041 久芳姫香が生まれた日(その5)

 すでに、陽は暮れている。

「乗って。送っていくから」

「あ、ありがとうございます……」

「……私が呼んだんだから、別にいいわよ」

 話が終わり、食器も片付け終えたので、二人は外に停車した側車付二輪車サイドカーへと乗り込んでいく。

「じゃあ、行きましょうか。馬込、」

「……由希奈で」

 ヘルメットを被ろうとする姫香に、由希奈は告げる。

「私も、由希奈でいいです。そう呼んで下さい……姫香さん」

 一度手が止まり、由希奈と視線を合わせた姫香は少しジッとした後……軽く溜息を吐いた。

「あんたのこと認めたら・・・・、そう呼んであげるわ。でも……その時後悔しても、知らないわよ」

「多分、ですけど……しませんよ。後悔なんて」

 側車付二輪車サイドカーのエンジンを掛けた姫香に、由希奈は言葉が小さくなりつつも、そう答えた。




 短い帰路。側車カー側に腰掛けた由希奈は、緩やかに流れていく景色を眺めていた。

(私も免許、取ろうかな……)

 年齢的には問題ない。時間や金銭は掛かるものの、その辺りはすでに免許を取っている姉に相談すればいいだろう。

 ……ただ、何かがしたい。

 由希奈が免許を取ろうと考えた理由は、その程度のものだった。

「免許でも取ろうとか、考えてた?」

「私……分かりやすい、ですか?」

「少なくとも……『何かしたい』って、顔に書いてあるわよ」

 停車した側車付二輪車サイドカーを挟み、立ち上がる由希奈に対して、姫香は声を掛けた。

「私も経験あるけど……少なくとも、地に足着けた考えにしとかないと、本当に後悔するわよ」

「それはそうですけど……何か、理由があるんですか?」

「下らない話よ……」

 受け取ったヘルメットを肩に掛けた姫香は、少し気だるげに息を吐いた。なまじ顔が整っているだけに、実に様になっている。

「さすがに『姫香』って名前を選んだのは、中二過ぎたかな、って……」

 ただ内容は、そこまで深いものではなさそうだったが。




『とりあえず……この中で好きな名前、あるか?』

 睦月がスマホの画面に表示したのは、昔馴染みの一人である『偽造屋』から受け取ったリストだった。

『すぐに用意できる女性の名前は、これ位だそうだ。それ以外がいいなら、また注文しないと駄目だが……ちょっと時間が掛かるぞ?』

 そもそも睦月が見せたリストも、ただの『売れ残り』だった。

 たとえ依頼があり、作成しようとも……その間に依頼人が死ねば、偽造品は無駄になる。前金として製作費を回収していなければ、すぐに赤字となって破産してしまうのが、『偽造屋』という職業だった。

 何せ、依頼人の大半が犯罪者なのだ。中には別の昔馴染みが、『潜入捜査に必要』だからと(本人的には苦渋の決断で渋々)依頼する場合もあるが……相手が逮捕もしくは殺害されるのはよくある話だった。

 ゆえに、作り置きの『身分』が幾つも売れ残っているので、変な拘りさえなければいつでも購入できた。無論、微調整は必要だが、最初から用意するよりも手早く終わらせられる。

 そして少女は、リストの中にある名前の一つを指差して、


『『久芳、姫香』……これがいいのか?』


 ……その名前を選んだ。




(名前に『姫』が入ったのを選ぶとか……よく考えたら中二病通り越して、夢見る少女じゃん。ぉぇ……)

 自分で自分に吐き気を覚えたものの、中二病を拗らせた結果だと姫香は内心で、気持ちを磨り潰すことにした。

「……まあ、私が『正妻一番』だって示すのに便利だから、今は気にしてないけどね」

「そうなんですか?」

「そうよ。『姫』って、立場的には大体上でしょう? 名前に入れるにはまだ常識的な方だけど、微妙に中二臭いじゃない」

「そう、なんです、ね……」

 少なくとも由希奈には、そんな気持ちは芽生えなかったらしい。こればかりは、『久芳姫香その名前』を持つ本人にしか分からないのかもしれないが。

「そういうわけだから……何かするなら、誰かに相談した方がいいわよ」

「ありがとうございます。じゃあ、私はこれで……」

 一礼し、由希奈は家に入ろうと足を動かしていく。

「……あれ?」

 そしてアパートの中に入る前に、側車付二輪車サイドカーに跨ろうとしていた姫香に声を掛けてきた。

「姫香さん、そういえば……お兄さんとは今でも交流されているのですか?」

「……ノーコメント」

 その後は側車付二輪車サイドカーのエンジンを掛け、由希奈が声を上げるよりも早く、姫香は走り去った。

 嫌味ではなく、純粋な疑問だということは理解できる。しかし由希奈の問い掛けに対して、姫香の心象は最悪だった。

(少し、走ってから帰ろう……)

