紅葉

エビハラ

第1話

 電話口で泣き出した時の、君の震える声を今でも覚えている。


「どうしよう、いつかは言わないと思っていたことなんだけど」


 2020年の春、交際を始めて2ヶ月ほどが経過した頃だった。マッチングアプリで知り合った僕たちはメッセージをやり取りし、幾度か食事を重ねた。3度目のデートで正式に僕から交際を申し込み、君はそれを笑顔で承諾した。

 時を同じくして新型感染症に関する報道と、行動の自粛を呼びかける声が大きくなっていった。

 互いの職場や自治体からの呼びかけもあり、僕らは対面で会う事を自粛した。コミュニケーションの手段は主に携帯電話を介した通話になった。君と話すのは楽しかった。仕事のこと、共通の趣味のこと、互いに好きな作家のオススメ本を紹介しあったり。時間が過ぎるのを忘れて話し込んだ。その裏で君が言い出せない辛い思いを抱えていた事に僕は気づきもしなかった。


「私、昔同棲していたんだ。当時付き合っていた人と、半年くらい」


 僕も彼女も30歳を越えていたから、当然ある話だと思った。僕自身、過去に別の女性と交際した経験はある。彼女の過去、その全てを知りたい、という気持ちは僕には無かった。


「同棲した半年間、私エッチが出来なかった。どうしても出来なかった。なんで出来ないの、って元彼に言われるのが辛くて悔しかった。好きならもっと努力しなきゃダメだよって言われて、努力ってなんだよ!って」


 君は嗚咽を漏らしていた。僕は言葉を失った。薄いスマートフォンから聞こえる声が壁一枚隔てた向こうから聞こえて来ているような気がした。僕は「君は何一つ悪くない」と言った。そんなのは当たり前の事だった。当たり前の事しか言えない自分に腹が立った。


「だから、あなたともそういう事はできないかもしれない。こうして話しているのは楽しいけれど、私とはこれから先も、ずっとそれだけかもしれない。それでもいいって思えますか?」


 当たり前だよ、と僕は言った。僕はとっくに彼女のことを好きになっていたし、僕の性的欲求が彼女を傷つけるのだとしたら、それは押さえ付けるべきなんだと思った。

 彼女は「あー、泣くつもりなかったのにな、カッコわる」といって最後は笑った。

 僕は少しスッキリした様子の彼女の声を聴いて、ようやく安堵した。



 2020年の夏を過ぎると、新型感染症の感染者数も徐々に収まり、国は旅行需要の回復を目的としたGO TO トラベル事業を打ち出した。

 僕と彼女も新規感染者の報道が下火になるにつれて、それまでの電話デートから実際に顔を合わせて街に出かけるようになっていった。水族館で手を繋いだり、別れ際に車の中でキスをしたりした。高校生のようなプラトニックな恋愛だった。それでも僕は彼女と出かけるだけで十分に嬉しかった。

 アクセサリーを手作りする事が趣味の彼女は、よくデートの途中で雑貨屋や手芸品の店に行った。これでは色味が深過ぎる、この材質では印象がゴツすぎる、と店頭で唸りながら頭をひねる君を、隣で見ているのが好きだった。

 

 「ごめんね、待たせて」


 と彼女は毎度口にした。全然いいよ、と僕は言って買い物カゴを手に携えて彼女の歩く方向に付き従った。


 「君って犬っぽいよね、でっかい犬」


 後ろをついて回る僕を見て、彼女はそう言った。


 「ゴールデンレトリバーみたいな?」

 「うーん、どちらかといえばセントバーナードかな」

 「ハイジの犬だ」

 「そ、ヨーゼフ」


 僕は子供の頃に再放送のアニメで見た、アルプスの少女ハイジに出てくる犬の姿を思い浮かべた。普段は寝てばかりいる大きな犬だ。


 「私は猫だから」


 彼女は言った。確かに彼女は猫好きで、僕たちはよく猫カフェに行って猫と遊んだ。互いにアパート住まいだったから自宅では飼ってはいないものの、彼女は実家で世話をしているという茶虎猫の写真をよく見せてくれた。茶虎猫の名前は「姫」といった。「姫」という名前のオスだった。もうおじいちゃんの歳だというその猫を模して、彼女はよくアクセサリーを作った。


