波のはざまで

鈴野広実

#1


 「津波浸水区間 ここから」という看板をフロントガラスの端に捉え、真新しい舗装道路を走る。左手に見えてきた太平洋は、低い朝日を受けてきらきらと光っていた。そのまましばらく車を走らせ、松川浦大橋を渡り、鵜ノ尾岬トンネルを抜けた先の駐車場に車を停めて、大洲海岸に下りる。このあたりでは釣りをする人もいないのか、朝の海岸はいつも自分のための貸し切りだった。


 誰もいない砂浜に立ち、寄せては返す波をただ見つめ、その音をただ聞く。それだけで、すべてから解放されるような気分になれた。ユーチューブにある海の動画に、集中・安眠用などとタイトルがつけられているのも、納得がいく。


 逞しく力強く動き続け、一瞬たりとも同じ表情をしない海のうねりは、まるで生き物のようだった。しかし、そこに生き物のような意志や、まして命のようなものなど、ありはしない。このうねりに何か意味を見出そうとするのは、人間側の勝手な都合だ。たとえこの海が、十年前、多くの人の命を奪ったとしても、海にそんなつもりはないのだから。


 目を閉じれば、波の音の他には、生者の声はもとより、死者の声さえも聞こえない。このまま、自分の身体までも飲み込まれて、消えてしまうのではないか、と思う。そしていつも、そう思ったところで、スマホのアラームが私を現実に引き戻す。そうしないと、出勤するのを忘れてしまいそうになる。


 車に戻り、職場へ向かう。大洲松川ラインを走る間だけは、左手には太平洋、そして右には松川浦と、存分に海を感じていられる。しかし直線道路が尽きて右折するとすぐに、さっきまでそばに海があったとは思えない、一面の田んぼが広がる。その中を運転する時間が、一日の中でいちばん気が重かった。


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