第7話
「いたたた」
妻が声をあげる。それに合わせて、力をこめる。
「いたたた」
この程度でもう泣き言をいうのか。
俺は力を抜いて体を起こした。下にいた妻はむすっとした顔をして俺を睨んだ。
「痛い」
「柔軟体操ですでに根をあげるのか、君は」
「うっさい。私、最近、仕事してないんだから仕方ないでしょう」
おっしゃるとおり。そうしてほしいと口にしたのは俺で、従ってくれたのは君だ。
結婚するとき、仕事から手をひいてほしいと口にした。
女優になりたいと願っている彼女の夢を一つ潰す代わりに、金銭面では何一つ不自由はさせないと約束した。彼女は笑って、馬鹿ね、と口にした。
けど、きっと、本当は彼女はいつも仕事をしたかったのだろう。
銀幕の下に躍り出たいのだろう。
たこでも、いかでも、海でも、山でも、恐竜でも、殺人鬼でも、なんでも相手にして、いきなり殺されても、名もないエキストラでも、ちょっとした台詞があるだけでもいいから、どこでもいいから出て演じたいのだろう。
そこに自分が作ったものがあると、見たいのだろう。
同じ仕事をしているからよくわかる。
ただ俺は人になるのがうまかっただけ。
彼女は人に認められたいと願っただけ。
柔軟体操のあと二人でジョギングをすることにした。
スポーツウェアを着て、日差しの眩しさから我が身を守るようにサングラスとドリンクを準備したあと、ひたすら公園を二人して走る。いつもの調子で走ると彼女をすぐに置いていくので調子を合わせる。息を弾ませて、体をすすめる。いくつものスポーツマンと幸せそうな家庭の姿が見える。
子供もいらないと口にした。
出来たら二人きりの時間を味わいたいから。それに彼女は同意してくれた。いつもわがままを口にして、許してくれる。甘えている。けれどもう少しだけ、もう少し二人きりの時間を過ごそう。子どもが出来ても俺はその子が成長するとき七十近いおじいちゃんだ。それまで子供の成長を見ていられるのか? 不安定な仕事だ。いつも恐怖がある。銀幕は輝く。けれど幕をいつか閉じる日がくる。見定めて、去っていく。
スピードをあげようとしたとき、ぎゅっと手をとられた。
隣を走る彼女が息を乱して、止めてくれた。
二人でいる。まだ、ここで。いま、まだ。
「汗かいたー」
「そうだな」
「汗だくね、二人とも」
ふふと笑う彼女。
「家に帰ったら、二人でシャワーね」
「そうだな」
「……子供がほしいの?」
「いや」
違うよという意味をこめて、抱きしめる。
「君は?」
「あなたと二人きりもいいし、子供がいてもいいわ。私、がんばっちゃうんだから」
なにをとは聞かない。その笑顔にそうかと答える。だったら俺もがんばるよ、と答える。
まだ二人きり。
その安寧に溺れていたい。
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