039 久芳姫香が生まれた日(その3)
現在通っている通信制高校に入学したのも、それが理由だった。
睦月と愼治がどのようにして手を回したのかまでは分からないが、肉親と邂逅した翌日から、姫香は一先ずとばかりに、『普通の生活』を送ることとなった。
今住んでいるアパートから通学し、食材は近所の生鮮スーパーで買い求める生活。最初こそ愼治が引き取れば良かったかもしれないが、それでは縋る対象が睦月から変わるだけで、改善されることはない。少なくとも、可能性としてはかなり高いと考えられる。
そこで二人が選んだ苦肉とも言える策が、『姫香の一人暮らし』だった。
戸籍関係や中卒までの資格云々は睦月が調達し、高校への入学手続きと住居の手配は愼治が引き受けた。時期や年齢上の都合で通信制高校に、しかもすぐには入学できなかったが、そこは元居た施設での教育では教わりきれていない学力や、一般常識を身に着ける時間ができたと思うことにした。
とはいえ、姫香の存在をあまり大っぴらにするわけにはいかない。
元の施設関係者に見つかれば多少は面倒になるのもそうだが、愼治が経営している不動産会社こと『暁美レジデンス』の社員に見つかることは、特に避けなければならない。居ないはずの後継者候補が他にいたと知れば、姫香を担ぎ上げて会社の乗っ取りを図る可能性もあるからだ。
だから睦月と愼治が交代で、姫香の家庭教師を行っていた。無論学校の勉強だけでなく、様々な趣味や娯楽を経験させるレクリエーションや、通院への送迎も含めて、だ。
『それで、診察はどんな具合だったんだい?』
『特に何も変わりま、……変わらないわよ』
未だに敬語で話そうとする習慣が抜け切れていないものの、睦月の口の悪さが幸いしてか、不器用ながらも、姫香の口調がかなり砕けてきた頃だった。
その日の姫香は愼治と共に、最低限しか教わっていなかった数学の勉強に勤しんでいた。他の科目は『潜入工作に使えるから』、という名目でかなり専門的に叩き込まれていたものの、物理計算さえできれば十分と、複雑な公式云々よりも計算能力の向上を優先されていたからだ。
もっとも、姫香自身の能力が高い為、義務教育の範囲ではもうほとんど教えることはなくなってきたのだが。
愼治が姫香の元を訪ねたのは、診察の為に睦月が昔馴染みである医者へと連れて行き、帰ってきた後のことだった。それで結果を尋ねたのだが、返答は『変わらない』で済まされてしまう。
『いつも通り、無理にしゃべろうとするとストレスで胸が苦しくなって……過呼吸になる前に止められたわ』
相手が、睦月と同様に地元の関係者であったからかもしれない。手話や筆談で意思疎通は問題なく行われたものの、コミュニケーションの難易度が変わることはなかったようだ。
『本当に嫌になり、……なっちゃう。早く普通に話せるようになりたいわよ』
『
中学までの問題集を片手に、姫香の理解度を確認しながら、愼治はふと思ったことを口にした。
『つまり、逆に言えば……荻野さん達と関わらなければ、普通に生きられるってことじゃないのかな?』
『…………っ!』
苦虫をかみつぶしたような顔をする姫香に、愼治は手に持っていた問題集を閉じて話に注力し始めてくる。
『実は、荻野さんとも話していたんだよ……『医者を変えないか?』、って』
『どういう、意味……?』
座卓を挟み、互いに座り込んだ状態なので、不意に身体が動くことはない。口を塞いで黙らせることも……耳を塞いで逃げ出すことも、咄嗟に行う上では難しかった。
だからこそ、愼治はこのタイミングで話し出したのだろう。
『そのままの意味だよ。ただ誰かに縋るだけの生き方なら、別に荻野さんに拘る必要はないだろう? ましてや……社会の表と裏を行き来するような生き方をする理由は、何もない』
『…………』
まさしく、正論だった。
姫香が口を閉ざす対象は、いずれにせよ裏社会の住人。『元』はいるかもしれないが、全員例外なく、関係者である事実が覆ることはない。
そこへ無理して付き合ったとしても、以前睦月が言った通り、『何もしないまま無駄死にする』可能性の方が高かった。
