第2話

ある朝、俺は暑さで目を覚ました。春が電柱のやや向こうから顔をのぞかせているのが、ここから見えた。太陽は燦々と輝いて、雪は降っていなかった。清々しいほど悪い天気だった。

今日こそ死ぬのか。氷を砕くには、うってつけの仕事日和だった。ただ、死期が早まっただけ、だけではない。初めての感情だから、自分でもよく分からなかった。だが、なんだか死にたくなかった。バスが停まる度、下車する人々の足が、自分をしっかりと踏みしめる足が怖くなった。いつ割られるのか、いつ溶けてしまうのか、怯えて、何もかもがどうでもよくなった。

だからだろうか、俺は何のために生きていたのだろうと不思議に思った。せっかくだから、生まれた日から今日までのことを思い返した。二時間経っても、午後になっても、特に何も思い出せなかった。

俺はただの氷だ。美味しいかき氷や美しい氷彫刻などではなくて、ただ、地面を覆っている、自然に生まれた汚い氷だ。悔いもなかった。それでも、殺されたくなかった。意味もなく、まだ生きていたかった。もっと遅い春の、もっと汚い、薄い氷に憧れた。

いや、結局のところ、厚さなんてどうでもいいのだ。幻想に意味はない。人間の前に、俺たちは力なく割られるのだ。彼らを危険にさらした罪をもって、割られるのだ。


死刑だ。富山節子の腰骨を折った罪による死刑だ。ごめんなさい。ごめんなさい。何が悪かったのか、よく分からなくてごめんなさい。

俺たちはそこにいただけだ。ばあさんが半田屋の前の、あいつを踏んだ。あいつだって悪くない。ばあさんが、ナイフを持ったやつに、自ら刺さりに来たのだ。ナイフを持っている俺たちが悪いのか。生まれたときから手から離れなかったのだ。刺そうと思って刺したわけでは、俺たちが、悪いのか。いつ割られるのか分からなくて、九時から一七時くらいまで震えた。暑くて、震えた。一七時を過ぎるころには肌寒く、作業はしないだろうという見当がついていた。だから、それまでの間、息をひそめて、決して音を立てず、誰も転ばせないように過ごした。


最悪の天気は三日目。もう、小春日和じゃない。春がここまで来ているのが、見なくても分かった。

とうとう本屋たちが、でかいスコップを持って、店の前にずらりと並んだ。

「いや~結構溶けたね。割れやすくなってくれた」

 俺の死刑執行人はもちろん内田屋。最後の最後まで、理不尽な生まれを悔やむように身体に力を入れた。

「よっと!」というかけ声と共に、内田屋のつるはしが突き刺さる。俺の身体はもちろん、内田屋まで地面に持っていかれそうな勢いだった。

簡単に割れた。俺は、俺ともういくつかの俺になった。意識は朧気だった。血なんか出ない。ただの小さい氷塊になっただけだった。こうして俺は、生きていた意味と価値を時間と共に失っていった。生まれたこと自体、無駄だったのではないだろうか。


この世のすべてに意味がある。しかし、俺がここで根をはっていた冬に、人を傷つける季節に、意味はあるのか。春、道に生えるつくしになりたかった。風にそよぐ、たんぽぽになりたかった。虫を温かく包む、雪の下の土になりたかった。枯れても、踏みつぶされても、誰か一人が俺を見て嬉しくなってくれたら、それだけでよかった。

午後、氷の解け出す音が、かすかに聞こえ始めた。もう誰も口をきけなくなっていた。


本屋たちがスコップを振りかぶったあの瞬間、「あ」と言う間もなく、バキンと大きな音をたてて割れていった何人かの氷片は、すぐに崩れて、粉々になった。もう、明日には春が来る。まるで最初からそこには何も無かったかのように、消えていってしまった冬が死ぬ。冬は、殺されたのだ。

完全に溶けきるまでの時間が、何よりも残酷だと思った。俺の存在ごと、人間や自然、みんなでかき消すのだから。翌朝、最後に残った、俺たちが残したたった一つ、ほんの一つの小さな小さな氷塊も、やがては崩れ、消えた。


雪融けの水が静かに流れ始め、桜の芽吹きは、きっと、今年も当たり前に始まるのだろう。そしてまた、春になる。夏になる。秋になる。冬が来る。俺みたいなやつが、何人も死ぬ。

自然は、命ある限り終わることのない輪廻を繰り返し続ける。

もう、そこにはいない俺に、花屋通りに並ぶだろう桜の枝は気づいてくれるだろうか。

あなたがいたから、私は今ここで咲いているよと言ってくれるだろうか。駄目だ、見た目重視の花たちは、見えないもののことを想えない。欲張った。だから、ただ、今年もこの街が美しい花で溢れますように。


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内田古書店前、凍てつく 蒲鉾の板を表札にする @kamabokonoIta

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