかり。街の人の流れにしたって、景色にしたって、その記憶にしたってだ。

 

「悪いことばかりじゃないさ」


 それを証明するように背後からはガララッと勢いよく戸の引かれる音がする。ちらと横目に見えたのは、年若い女性の姿。

 それに、あらぬ思いはわきもせず。そのあと聞こえた大きな叱る声に、その声の持ち主が娘さんであるとはすぐに知れ。


「なんだ。奥さんにそっくりな娘さんじゃないか」


 つぎに訪れたときには、元気に二人で、いや三人で切り盛りしていそうなそんな予感に頬がゆるむ。

 また、旨い酒と肴と、旨い話を堪能させてくれることだろう。


 と、ひとつ寒さに震えて家路を急ぐ。

 宿住まいにて、もとより帰る家など無かったとはいえ。家は家。待ち人のいる。


 ずいぶんと待たせてしまったので、いまごろはきっと待ち人ご立腹だったろう。こうして、赤ら顔なうえに手土産も無しとくれば、そりゃとりわけ腹の立つ。

 留守番が、待ちぼうけだ。


「長居するのは野暮天かもしれんが、長居ができる店はいい店だ」


 この世界に落とされてきてから早何年経ったか。たいがい旅してきたつもりだが、まだまだ知らないことはあるらしい。故郷の味に似た、穀物の酒に郷愁がわずかにざわめきもして。

 その、熱さ冷たさにゆさぶられて、思いもかけない味がある。


 ご主人と亡き妻の、忘れがたき思い出に酔う。

 またひとつ、忘れられない味と出逢い。


「《亡き妻のためのグランデセールにシェリー酒を添えて》、だな」


 あといったい、いくつの味と出逢えるか。そんなものは神のみぞ知る。

 今日も今日とて、懸命に生き抜いて明日があり、昨日があっただけ。いつだろうとそれだけのこと。


 そんなことより懸念けねんすべきは。


「しまったな。金がもう一銭もねえや」


 ひしひしとくる、叱られる予感に、知らず苦笑いをうかべたのも無理はなく。

 そうして顎ひげをざりざりさする。


 これも無意識のうちに。

 指摘する人など誰一人としていないまま。


「まあ。なんの問題もねえか」


 とな。

 厚顔であること、世にはばからず。酔客に論を説くこと、時間の無駄であると。


 寒晒し 春待つ果実の 酒恋し。

 字余りですが、少しの苦味をそんな余韻に添えて。


 

 

 


 

 

 




 

 


 

 


 

 


 

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