一晩中
一宮けい
誓悟
もう歩けない。
繊細なガラス細工のような華奢なヒールは半透明で、うねうねと足を
幼稚園の頃、はじめてのピアノの発表会で父親が奮発してかわいい赤いバレエシューズを買ってきた。そして興奮したように、
「すてきな靴を履けば、すてきなところに連れてってくれるよ」
と言った。
うそつき。すてきな靴はどこへも連れて行かないじゃない。それどころか、どこへも行かせてくれない。
あいつが何を見てるのか少しでも目線を近づけるように、靴を脱いだ時に小さくなるわたしを一瞬でも頭の中いっぱいにできるように、この慣れない靴で来たのに。わたしはぺったりとその場で座り込んだ。自分で紐をほどき、ヒールを足からゆるめた。あいつの節くれの手が丁寧に紐を解くことを想像していたのが馬鹿馬鹿しく感じた。
慣れた手つきでマッチングアプリを起動させる。今から来てくれる人を探すと、思いのほか簡単に見つかった。「10分ぐらいで来なかったら次の人にするから」とぬかしてみた。
ほどなくして麻の生成り色のシャツに、ジョガーパンツを履いた男の子がやってきた。眼はくるっと大きい。
マッチングアプリで自分の写真を加工している人は多いが、目の前にいるこの男は実際に会っても中々整った顔立ちだった。少しだけ驚いた。
「
夜にすぐに会うなんて、普通に考えたら危ない。でも。
どうでもいい、なんだっていい。わたしの耳の穴、口の中、あそこ、心臓。わたしの中の空洞を全部埋めてくれるのならそれで構わない。
「
ふわっと微笑む。あいつの好きな女の子の名前を名乗った。陽菜乃は今日、好きでもない男の前で一晩中鳴くと思うよ。はは、腐ってんなわたし。
「陽菜乃ちゃん、可愛い名前だよね」
たぶん歳は20ぐらいじゃないかな、若い。けれどもその歳に比べて少し大人っぽく笑う。
「そうかな? この名前、好きじゃないけどね」
本心。
「歩けないって書いてあったから、これ」
と誓悟はスポーツブランドのロゴの入ったシャワーサンダルを取り出した。
「あ、ありがと」
この靴はどこへ連れてってくれるのだろう。いや、連れていかれるところなんてわかってる。水でできたようなヒールを手に持ち、その男物の大きなサンダルに履き替えた。
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