088 案件No.006_旅行バスの運転代行(その2)
……彼の人生は、苦難に満ちていた。
元々、学習能力が高い方ではない。というよりも、集中して勉強すること自体が苦手だった。その為、年齢に似合わない落ち着きのなさや行動力のせいで周囲から浮き、孤立した生活を送り続けていた。
かといって、別に集中力がないわけではない。実際、
時間管理もできずに遅刻ばかり。物忘れも頻発に起こして忘れ物はしょっちゅう。学校での係等の役割もできていなかったことの方が多い。しかも、学年が上がるにつれ、自分が順序立てて作業を行うことも苦手だったことに、ようやく気付けた程だ。
勉強ができない人の多くは、『どう勉強すればいいのかが分からず』、ただ量をこなすだけで誤魔化して満足しているだけだが、質を気にしなくとも量は量だ。たとえわずかだろうと、少しでもましな結果を出せるのが、社会で言う『普通』だ。
けれども、彼の場合は違う。本当の意味で『どう勉強すればいいのかが分からず』、その量も集中力が続かずに、積み上げることすらできなかった。
特に厄介なのが、自身の衝動を抑えられないところだ。指示や
そんな人生を生きてきたのだ。周囲からも見放され、拒絶され、迫害されるのは自明の理だった。時には加害者である自覚の有無を問わず、虐げてくる者達も居た。
無論、納得したくはなかったのだが、どう対応すればいいのかが分からず……最後には見限られる前に、家を出た。当てもなく、何の力もない彼が行きつく先は二つしかない。
精根尽き果ててあの世に逝くか……もう失うものはないからと、裏社会の住人になるかだ。
「もうすぐ出発しま~す! 受付を終えられた方から順番に……」
添乗員の女性が名簿片手に、乗客を一人一人確認している。名前だけ言って乗り込む人もいれば、事前にスマホの予約画面を準備する人もいた。
自分もまた、スマホ片手に列へと並んで、順番を待った。
列が捌けていくにつれて聞こえてくる声から、確認が取れると同時に座席番号も指示されていることが分かってきた。覚えられるのであればそのまま、心配なら何かで確認しながら、場合によってはそれを口にしながら、他の乗客達が多種多様に乗り込んでいく。
(座席番号とか、覚えられる人もいるんだよな……)
ただ、自分は覚えられないとすでに諦めていたので、スマホの画面に予約状況を表示し、『馬込』というネームプレートを胸元に着けた添乗員に翳して見せた。
「予約した、
「……はい、確認しました。一列目のBにお願いします」
その指示通りに自分、布引雅人もバスへと乗り込んだ。
「おはようございます」
「…………」
運転手からの挨拶に視線だけで返した雅人は、大人しく指定された座席へと座った。
「…………ちっ」
本人は聞こえていないとでも思っているのか、窓側の席に座っていた男性から小さな舌打ちを受ける雅人。混んでいなければ、二人席を独占できたからだろう。けれども、少しでも意識を逸らさないようにと視線を固定していた為か、特段気になることはなかった。
「おはようございます」
「おはようございま~す」
友人同士で遊びに行くのか、二人組の女性の片方が、運転手からの挨拶に上機嫌で返していた。
(…………あの男か)
依頼された通りであれば、運転手の名前は
――
時間は丁度、爆発の緊急速報が流れる前に遡る。
――ダンダンダンダン……!
「……え、何っ!?」
残業明けの身体を休める為に、ソファの上で寝ていた夏堀の家のドアが、激しく叩かれた。
マンションの一室で一人暮らしをしているので、彼女以外の住人はいない。それどころか、事前に連絡もなく訪れるような間柄の者は親族にも同僚にもいなかった。おまけに今日、何か荷物が届く予定もない上に、理由もなく乱暴に扉を叩くような配送員等、即
要するに……招かれざる客の可能性が高い。
「まったく朝っぱらから……まだ暗いじゃないのよ」
念の為にと夏堀はスマホを操作し、『
「一体誰よ……」
完全に寝ていたのでコンタクトではなく、眼鏡を掛けながら玄関へと向かっていく夏堀。手頃な武器でもあればいいのだろうが、生憎と本職はただの会社員(係長)だ。法に反する物を、手元に置いておくわけにはいかない。
「はいはい今出ますよ~」
しかし、だからと言って、何も用意していないわけではなかった。
玄関脇に置いてある護身用の催涙スプレーの缶を掴み上げ、夏堀は
『夏堀っ! 頼む開けてくれっ!』
「……秋濱?」
そこには中学時代の同級生にして、副業で後ろに引き連れている『掃除屋』、鵜飼勇太の個人インストラクター兼使いパシリをやっているバー『Alter』の常連仲間、秋濱
「朝からどうしたのよ、もう……」
顔馴染みということもあり、夏堀は警戒度を下げて扉を開けた。ただ、完全には下がりきっていないので、スプレー缶は手に持ったままだが。
「悪いな。邪魔するぜ」
秋濱に続いて、勇太も玄関を通って夏堀に挨拶してくる。