 いつもならスマホを弄っているところだが、今の姫香はただ、夜風に身を晒していたい気分になっていた。

 ……しかし、それも数分のこと。

 通い付けの生鮮スーパーからはさほど離れていない場所にある、総合運動公園の駐車場に側車付二輪車サイドカーを駐車させた姫香は二輪車バイクに跨ったまま、懐からスマホを取り出して画面を点けた。

「……やっぱり、いつもの辺りか」

 普段は睦月の傍に居る為、今の内に出し切ろうとわざと独り言を漏らす姫香。スマホの画面で確認したのは別のものの位置情報……睦月の足取りだった。

 姫香が確認した限り、睦月は今、飲食店の数が多い商店街の中にいた。

 飲食店が多いということは、居酒屋やバーといった飲み屋の類も多いということになる。気に入れば通い付けにし、そうでなくとも評判の良さそうな所に入ればいい。少なくとも、飲みに行ける店がないという事態にはならないだろう。

 それもあってか、睦月が飲みに行く場合は、その商店街付近で店を見繕うことが多い。

 今のマンションに引っ越す前であれば姫香のアパートに車を停められるし、最悪交通の便やホテル、二十四時間営業の店にも事欠かないので、夜を明かすことは難しくない。そして今では、歩きでその商店街へと向かうことができる。

 実際、姫香もバス通いでその商店街に赴き、よく一人カラオケに興じていた程だ。

「…………」

 表示していた画面を替え、今度はある電話番号を映した。

「……止めとこ」

 それは、睦月のスマホの番号だった。

 睦月と電話をすること自体はよくあるものの、大体は向こうからの緊急依頼であることが多い。その会話で、姫香が発言することは一切なかった。

 ただ睦月からの一方的な報連相を受け取り、それに姫香が行動で応えるだけ。


 それでも……姫香はいつか、睦月と言葉を交わしたかった。


 身体でも行動でも、気持ちでも愛を伝えているというのに……言葉だけはまだ、睦月に愛を伝えていない。それだけがいつももどかしく、そして他の女達を恨めしく思ってしまっている。

 言葉を発することはできても、肝心の相手に聞かれないのでは意味がない。

 肉親である愼治ですら平気だというのに、この世で唯一・・愛していると言っても過言ではない相手に、些細な一言すら伝えられないというのが、一番辛かった。

 だからいつも、姫香は夢見ている。


 仕事を終え、帰宅した睦月を出迎えて……手話ではなく自分の言葉で、『お帰りなさい』と言える日のことを。


「帰ろう……明日はデートだし」

 スマホを仕舞い、姫香は側車付二輪車サイドカーを再び動かした。

 そのまま睦月の飲みの席に乗り込むのも悪くはないし、むしろ傍に居たいとも思うが……今はただ、五月でも冷たい夜風で凍えた身体を湯船で温めたいと、姫香は強く願った。

 何より、今は睦月の飲み相手に会いたい気分ではない。

「にしても……まさか、愼治兄貴がね」

 被り直したヘルメットごと首を一度振り、姫香は家路へと着いた。




「睦月君って、意外に冷たいよねぇ~」

 商店街内にある、メニューに外れもなければ当たりもない、よくある居酒屋内のテーブル席にて。

 睦月はビールが溢れんばかりに注がれたジョッキ片手に、頬杖を付きながら同席者を見渡していた。

「無事解放されたから良かったけどさぁ~、お陰で和音さんに弱み握られちゃったし……」

「分かったから一々愚痴るな、だから忠告したってのに……」

 居酒屋に入る為か、いつもの女子高生の制服ではなく、大学通いの格好らしきラフなパンツスタイルの彩未は、睦月の隣に腰掛けていた。今は両手にコリンズグラスを抱え込みながら、中身のカクテルをちびちびと口に流し込んでいる。

