秋は来ぬ

蒲鉾の板を表札にする

第1話


「じゃあイクラはなんて意味でしょうか」

さっき初めて会った同い年くらいにみえる女の子がぼくらに聞いた。

その瞬間、近い将来でこの子を好きになってしまう予感がした。ビビッと来るとはこのことかと思った。

「ロシア語で『魚卵』だから、とびっこもたらこも本当はイクラなんですよね」

変なことばかり知っていてよかった。一緒に居た、これまた同い年に見える男より彼女に近づけた気がした。

「えっ正解。よく知ってましたね」

「うん。たまたまですけど」


飽き性だった。だから、どのアルバイトも続かなかった。始めたてはすべてが新鮮で気持ちよく働けるのだが慣れると、どうもジャングルがちっぽけな家庭菜園になったような気がして、どうにもつまらなくなった。

慣れた頃に離職。新しいアルバイトの面接にはいつも受かってしまい(本当は働きたくないのだが、遊ぶ金は自分で稼がなければいけないため、仕方なく)働き始める。そして、また慣れた頃に離職。所詮学生のアルバイトだし、責任感も持たずに急に職場から姿を消したこともあった。

運動が好きではなかったため、日々怠惰に生活していたのだが、ふと金を貰えばさすがに体を動かせるのではないかと肉体労働を始めた。

大抵の仕事は三週間あれば慣れた。だから、三週間あれば十分辞めたくなった。しかし、その肉体労働は過酷ゆえ待遇がよかった。そのため、そこでは半年も働いた。たった六か月でも長く続いた方だった。先輩のおばちゃんたちはうるさく、やけに世話を焼こうとしてくるのが鬱陶しかった。だが、きついバイト終わりに自転車で走って帰る夏の午後が好きだった。


二月に肉体労働を卒業。三月には新しいバイト先を得た。四月に新装開店する宿泊施設のオープニングスタッフだ。全員一列で初心者だから、誰よりも早く仕事を覚えて楽に稼いでやろうと思った。ある程度稼いだら辞めようとも思っていた。以前の仕事程ではないが給料は悪くなかった。

オープンまでの研修二日目で冒頭のイクラに出会った。彼女は一つ年上の大学二年生で「ナカツマユ」さんといった。ナカツさんは一見不愛想というか、決してにこやかではなかった。だが、変な質問をしては、ひとりで悦に入って笑うようなチャーミングな人だった。

いい気になっている彼女が可愛くて、同じ日に研修を受けた同い年に見える男こと五歳上のフリーター「ササキシンゴ」に勝手なライバル心を抱いた。

彼は答えることこそしなかったものの、ナカツさんの質問に対して、つぶらな目を細めていかにも優しそうに笑った。見た目は丸眼鏡にマッシュルームヘアの言っちゃ悪いがサブカルっぽい今どきの兄ちゃんだった。だが、帰りがけに更衣室で見た私服がめちゃくちゃかっこよかった。いつも黒一色のぼくとは比べ物にならない着こなしだった。彼はストライプのシャツやジーンズ、ビッグサイズのブルゾンを羽織りさっそうと最寄り駅まで歩いていた。ササキはナカツさんからしても年上だしそんな男に特段冴えているわけでもない自分が勝てるはずがない。しかし、彼には同棲中の恋人がいるらしく「そんなの一番楽しいやつじゃないっすか~」と大げさに羨ましがるふりをした。


ナカツさんと初めて会った日のササキがさっそうと駅に向かった終業時刻。

裏口から出たところで、ばったり彼女に会えてしまった。施設の備品が届いておらず今日は研修といっても習ったことは少ないし大して疲れてもいなかったが、とりあえず「お疲れ様です」と声をかけた。

彼女はスマートフォンから目を離し、こちらを見て同じように言った。イクラのときもそうだったが、彼女は仕事中も臆することなくWi-Fiをつなげてスマートフォンを触った。イクラのときはそれ以前に仕事で使う備品の名称が馴染みのないものであり、「これって何ですかね。何語?」と言いながら彼女はその由来を調べた。そこから言語クイズに発展したのだ。