「前にも言ったけど、あんたは敬語使いなさいよ。私の方が年上でしょうが」
仕事的な付き合いがない以上、夏堀にとって勇太は完全に年下の小僧だ。しかも見た目が厳ついので、完全に好みから外れている。
それを知ってか知らずか、勇太は夏堀にこう返してきた。
「前にも言ったと思うけど、
「それなら良し」
「良いんだ……」
一応は緊急事態であるにも関わらず、そんな軽口を叩く二人に秋濱は呆れた表情を浮かべていた。
「……で、一体どうしたのよ?」
「先に電話貸してくれ。できれば普段使いじゃないやつ。詳しいことは
副業で『
あまり聞かれたくないのか、それとも外の様子を窺いたいのかは分からないが、勇太はスマホを持ってベランダへと出て行った。そして宣言通り、秋濱が代わりに夏堀に事情を説明しだした。
「簡単に言うと……さっき襲撃された」
「よし帰れ」
迷わず親指で玄関を指差す夏堀に、秋濱はそれどころじゃないとばかりに首を振ってくる。
しかし、
「違う、俺達じゃない! ……
「会社?」
そして秋濱が示したのは、勇太の方だった。
「人手が足りないからって、バイトに誘われてたんだけど……その帰りに会社から
「それで……
以前、他の同級生達と一緒に遊びに来たこともあったので、場所自体は覚えていたのだろう。丁度近くを通っていたからと、秋濱は藁にも縋る思いで勇太を引き連れ、夏堀の家に転がり込んできたのかもしれない。
もっとも、夏堀にとっては『朝っぱらから
「『壊された』、って……物理的に?」
「いや、社長曰く『
そう言うと、秋濱は自身のスマホを取り出して夏堀に見せてきた。
「データまでは抜かれてないらしいんだけど、通信そのものができなくされてるみたいで……」
「ふぅん……ちょっと借りるわよ」
夏堀はロックを解除した状態のスマホを受け取ると、一通りの操作をして通信状況を確認した。会社で時折行われるIT関連の講習や、『ブギーマン』として働く上で身に付けさせられた知識をフル活用しても、復活の兆しは見られない。
携帯電波やデータ
「たしかに、繋がらないわね。それで
言葉を途中で切った夏堀は立ち上がると、秋濱にスマホを投げ返してから移動し、そのままアプリを立ち上げていた自分の物へと手を伸ばした。
「やっぱり……完全に私巻き込んでんじゃないっ!」
状況が読めずにポカンとした顔を浮かべる秋濱を放置し、夏堀は『ブギーマン』から支給されているタブレットPCと
「『ブギーマン・ネットワーク《こっち》』も攻撃されてるじゃないっ!? まったく傍迷惑な……」
そう悪態を吐いていると、丁度勇太がベランダから戻って来ていた。
「……ああ、警察とかも適当に誤魔化しといてくれ。もう
丁度電話が終わったらしく、戻ってくると同時にスマホの通話を切る勇太。しかし呆然としている秋濱共々構っている余裕がない夏堀は、タブレットPCにイヤホンマイクの端子を接続して、自身の元締めへと連絡を入れる。
「連絡できるのか……?」
「ギリギリ、ねっ!」
そもそも
「誰か分からないけど、普段は
「
口は禍のもと、である。
それどころではないと秋濱を睨み付けてから、夏堀は別のタブレット端末を勇太に手渡した。
「前に見た時も思ったけど、あんた詳しい方なの? そんな
「
応答待ちの中、夏堀は
「あ、あの……何か手伝、」
『コーヒーでも淹れて(ろ・くれ)』
完全に足手纏いと化している秋濱にコーヒーを淹れさせつつ、夏堀は朝から『ブギーマン』の端末としての役割を果たし始めた。
「俺、『人手不足だから』って誘われたはずなのに……」
成人男性一名の自己肯定感を、知らずにごっそりと削りながら。
「あ~、染みる……」
勇太達『掃除屋』組と『ブギーマン』達が奔走している中、二度寝から覚めた姫香は優雅に朝風呂を決めていた。
無論、眠気覚ましも兼ねてなので少し熱めにはしているが、追い焚き機能がないのですぐに
――ブーッ、ブーッ……
「お、っとと……」
なので、片手に辛うじて握っていたスマホが鳴り出した途端、思わず落としそうになってしまう。どうにか落とさずに済んだ姫香は画面に目を落としたが、相手が
「……あれ?」
よく見ると、珍しい相手からだった。通話の応答待ちだった為、姫香はスマホの画面を
「何、」
『姫香さんっ!』
スマホ越しからでも浴室内で反響する程の大声で名前を呼ばれ、思わず出向いてしばこうかと過激思想に染まりかける姫香だったが、
『
少しだけ、後日談を。
「ところであんた……『掃除屋』のところで何のバイトしてたの?」
「……山奥で
「それって夜中に……ああ。うん、いい。大体分かった」
裏社会の住人としては当たり前の行動だが、実際に活動している場面を想像すると気が滅入ってしまう。その為、夏堀は自分から話し掛けておきながら、秋濱からの返答を中断するのであった。
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