138 慌ただしくも変わらない日常(その1)

 午前六時。

 七月最後の日は、憎らしい程の晴天に恵まれていた。

「朝、か……」

 寝室にしている日当たりの良い部屋の中にあるベッドの上、裸体で一人就寝していた勇太は起き上がると、近くに置いてあるトレーニングウェアを身に着け始めた。とはいえ、過重に筋肉質な身体に合う衣類を考えると、必然的に面積が少ないものに限られてくるが。

「……さて、と」

 昨夜の内に用意した、洗濯物の入ったランドリーバッグとトレーニング用具一式の入った鞄を持ち、勇太は部屋を後にした。

 勇太の住むタワーマンションには住人専用の共有フロアが低階層と中階層にそれぞれあり、フィットネスジムやランドリースペースも併設されている。

 ランドリーで洗濯をしている間に、個人インストラクターとして契約している秋濱から受け取ったメニューを淡々とこなす。特に予定のない朝は、トレーニングの後に広い共用風呂スパへと入り、ラウンジで朝食を取りながら、売店で購入した新聞を読むのが勇太のルーティンだった。

(そういえば……義妹あいつは居ないんだったな)

 エレベーターで共有フロアに到達し、洗濯物を片付けてからジムに入るが、早朝の為か人口密度は低い。ついでに言えば、理沙の姿は見えなかった。それもそのはず、彼女は前日から出掛けているので不在であった。

「……さて、やるか」

 筋肉を付けるには、摂取した食事を変換する為に、夕方からおこなうことが良いとされている。だから寝起きの勇太は、朝方ではダイエットに向く、余計な脂肪を落とす目的の運動を始めた。




 偶然にも同時刻。

 睦月はベッドから起き上がっていた。何も着ずに寝ていた状態だったが、勇太とは事情が異なる。

「ああ、眠い……」

 若干の寝起きの悪さを噛み殺していると、同じく遅くまで身体を交わらせていた姫香が横で、寝転がったまま自らのスマホを手に取っていた。

(朝飯どうすっかな……)

 普段は姫香が用意することが多いものの、家事担当が決まっているわけではないので、自身で準備することもある。もっとも、睦月の料理の腕前は、良くて『漢飯』レベルだったが。

(たしか、昨日の晩飯の残り……ん?」

 いつの間にか、俯せの状態でベッドの上を這い寄ってきた姫香が、睦月に向けて手を伸ばしてきた。

 動きを止めた睦月は振り返るものの、姫香は気にせず起き上がり、裸体を曝け出したまま顔を近付けてくる。

「……分かった。任せる」

 そしてベッドから降りた姫香は、最低限の下着とエプロンだけ身に着けると、すぐさま台所へと向かっていった。しかし、睦月は一旦腰を降ろし……自身のモノに手を当て、心を宥めようと深呼吸を繰り返しだした。

(本当、女って怖い……)

 急所を鷲掴みにされた恐怖は、夏の朝日を遮る程に冷ややかな汗を、睦月に流させていた。




 午前十時。

 基本は平日勤務としているが、実際の話、経営層に位置する社長に休日は存在しない。仕事がある限り、出勤しなければならないのが取締役の辛いところだ。しかも、担当する曜日が決まっているとはいえ、需要の高い清掃業であればなおさら、年中仕事が舞い込んでもおかしくはなかった。

 だから勇太は、特に用事がなければ毎日二時間ずつの計四時間、拘束時間帯コアタイムには必ず出勤するようにしていた。平日はもちろんのこと、一部署でも仕事があれば、カレンダー上の休日も含めてである。

「進捗は?」

「業務計画に遅れはありません。いくつかの地域で『突発的なスポット案件が発生する可能性がある』と、担当の管理監督者数名から報告は上がっていますが、アルバイトの増員で対応可能とのことです」

 少し考えてから、勇太は即座に指示を出す。

「……その担当者全員と打ち合わせがしたい。突発的なスポット案件の詳細と予想される規模、必要な人員の質と量を把握する」

「会議方法はどうなさいますか?」

「まずはWEB面談でおこなう。案件ごとに対応を決めるから、共通している担当者は時間を揃えてくれ」

「かしこまりました。ただちにリモート会議のスケジューリングをおこないます」

 本社として扱っているオフィスに入った途端、駆け寄ってきた秘書に業務進捗を確認し、手早く方針を伝え終えた勇太はすぐ、自分のデスクに着いた。

(ええと……)

 先日の休日出勤で粗方片づけたものの、自席にはすでに、未処理の書類が山を形成し始めていた。

「はぁ……」

 思わず溜息を漏らしてしまうが、社長が憂鬱な表情を浮かべていては、社員全員の士気に関わる。

「……ぅし!」

 一つ、気合を入れた勇太は業務用端末法人用ノートPCの電源を入れ、まずはメールチェックから取り掛かった。

 各部署からの定期報告に目を通しつつ、社員の要望が業務上の要、不要のどちらに該当するかを判断して選別し、他社からの営業文句を流し見してから、迷惑メールの発信元に過剰データの一斉送信DDoS攻撃をしてサーバごとダウンさせた。