「フランス語みたいですね」と当てずっぽうで返した。実際に彼女の調べによるとそれは、まさしくフランス語由来だった。初対面から随所で彼女に間接的なアピールができたように思えた。ぼくはこの程度でアピールといってしまうほど、女の子とうまく話せた試しがなかった。

「駅、あっちですか」

流れでバイト先の最寄り駅である喜多嶋駅までご一緒した。

少し速い足並みで彼女は駅までの混雑した道でもすらすらと人をよけ、その間を縫うように歩いた。

別れてしまう前に次に会ったときも話すことができるようなきっかけを何かつかみたかった。

「家、どのあたりですか」

この文脈だとぼくがした質問みたいだが、駅に入ってしまう前に彼女が聞いてくれたことだ。現時点でのぼくの功績といえばイクラとフランスだけ。ただのクイズ好きだった。

「北上線の端から二番目です。森の宮駅」

「結構遠いですね」

「ナカツさんはどのあたりですか」

ご自宅の最寄り駅はどこですか。これが、二一歳の女性に聞いてもいい情報なのか分からなかった。だが、最初に聞いてきたのは向こうからだ。路線図を見るたびに、ナカツさんを思い出せるようにとかふとその街で降りてみたいとか、そういった不純な動機からくる質問では断じてない。

「私も北上線です。川俣。逆方向だけど」

そうか。ナカツさんは川俣の人か。喜多嶋駅からは四駅くらいの比較的近い場所だった。

「あ、近くていいですね」

「はい。十分くらいで着きます。この前も九時十分に起きて間に合いました」

「それはギリギリだなー。あ、川俣の人って信号無視しますよね」

以前、川俣に行ったときに、ほとんどの人間が赤信号でも平気な顔で歩行しているのを見かけたことがあった。だから、この地域の話になるといつも「川俣の人は信号無視する」と言うようにしていた。特に意味はないのだが、街に対する偏見のような事実はそこそこの確率でウケたからだ。

「え~そうですか。そんなことないですよ」

「いや、ぼく見たんですよ。びっくりしました」

駅まで、さほど苦しまずに会話を続けられた。雑談とか談笑とか限りなくそれに近い雰囲気だった。しかし、普段年が近い女の子と話す機会があまりないため、もし職場から駅まであと八十メートルあったら、きっときつかった。意味もなく「いや~頑張りましょうねこれから」みたいな研修鼓舞モードに入っていたことだろう。できればイクラの印象と同じくらいの人柄的インパクトを与えたくて、当たり前のことは言わない人になり切った。

「三階から上がってきた飯田さん、富士山登ったみたいに息切れしてましたね」

「ちょっと、失礼ですよそれ。でも確かに。膝に手ついて呼吸整えてましたね」

多少、人を馬鹿にしたことを言っても彼女は嫌な顔をしなかった。皮肉みたいな下手な冗談を笑ってくれる人でよかった。初日に選択ミスは痛手だ。

「じゃあ、お疲れ様でした」

彼女は川俣へ、ぼくは森の宮へ行く反対方向の電車が来るのを待った。淡く、期待しながら何ともない顔で。

帰ってLINEを開くと、バイト先のグループを通じてナカツさんから「友だち」に追加されていた。ナカツさんは正確には「仲津真有」と書くらしい。真が有る、一本芯の通ったようなすっきりした字だ。それから少しだけ趣味の話になったが特に一致した好みも見つけられずに会話は途切れた。男友だちとしか連絡を取らないため、どんな会話が正しいのか全く分からなかった。唯一いる女友だちのサクラにこういうときは、どうしたらいいのかと聞きそうになったが、低いものの確かにそこにある男のプライドが邪魔して、結局誰からもアドバイスを仰ぐことができなかった。