「確かに猫っぽいかも」

「え、どういうところが?」

「気まぐれなとこ」

「それって褒めてないよね?」

「褒めてるよ?」

「そーかなー。ほんとかなー」


 そんな冗談を言っては笑いあった。デートのたびに、彼女が身体のどこかに付けている自作のアクセサリーを僕は探した。新作を身に付けているのを見つけた時は「先生、もしかしてこれは海をイメージした新作でございますか?」などと言ってミニコントを始めた。彼女はそのコントに乗っかる事もあったし、大真面目にモチーフについて説明してくれる事もあった。アクセサリーについて真剣に語る彼女の横顔が好きだった。僕は幸せとはこういうことか、なんていう月並みな感想を抱いたりもしていた。


 秋の終わり、僕と彼女の連休が都合よく重なったので、一泊二日の旅行に出かけることにした。国のGOTO政策で旅館の宿泊費が何十%と割り引かれるので、せっかくだから普段泊まれないようないい宿に泊まろう、という話になった。

 旅行先には奥飛騨の温泉郷を選んだ。選んだ理由は紅葉だった。予報通りに気温が下がれば、旅行の日程には紅く染まったモミジの葉が見れる予定だった。せっかくだから部屋から紅葉を見る事ができる旅館がいい。その条件で探してみたところ、検索にヒットした奥飛騨の旅館が予算的にもちょうど良かったのだ。

 当日、彼女を家の前で拾い、高速道路に乗って奥飛騨を目指した。彼女はダークブラウンとベージュのサロペットスカートに、えんじ色のベレー帽を被っていた。ベレー帽には猫の形をしたブローチがついていた。彼女の手作りのものだった。

 車の中では、いつものようにたわいのない話をした。

 彼女の実家は愛知県の一宮にあったから、隣接する件の岐阜には小さい頃に何度か遊びにいった、という話を聞いた。


「岐阜って何が美味しいんだっけ。なんか食べた覚えある?」

「奥飛騨でしょ?飛騨牛じゃないの。あとは五平餅とか」

「五平餅って岐阜だっけ?」

「んー、なんかあの辺全域ってイメージ。あとは朴葉味噌かな。葉っぱに味噌乗っけて焼いたやつ」

「へー、なんか米に合いそう」

「米に合わない味噌なんてないでしょ」

「そりゃそうか」


 高山市まで車を走らせ、市街地の駐車場に車を停めて少しの間プラプラと歩いて観光した。行きの車の中で話題に出ていた飛騨牛の串焼きを食べながら、城下町の古い建物を見て回った。明治期に建造された歴史のある街並みらしいが、開発によって完全に観光地と化している印象だった。


 「思ったのと違くてガッカリした?」


 一時間ほど歩いて回って、車の座席に戻った時、彼女は僕にそう聞いた。


 「いや、そんなことないよ」

 「そうなんだ。私は違ったけど」


 彼女はそう言って僕の目を見つめた。なんだか見透かされているような気がして、僕は思わず目を逸らした。嘘をついたつもりはなかった。けれど、ジットリとした後ろめたさがあった。確かに僕はここに来る以前は、もっと別の印象を高山の街に抱いていたのだ。


 「まぁいいや、行こうよ」

 

 彼女に促され、僕はギアをドライブに入れてアクセルを踏んだ。車窓に流れていく景色を、彼女はボンヤリと眺めていた。


 

 予約していた旅館の部屋は思っていたよりも広かった。部屋に隣接している内風呂からは紅く染まったモミジが見えた。夜にはライトアップもされると仲居さんから説明があり、期待が高まった。

 僕と彼女はそれぞれ大浴場で汗を流し、浴衣に着替えて夕飯へと向かった。流石に良い値段のする旅館の夕飯は豪勢で、僕と彼女はキャッキャとはしゃぎながら舌鼓を打った。お互いに滅多に飲まない酒を飲み、ほろ酔い気分で部屋に帰った。

 暗い部屋の真ん中には布団が二枚くっつけて敷いてあった。

 淡い光が内風呂のある部屋の外から忍び込んでいた。

 

 「どうしよう、もう寝ようか」


 僕は言った。早く眠ってしまうべきだと思った。


 「したいんでしょ」


 部屋の中には静寂が満ちていた。チョロチョロとお湯が流れる音が、内風呂の方から聴こえていた。薄暗闇の中で彼女が浴衣の帯を取るのがわかった。さら、と布の擦れる音がした。下着姿になった彼女は、布団の上にゆっくりと横になった。