 メールチェックが終われば、次は郵便物の確認である。

 情報技術の発展IT革命から業務のデジタルDX化に至る昨今、電子化は順調に進んでいるものの……社会全体が適応できているわけではないし、従来の手法アナログでしか対応できない業務もある。

 だから用途に応じて、郵便でやり取りする場合もあった。特にハッカーの犯罪者クラッカー等という存在がいる以上、ネット回線を用いない方がかえって安全な時もあった。

「ええと、今日は…………ん?」

 大半は電子文書PDFで事前に受け取っている業務報告書の原本と、ダイレクトメールの束だったが……一つだけ、大型の紐付き封筒があった。勇太が宛先を確認すると、どうやら遠方の支社より送られてきたものらしい。

「あの支社は、たしか……」

「社長、少しよろしいでしょうか?」

「……ああ」

 重要とは書かれていなかった為、後で確認しようと勇太は一度封筒を置き、傍に来た秘書の方を向いた。

「どうかしたのか?」

「案件ごとにリモート会議の日程を絞りました。管理ソフトに共有しましたので、社長から予定の確定をお願いします。また、来月の有休希望者が数名出ておりましたので、そちらもシフト表に反映させました。合わせてのご確認、お願いいたします」

「分かった。今日中に確認しておく」

 一礼し、自席へと戻っていく秘書を見送った勇太はふと、今日は休日である義妹の理沙のことを思い出していた。

(本当は理沙も、オフィスワークにしようと思ってたんだけどな……)

 本人の資質もあってか、あの義妹いもうとは何故か現場監督を転々とすることが多く、また周囲も持ち上げるかのごとく慕っている為か、一種の姐御気質で仕事に取り組んでいた。それで上手くいっている分にはいいのだが……入社当初は血気盛んな社員を物理的に黙らせていたこともあり、仕事とは別の心配事も生まれている。


(あいつ……あの性格のままだと、彼氏とかできないんじゃないか?)


 睦月の隣にいる少女を一方的に敵ライバル視するのは結構なのだが、少しは人生を楽しんでもいいのではと、義兄あにとして独り身の生涯になりかねない現状を心配する勇太だった。




 一方その頃、

「あ~楽しかった……」

「やっぱり夏はキャンプでしょ? 養父師匠の山の中だから、人も居なくて穴場だったしね」

 一人暮らしを始めて半年も経っていないはずだが、佳奈は弥生達を連れて、帰省も兼ねてキャンプ行きを提案してきた。

 整備されていない斜面だったが、佳奈の養父師匠の家から近い場所な上に、地元でサバイバル系(リアル)の野外訓練を受けていた『技術屋』の弥生が居た為、最低限の道具だけでキャンプを実行することができた。

「ああ、そうだな……」

 それなのに……参加者の最後の一人である理沙は、高速道路に入ったこともあり、忌々し気に車の速度を上げだした。


「……これで昨日の朝、『お休みならキャンプ行こうぜ!』といきなり訪問して拉致されなければ、本当に最高だったなっ!」


 しかし相手は、頭のネジの外れた少女二人。

『いやぁ~……』

「褒めてないっ!」

 いっそ酒でも飲んで、運転を押し付ければ良かったと後悔している理沙だったが……残念なことに、この車は理沙の私物であり、かつ弥生はわずかに身長が足りず、佳奈は運転免許自体がなかった。

「大体運転を押し付けるなら、『運び屋』が居ただろうが! あいつはどうしたっ!?」

「睦月なら今日、月末で事務仕事あるから無理だってさ」

 そこでふと、佳奈は弥生に話し掛けてきた。

「あれ、荻野君達誘ってたの?」

「せっかくだし、姫香ちゃんとかも呼ぼうかと思、ってぇえええ……!」

 姫香の名前が出た途端、運転が荒々しくなる理沙に、後部座席に乗っていた二人は振り回されてしまう。


「……あ、次遊園地でジェットコースター乗りたい」

「え~……睦月の車で加速装置ニトロかっ飛ばした方が面白いよ」


 ただし、弥生と佳奈にはとことん楽しまれてしまい、理沙は泣く泣く速度を落とした。

(厄介なのに気に入られてしまった……)