彼女と出会って二回目の終業後。制服から着替えるスピードが同じなのか、また裏口で彼女に出会えた。その日は小雨が降っており天気予報でもそう予報されていた。しかし、傘を差すほどでもない、むしろ労働後にうってつけの心地よい雨に感じた。

また会えましたねと言い駅まで向かおうとしたとき、マユさんは傘を持っていない様子だった。ぼくは、持っている。天気予報を見てから家を出る習慣があるため、赤い折り畳みが鞄の中にある。しかも差さなくていい程度の微妙な小雨だ。マユさんに折り畳み傘を差し出すか、それとも相合傘か。

どちらも無理だった。高い羞恥心のハードルを高身長とはいえない自分は越えることができなかった。なんなら「このくらい差さなくても行けそうですね」と言い、駅まで小走りした。すべてが不正解だ。あのとき、相合傘しておけば今頃後悔せずに済んだのに。心に晴れ間を差すために相合しておけば。ああ、相合。曇り行くわが心にも小雨かな。

『ちびまる子ちゃん』の祖父友蔵による「心の俳句」は心に仕舞い切れずに友蔵がどこでもかしこでもぽつりぽつりと句を言って回ったら終わりだと思う。だから、心の俳句にとどめておかなければならない。俳句も短歌も歌も恋愛絡みのものばかりだ。全部ラブソング。小雨は淡い期待なんかではなくて、もう十二分に可能性を感じている無意識下に降り注いでいるのだ。止まなくていい。『ショーシャンクの空に』みたいになりたい。


『今度一緒に帰りませんか』

無念、相合傘ならず!のあとマユさんから駅までのばったりを偶然ではなく、必然にしませんかという旨の連絡がきた。やはり、あのとき彼女もこちらにビビッと来ていたのではないだろうか。

『ぜひ!終わり次第、出口で待ってます』

感嘆符なんかつけて、こちらも前のめりですよというアピールをしたつもりになった。

しかし、当日の終業後、彼女は裏口には現れなかった。


『あれ、ハルキくん帰っちゃいましたか』

『マユさんが先に帰られたのかと…』

『えっ私結構待ってましたよ』

どうやら、彼女は表でずっと待っていてくれたようだった。何で表なんだよ。いつも裏から出て裏で会うのに。正式な待ち合わせだから、表に行ったのだろうか。

てっきり、彼女がすでに帰ったものだと勘違いして、もしかしたら追いつくところにいるかもしれないと駅まで走った。

表と裏でアンジャッシュ(両者がうまくすれ違うことの意)していたとは。いつもとは違う場所で長い間待っていてくれた多分、間違っているマユさんが愛おしかった。あの人がその人生においてぼくなんかを待つことがあるのだ。もちろん、申し訳ない気持ちの方が勝ったがそれだけで嬉しかった。


『すみません。それで埋め合わせっていうか、良かったら今度遊びませんか』

これもマユさんから。グイグイじゃないか。いや裏口が正解だろ!といいながら「すみません」なんて言わないでくれ!とも思う。しかし、バイト仲間って何して遊ぶんだ。ご飯に行く選択肢しか浮かばなかった。

『今日残念だなと思っていたのでうれしいです!』

前のめり感嘆符。効果はあるのだろうか。ビビッと来ておいて一度もこちらからアクションを起こしていない。相合傘、しておけばな。

どうやら彼女はひとり暮らしのようで、最近古いゲーム機を買ったので家で人生ゲームをしませんかとのことだった。いや、駄目だろ。そんな、いいのか。手っ取り早く家に行ってしまえば、とりあえず、最短距離でバイト仲間からお友だちにステップアップできる、かもしれない。それ以上先にはまだ進まなくてもよかったのだが、ぼくは飽きてまたバイトを辞めてしまう気がしていたので、できる限り早く仲良くなりたかった。

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秋は来ぬ 蒲鉾の板を表札にする @kamabokonoIta

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