#2
去年から働き始めたデイサービス施設に着くと、ロッカーでスタッフ用の制服に着替える。ここは男女共通の制服が用意されているのがありがたかった。介護関係は動きやすいようにどこでもパンツスタイルだと聞いたが、色の違いのあるところも多いらしい。同じ時間で出勤してくるスタッフが挨拶をしてくれるが、私はほとんどいつも、うまく声を出すことができない。
所長を囲んでの全体打ち合わせが済んだ頃、先に利用者を迎えに出ていた車が戻ってくる。介護の資格のあるスタッフたちは、にこやかな笑みで応対し、利用者の体調を確認しつつ、手指のアルコール消毒を促していく。
「おはようございます、調子はどうですか?」
「今日はお元気そうですね、今日はお風呂にも入りますよ」
「あらー、荒さん、こないだはどうもねえ」
「あれ、久しぶりだごと。腰はちっとは楽になったのかい」
通い慣れた利用者同士も雑談を始め、食堂は眠りから覚めたように賑わいで満たされる。私はその輪には入らず、入浴室に向かった。タオルの枚数を確認して、最初の入浴介助に間に合うよう、お湯を張り始める。何の資格も持たない私の仕事は、こういったいわば下働きのようなものだった。
食堂に戻ると、利用者たちの談笑に混じって、テレビから午前のワイドショーが流れていた。次の仕事は、今日の利用者全員が揃うまでの間、先に着いている人にお茶を出すことだ。遠目に白髪頭の数をざっと数え、厨房へと入る。音を大きめにしたテレビと、それに負けじと声を張り上げる利用者たちの会話は、厨房にいても嫌でも耳に入ってきた。
『東日本大震災から、もうすぐ十年が経とうとしています。しかし、復興は未だ道半ばです。十年の時を経て、家族を探し続ける人、悲しみを抱えて生き続ける人、そして、ふるさとに戻りたいと願う人を、取材しました』
聞きとりやすい標準語のアナウンサーの声は、意識から締め出そうとしても、するりと私の内部へと入り込んでくる。そして、聞き慣れた方言もまた、聞こうとはしていないのに、気づくとその会話に意識を絡めとられている。
「いだましなあ、めっかんねっつうのは」
「んだがら、あれ、向こうのばさまも、まぁだ孫めっかんねっていうだがら」
「んでも、うちに戻らんに人よっか、なんぼかいいべ。おれらこうして、うちがら来てんだがら」
「んだなあ、うちあっていがった」
うわーん、と利用者の中から子どものような泣き声が上がった。すぐさま近くにいたスタッフが駆け寄って背中をさする。先ほど話題にあがっていた、まだ孫が見つかっていないお婆さんだ。ちょうどテレビには、津波で変わり果てたどこかの港が映ったときだった。この利用者さんは認知症が進んできたから気をつけて、と先輩スタッフが言っていたけれど、いよいよデイサービスでは抱えきれなくなってきたのかもしれない。なかなか落ち着かず、今度は怒り出すお婆さんと、それをなだめるスタッフを、私はただ遠巻きに見ることしかできなかった。私にはケアをする技術もなければ、お気持ちわかりますよ、などという言葉も言えない。
「ほら、早く持ってって」
厨房をのぞいた別のスタッフが、調理台に置いたままの、プラスチック湯飲みがずらりと載った盆を一瞥して、私を急かす。食堂ではまだ同じワイドショーが流れている。私はのろのろと盆を持ち上げ、ゆっくりと運んで、テレビと会話にかき消されそうなかすれ声で、どうぞ、と一人一人の前に湯飲みを置く。
「あらー、ありがとねえ」
「やっと来たかい」
どんな反応にも等しく、背中を丸めたまま目礼をしていく。そして最後に、先ほどからひときわ元気にしゃべっている一団のいるテーブルへ向かう。
会話は少し騒がしいけれど、基本的には穏やかな人たちで、去年の四月にここに来たばかりの頃など、逆に私がいろいろ教えてもらったくらいだった。しかし、その親しみやすさが、ちくちくと私を刺す。
「ねえ、あんたのおうちは、無事だったのがい」
「あんた、相馬でねえっつったっけ」
来た、と私は身構えた。空になった盆を、胸の前に鎧のように抱きかかえて、またあとで不親切だと別のスタッフに怒られそうな早口で答える。
「実家はいわきです。なんともありません」
目を上げられないまま会釈をして、厨房カウンターに盆を置くと、逃げるように浴室へ戻った。利用者から預かった着替えを置きに来たスタッフとすれ違って、怪訝な顔を向けられる。私はとっさに、壁にある脱衣所の空調リモコンを操作するふりをして、スタッフに背を向けた。まだ冬と言っていい東北の三月は、しっかりと脱衣所も暖めておかないと、入浴事故の危険性があった。
人がいなくなっても、私は壁に額をつけて寄りかかったまま、そこから動き出すことができずにいた。いつもは肌の表面を刺すだけの針が、今日はあらゆる急所に的確に打ち込まれたかのようだった。
十年。今月であれから十年になる。その十年という時間は、物心ついてからの私の人生の、ほぼ半分にあたる。それは、私が私として生きるために、もがき続けた時間のことだ。あのことのせいではない。あんなことよりも、というのは不謹慎かもしれない。けれど実際、他に考えなければならないことが、私にはたくさんありすぎた。
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