 ……但し、口が空く度に、グチグチと恨み節を漏らし続けていたが。

「刺身盛りと焼き鳥盛りと串揚げ盛りと天ぷら盛りとフライドポテト大盛りとシーザーサラダにジャーマンポテト……他何か要るか?」

「……出汁巻卵とエイヒレの炙り、後きゅうりのタタキとお前の分の飲み代」

「飲み代はメニューにねえよ馬鹿」

「『集るな』、って言ってんだよ馬鹿。お前、ちゃんと払う気あるんだろうな?」

 しかし彩未共々勝手に混ざってきた晶は気にすることなく、店員に一気に注文を告げていく。どうやら睦月に集り、食い溜めする算段らしい。

「最低でも久芳に奪われた牛乳代は……やっぱなし。それだけ払って追い出しそうだから」

「ちっ!」

 この場所を知った理由が姫香にあることは、遭遇した時点で聞いていた。彩未に関してはもはや、言うまでもないだろう。精々『迎えに行く手間が省けた』位にしか思っていない。

「というか、今日はサシ飲みのつもりだったのに……おい、大丈夫か?」

 この時ばかりは、自分のアルコール耐性の高さが仇になったと思ってしまう。

 睦月は向かいの席、晶の隣に腰掛けている本来のサシ飲みの相手……愼治に声を掛けた。

「ひっ、ひっ……」

「お前……普段飲めないからって、ちょっと飲み過ぎじゃないか?」

 社長職で付き合いがあるとはいえ、下手に酒精に溺れてしまうと、ビジネスそのものが成り立たなくなってしまう。

 酔い潰れて醜態を晒すだけならば、まだ可愛い方だ。しかしその様を悪用されて、一方的な契約を結ばれてしまえば、個人の不幸だけでは済まされない。抱え込んでいる社員の人生ごと、会社をゴミ箱に叩き込むようなものだ。

 状況にもよるが、酩酊状態でも契約の署名捺印は有効なのだ。ゆえに、高い地位に就く人間程、アルコールをはじめとした嗜好品には細心の注意を払わなければならない。

 だから愼治は普段、自宅か信頼できる人間と一緒に居る時にしか、一定以上の酒を飲まないようにしている。

 睦月とて、酒が嫌いなわけじゃない。姫香の様子を伝えるついでに、愼治と飲みに行くこと自体苦ではなかった。むしろ今では、定例行事になっている程だ。

 ……問題はただ一つ、


「ひっ……姫香たんは何でここにいにゃいんだぁ~!?」


 愼治が泣き上戸と絡み酒、おまけに妹に対する執着シスコン三重苦トリプルコンボを極めてくるのだ。お陰で普段は飲めない酒がまずくなってくる。

「兄妹なんだから、一緒に食事してくれたってぇ~……」

「……俺の居ないところで会ってないのかよ?」

「『睦月のお守り・・・で忙しい』って、ここ最近はほとんど会ってくれないんだよっ!」

(『お守り・・・』、って……あいつ、本当に俺の何なの?)

 相手の気持ちが分からないというのは、疑り深い人間である睦月からすれば、不気味以外の何物でもない。対価を払った上での行為の方が、よっぽど安心できる。最初の内は料理一つ、口を付けなかったのには、そういう理由もあった。

 しかし未だに、傍にいる女姫香一人の気持ちも理解できないのだから、厄介な障害特性を持ったものだと、睦月は内心で嘆息した。

「社長も大変だよな……」

「ね~」

 そしてよく乱入してくる馬鹿二人の相槌に、睦月は憮然とした表情でビールの残りを流し込んでから口を開いた。

「というか、七瀬はともかく……彩未は何とかしてくれてもいいんじゃないのか? 一応こいつの元カノだろ?」

「……土下座しながら別れ話切り出されたのに?」

 今では気安い友人位にはなっているものの、勝手に混ざり始めた当初に何気なく『試しに付き合ってみたら?』と、睦月が提案してみたのだが、一週間もしない内に別れたらしい。

 最初は、姫香が何かしたのかと思っていたのだが……曰く、『金目当ての女より質が悪かった』らしい。

「姫香たんならたとえ会議中だろうと深夜だろうと、五分以内に既読付けるのに……っ!」

「お前のせいじゃねえか」

「五分以内は悪かったと反省している。今後は十分以内に善処し……あたっ!?」

 彩未の後頭部を軽く引っ叩いてから、丁度通り掛かった店員に追加の飲み物を注文する睦月だったが……


「でもでも睦月君、付き合うなら一日三桁の連絡メッセは必須じゃん! 会えなくともそうするべきじゃない? そう思うでしょ、ねえねぇっ!?」

「姫香た~ん……っ!?」

「あ、焼きおにぎり追加で。後お土産に……」


 ……すでに、愼治に伝えるべきことは終えている。明日も予定があるので、元々長居するつもりはない。

「今度……ちゃんとした飲み仲間、作ろうかな?」

 同席の面子を眺めながら、どう抜け出そうかと追加の酒を飲みつつ、睦月は頭を抱えるのだった。

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