第13話
「長くあなたがいないのは寂しくて、辛いわ」
妻がそう口にしたのに、俺は黙りこくった。
仕事がはいった。それも映画の仕事だ。映画一本とるのに、どれだけ時間が必要か・・・・・・だいたい一年から二年。長いものだともっと時間がかかることもある。ドラマも長編になればなかなかに時間がかかることはざらだが、今回はシリーズものの続編。
ずっと大切にしてきた仕事だ。それでも舞台になる場所や撮影に割く時間を考えれば一年はほぼこの仕事に費やすことになる。
誰かになることがうまい。
だから俳優をしている。
同時に、誰かになるとき、俺は俺を見失う。憑依させるではなく、思考もなにもかも相手になりきる。
撮影している間、俺は家のことを忘れ、妻のことも忘れ、ひたすらに役になりきる。
シリーズものの、大切にしている役は――ヴィラン。
世界を憎み、恨み、呪う、ヴィラン。
シリーズはじまってからその人気は強く、彼が引き起こす悲劇と喜劇は見るものを魅了していった。
俺も、このヴィランのことをとても・・・・・・大切にしている。ただこいつは悪辣で、乱暴で、粗野で、だからこそ魅力的だ。
たぶん、妻をその間どう俺は見るだろう。
一作目、二作目のときは彼女とは出会ってもいなかった。
長くかかった三作目。これで完結する物語の脚本を渡され、読んだとき、やりたいと俺のなかのヴィランが囁いたのを感じた。
俺がヴィランをやりはじめてきっかけの話。こいつのおかげで俺は俳優をまだかろうじてやっていけている。
コメディでも、シリアスでも、恋愛でも俺はどうもぱっとして売れなかった。エキストラやそこらへんの冴えない役をやって必死にこの業界にしがみついていたとき、こいつと知り合い、手に入れた。
けれど、だからこそ。妻といるとき、こいつでいる俺はどうなるだろう。
撮影の合間、彼女に近づいていいのだろうか。
「私、この作品も見たわ」
「うん」
「とても素敵だけど、最低の男で私はこのヴィラン、嫌いなの」
「……じゃあ、家に帰らないほうがいいな」
「あなたがどういう俳優かは知ってるもの」
妻は優しく、詰ってくる。
「だからね」
少しだけ間をおいて
「あなたがいないと寂しい」
抱擁はあたたかい。
「あなたがどれだけ彼を大切にしているか知ってる。あなたが売れるきっかけだもの」
「うん」
このヴィランに俺が与えたのは俺のなかの闇なんだろう。憎んだり、恨んだりする気持ちをこめた。
こいつから他のヴィランの役もまわってくるようになった。それはとても幸運なことだし、楽な仕事だった。こいつを元に他のヴィランをしていたから。
「けどだから嫌いよ」
「そうか」
「……嫌いな男だけど、帰ってきて、お願いだから」
「嫌いなのに?」
「嫌いでも」
「わかった。ただ嫌いなら嫌いでいい、だから今夜はいっぱいキスをしよう」
「そうね」
寂しくないように、と妻は囁いた。
仕事がはいると、こうして一時妻に背を向ける。銀幕の下に出るときたまらない高揚を覚える。大嫌いな自分を殺せる。たぶん妻は俺が、自分を殺すのを、このヴィランが殺してしまうことを恐れて、憎んでいるんだろう。それでも俺はこの一瞬、生きていると思うんだ。
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