3.何でも屋

時折、額に湧いた汗が、目尻に垂れる。

腹立たしそうな顔をして、拭っている。

何もしなくても汗が流れる。


この真夏に、原色の黄色いジャンパーを着ている。

背中には、太く黒々と「何でもするゾウ」と書かれている。

「暑い」弘は、舌打ちをして呟いた。


住宅の、一戸一戸にチラシを配っている。

回った地区の住宅地図に、赤ペンで囲い、斜線を引いている。

それが、チラシを配った印にしている。

この地区にチラシを配るのは、これで四回目だ。


秋山は、五年前に、長く勤めた会社を退職した。

再就職先を探していたが、勤め先は未だ決まっていない。


今は、勤めていた会社の関係で、知り合った社長の仕事を手伝っている。

今日のように、仕事の入っていない時は、一日中、地域を決めてチラシを配っている。


また、目に汗が垂れそうだったので、ハンカチを取り出そうとした。

その時、携帯電話の着信音が鳴った。

「お疲れさまです。秋山です」寺井社長からだ。

汗が目に染みた。

「秋山君。仕事が入ったから、直ぐ帰って来て」

どうにも、我儘な性格だなあ。


寺井社長は、寺井冴子という。

以前、寺井物産という水産加工食品の販売会社を経営していた。

その後、栗林市にある、大内病院の事務長に就いていた。

大内病院の院長の息子で次期院長の、大内慎也と結婚した。

しかし、寺井冴子は、次期院長夫人に納まるような女性ではなかった。


どうしても、事業をしたいという冴子の我儘から始めた会社が「何でもするゾウ」だ。

もちろん、冴子社長は、大内病院の次期院長と結婚しているので、大内冴子になって居る。

仕事上は、寺井冴子と名乗っている。


「何でもするゾウ」は、花宮水産の配送部門を分割し、花宮からの融資を受けて営業している。

仕事の大部分が、花宮水産の荷物の配送だ。

本業の収益は僅かだ。人件費を支払ったら赤字になっている。


寺井社長とは、以前、勤めていた会社での立場をそのままに、関係性を引き摺っている。

「猫やないわなあ?」弘は、猫が嫌いだ。

「残念。違うわ」

寺井社長が、乗って来た。


今、傷跡は残っていないけど、つい先日まで、左手の甲に瘡蓋が三筋あった。

床下に、猫が子猫を産んでいるので、捕まえて欲しいとの依頼を受けた。

すぐに、親猫と子猫四匹を捕まえた。


しかし、依頼主から、その親猫と子猫達の引取先を探すように依頼され、ケージと五百グラム入りの餌と一緒に渡された。

餌を与えて、水を替えている時、親猫に引掻かれた。


そうこうしているうちに、引取先が、見付かったのだろう。

いつの間にか、ケージごと、居なくなっていた。


そう云う訳で、弘は、寺井冴子の「何でもするゾウ」で、仕事を手伝っている。

仕事の多くが、掃除と引越なのだが、まれに、逃げたペット探しなどの、変わった仕事もある。


弘は、掃除とか、引っ越しとか、力仕事は不得手だ。

普段は、会計帳簿を付け、作業の日程調整等の管理業務をしている。

作業はすぐ終わるので、地域を決めて、チラシを配っている。


「そうか。残念やなあ」弘は、ほっとした。

だから、回って来る仕事は、ちょっと変わった仕事になる。

「ペット探しも、あるんだけど、ヒロム君、やりたいん?」

確か、社員の龍治君が今日、犬を探している。柴犬だ。

「あっ。いや、今回は、止めとくわ」

弘の怖くない犬は、小型犬だけだ。


「そう。よかった。龍治君と入れ替えないといけないかと思った」

寺井社長は、弘に、いつも嫌味を云う。

未だに、景子と結婚したことを恨みに思っているのだ。

「いや。良いです。それで、仕事はどのような内容でしょうか?」言葉は丁寧だが、思いっきり舌を出していた。

「人探し」

人を探すのは、何度か経験している。


「そいで、どんな人なんですか?」弘は、乗り気だった。

チラシ配りに飽きていた。


「これが、資料よ」寺井社長は、弘に封筒を渡した。

浅井弁護士事務所の封筒だ。


浅井弁護士は、女性弁護士で、「何でもするゾウ」の顧問弁護士だ。

弁護士事務所といっても弁護士一人、事務員一人の個人の事務所だ。

その事務員一人が、景子だ。


「それは、景子が、ママ友から相談されたらしいけど。聞いてないん?」

寺井社長は、皮肉たっぷりに云った。唇の片方だけ、歪めて笑っている。

「いや、聞いとらん」何か聞いたようにも思うが、聞き流していたのかもしれない。

「会話、少ないんやなあ」冴子社長が、淋しそうに云った。


弘は少し考えて「元々、無口やし」そう、返したが、元気な声は出なかった。

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