 「わかってるよ、君がしたいこと」


 彼女の身体は、暗闇の中で白く浮かび上がっているように見えた。薄い肉体、ほっそりとした脚、肋骨が薄く浮き出たウエスト。僕は口内に溜まっていた生唾をごくりと飲み込んだ。

 彼女は気付いていたのだ。キスをするたび、抱きしめるたび、僕の性的な部分が反応していたことに。あの日電話口で彼女が嗚咽を漏らしてから、僕はそう言った劣情を彼女に抱かないようになるべくコントロールしてきたつもりだった。でもそれはけして完璧ではなかった。一泊の旅行を彼女に提案した時、僕の腹の中に全く打算が無かったと言い切れるだろうか。僕は彼女のことが好きだった。人間としてはもちろん、性的にも。きっとその感情は彼女に伝わってしまっていた。

 僕はゆっくりと彼女に近づいた。彼女は細い腕を顔の上に置き、こちらを見ないように横を向いていた。

 その腕はかすかに震えていた。その身体は確かに震えていた。僕には彼女が無理をしているように見えた。泣きながら「エッチができない」と告白した彼女の声が、僕の脳裏にフラッシュバックした。


 「やめよう」


 僕は言った。


 「無理しなくていいよ。怖がってるの、わかるよ。君が嫌だと思っていることを、僕は出来ないよ」


 しばらくすると、鼻を啜る音が聞こえてきた。

 彼女が泣いているのがわかった。僕は彼女の身体に掛け布団を被せて、その隣に横になった。啜り泣く彼女の肩に手を伸ばそうとする。しかし、それは彼女の腕によって阻まれた。


 「……はじめは、君のこと優しい人だと思ってた」


 彼女の声は震えていた。


 「でも、違うよ。君は人が傷付くのを恐れているだけ。人を傷付けた結果、自分が傷付くのが怖いだけ。どうして一緒に傷付いてくれないの。どうして自分だけ安全でいようとするの……」


 僕は、何も言えなかった。彼女の肩を抱き寄せることすら出来なかった。部屋には彼女の啜り泣く声と、お湯の流れる音だけがずっと響いていた。僕は一睡もする事が出来なかった。彼女に言われた言葉が、ずっと胸の中を渦巻いていた。



 年末年始を過ぎた頃、新型感染症の感染者数が再度大幅に増えたこともあり、僕と彼女のデートの数もめっきりと減った。以前のように会えない時間を通話で埋め合わせようとしたけれど、どうにも上手くいかなかった。会話が続かないのだ。僕は彼女との間に流れる沈黙が怖くて、いつもより饒舌に話した。けれど話せば話すほどに、彼女がうわの空になっていくのが分かってしまう。

 あの旅行の日以来、何かが決定的に変わってしまったと、その頃の僕は思っていた。今思えば本当のところはそうではなかった。僕と彼女の間にあった関係性の綻びのようなものが、徐々に顕在化していった結果、僕らはあの日を境にすれ違ってしまったのかもしれない。ゆっくりと色が変わり、そしてハラリと地に落ちていく紅葉の葉を思った。枯れる寸前に美しく色付く紅葉の葉を思った。


 いつしか、彼女に送ったメールは返ってこなくなっていた。

 僕は会社の人事異動に伴って県外に引っ越すことになった。そのことを知らせたメールにも、彼女からはなんの反応も無かった。

 年度が変わる頃、僕は彼女に別れを告げるメールを送った。

 きっと無理矢理に会いに行く事も出来た。無様に別れたくない、と叫ぶ事もできた。でも僕がそれを出来なかった理由は、それこそあの時彼女が言った言葉の通りだった。僕はこれ以上傷付きたくなかったのだ。


 「愛してもらった分と同じだけ、愛してあげられなくてごめんなさい。お元気で」


 春になる頃、彼女から短い文章で返信があった。

 僕は迷った挙句、そのメールに返事はしなかった。

 

 「どうして一緒に傷付いてくれないの」


 泣いていた君の言葉を今でもふと思い出す。

 思えば、いつもさらけ出してくれるのは君の方だった。

 僕には何が出来たのだろうか。

 何をすべきだったのだろうか。

 秋に葉が色づく度に、僕はそう考えるのだろうと思う。


 おわり

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紅葉 エビハラ @ebiebiharahara

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