 佳奈は当然として、弥生の方は急に深い付き合いになってしまうとは思わなかった。理沙は手をハンドルから、頭に手をもっていきたくなる衝動をどうにか堪えていた。




 そして睦月もまた、自宅近くの整備工場内にて忙殺されていた。ただし、その原因は仕事だけではない。

「睦月さんっ!」

「……いきなりどうした?」

 アウトドア用のテーブルセットの机上で、今月(までの)分の帳簿をつけている最中だった。朝から遊びに来ていた彩未に連れられてきた由希奈が、睦月に詰め寄ってきたのは。

「姫香に給料二ヶ月分を貢いだって本当なんですかっ!? 給料三ヶ月分よりも微妙にリアルな上にここ数日、ずっとその件で煽られてるんですけどっ!」

「姫香に二ヶ月、って……あ」

 由希奈からスマホでのメッセージアプリのやり取りを見せられた睦月は、ようやく状況を理解した。そして自分の仕事を終えて一人、自動拳銃ロータ・ガイストの分解整備をしていた姫香の方を向いて叫んだ。


「おい、姫香……ただの賞与ボーナスを『貢いだ』って言うなよ。何考えてんだお前」


「というか……二ヶ月分も賞与ボーナス出せたの?」

 勝手に覗いてくる彩未に手を振って追い払おうとするも、当人は気にすることなく、帳簿の内容に目を通してきていた。

「結構経費使ってるみたいなのに、随分儲かってるんだね~」

「……なわけねえだろ。今年の『表の仕事』の少なさ、舐めんなよ」

 この帳簿とて、結局は会社法に定められているからつけているだけの、『表向き』の物だ。『裏の仕事』は別に記帳している為、こちらは『偽造屋』に依頼してでっち上げた偽の記録が大半を占めている。でなければ生活面での収入と支出が釣り合わず、即税務署に目を付けられてしまうからだ。

「実際、俺の『表向き』の収入……もう少しで五桁になるところだったわ」

「うわ~、ブラックだ……」

「社長って、もっとお金持ちの印象イメージが……あれ?」

 そこでふと、由希奈は姫香の方を向いてから、睦月に聞いてきた。

「もしかして、姫香の給料って、」

「いや、あいつは別」

 間髪入れず、睦月は由希奈の疑問を否定で返した。

「最低賃金や雇用契約上の支給額は決まってるから、ちゃんと払わないと今度は労働基準監督署労基に目を付けられる。だから細かい仕事や『偽造屋』に依頼した資金洗浄偽の成果でどうにか工面したものの……さらに経費も引いたら、俺の手元に残ったのは薄給の給与明細だけ、ってわけだ。お天道様の前じゃ、もう涙も出ねえよ」

 経営者は労働基準法に引っ掛からない、とは誰の言葉かは分からないが、よく言ったものである。頭が痛くなった睦月は一休みとばかりに、天井を見上げた。

「表裏問わず仕事はなくて、支出ばっかり増えてくる有様……やばい、銀行強盗タタキしたくなってきた」

「京子さんに怒られても知らないよ~」

 現職警官の名を出されては、もはや睦月に立つ瀬はない。大人しく帳簿づけを続けようと頭を降ろすのだった。

「そういえば……姫香の給料って、いくらなんですか?」

「……言わないでくれ。これ以上の頭痛は御免だ」

 由希奈の疑問に答えることなく、睦月は帳簿との格闘を再開したのだった。




 ちなみに自動拳銃ロータ・ガイストの整備後、姫香から見せられた給与明細には、年収八百万円級の金額が記載されていた。

「これ……かなりの高給取りですよね?」

「姫香ちゃんの年齢としで高校にまで通ってたら、普通はここまでいかないはず……って、あれ? 『資格手当』と『残業代』とかがえげつないことになってる」

「元々能力が高過ぎる上に、自宅いえに居る間もタイムカード切ってんだぞ、こいつ。おかげで36協定締結する羽目になって、手間が増えて堪んないわ」

 一日八時間、もしくは一週四十時間を超えて社員を働かせる場合、36協定の締結は義務となる。守らなければ懲役または罰金刑が科せられてしまうので、手間を惜しんでいる余裕はなかったのだ。

「というか、いまさらだけどさ……タイムカード偽造すれば、協定に締結する必要なくね? 『裏』の方の収益はちゃんとあるんだし、都度報酬払ってるよな?」

 ついでに言えば、不動産による不労所得等もあるので、総年収は優に八桁を超えているはずだ。しかし姫香はスマホを掲げ、一番近い場所にある労働基準監督署の電話番号を見せつけてくるのだった。

「……休みの間に営業、頑張るしかないか」

 (裏の)資金はあるのに(表の)収益がないという矛盾をどうにかする手は、今の睦月には『働く』以外に答えがなかった。

「また仕事を紹介して貰えないか、お姉ちゃんに相談してみましょうか?」

「私も、『ブギーマン仕事ネットワーク仲間聞いてみてもいいけど?」

「……お願いします」

 他の解決法がないだけに、睦月は二人の行為に縋る・・他なかった。そして姫香に蹴り飛ばされるまでが、一連の流れである。

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