ゆえの、愼治からの提案だった。
『だからこそ、はっきり聞いておきたいんだ……
『? ……っ!』
未だに慣れない名前に何とか喰らい付きつつも、姫香は愼治に向き直った。
『初めて人間扱いしてきた荻野さんに対して、
「最初、私は……それが分からなかった」
由希奈も、同様に考えてしまった。
たしかに、睦月に拘る理由は何もない。ましてや、『普通に生きられる道』に対して、姫香自身が忌避感を持っているようには、由希奈にはどうしても思えなかった。
まるで……
「もしかして……久芳、さんも、」
「姫香でいいわよ。ちなみにASDに関してはグレーゾーン、『その傾向が見られる』程度ね。あなた達程、生き方に苦しんだ覚えはあまりないわ」
睦月が話していたのか、それとも緘黙症で医者に掛かっていたから詳しくなったのかは分からないが、由希奈達がASDであることは、姫香も知っていたらしい。
「実際、その時は何も答えられなかったわ。結局、『一先ず、考えさせて欲しい』って兄貴に伝えて保留にしちゃった。変わったのは……その後よ」
「後?」
おそらく、睦月と共に行動していた結果、何かが起きたのだろう。
「それから数週間して、また診察に行った時だったわ。全てがはっきりしたのは……」
姫香が通信制高校に通う二ヶ月程前の、未だに寒波が外気を支配している時期だった。
『しかし……考える程のことか?』
『彼女にとっては、考える程のことなんでしょう』
姫香を診察室に待たせ、睦月の昔馴染みである医者、
『私も、彼女を『表』で普通に生活させるのには賛成。緘黙症と言ったって、
『となると問題は……』
何代か前に西洋人が居た為か、少し彫がある顔立ちの昔馴染みから視線を外した睦月は、医務室の方にいるだろう姫香を扉越しに見つめた。
『……本人の気持ち、だけだな』
『それでちょっと気になってたんだけど……』
すでに陽も暮れていた。表向きは小さな診療所の町医者の為、診察時間を過ぎれば人の気配はなくなってしまう。
もっとも、そのタイミングでしか姫香を見て貰うことはできなかったのだが……
『何であの娘、睦月君に懐いているのよ?』
『何で、って……何でだ?』
ハァ、と溜息が漏れる音がした。その後、有里は壁に……睦月の隣に並んでもたれかかった。
『あの娘といい、弥生さんといい……何であんたみたいなゲテモノに懐くのかしらね』
『誰がゲテモノだ。お前それ差別発言だぞ?』
『あら、本当のことじゃない……中途半端な蝙蝠男さん』
有里が言いたいのは、
『いいかげん、どちらかに傾ければいいのに……』
『……お前にだけは言われたくねえよ。この
有里の家は、代々医者の家系だった。
それだけであれば、別に迫害されることはなかったのだが……彼女の祖先は、禁忌を犯した。
医学の発展、という名目の元……人体実験を繰り返していたのだ。
そしてそれは、有里の代でも変わらず続いていた。
さすがに祖先のように、誰彼構わず実験体にすることはしていないが……それでも死刑囚や殺されても仕方のない屑を勝手に選別しては秘密裏に回収し、発展途上の医学を試行し続けている。
『たとえ医学向上目的の人体実験だとしても、人殺しまくってるだろうが。言っとくが、そこらの殺し屋よりも
『敵すら助けるような人間が、よく言うわ』
『……『殺す相手を選んでいる』と言ってくれ。それに、毎回助けているわけじゃねえよ』
そろそろ話を戻そうと、姫香が睦月に懐いている理由を考え……結局思い付かないからと、一先ず会った時の話を有里にすることにした。
『地元にあった養護施設が、廃村前に潰れたのは知ってるだろう?』
『あの人間蓄養場のこと? 噂は本当だったのね……』
『そ。何故か親父が、そこに興味を持ってな……一緒に行った時に見つけたのが、あいつだったんだよ』
コッ、と小さな音が聞こえてくる。
しかし睦月の話を遮るには、その音は小さすぎた。
『親父と別行動している時に、あいつの居た部屋を見つけたのは偶然だが……
『…………』
睦月の話を、姫香は扉越しに聞いていた。
『鍵の開いた、見張りどころか他に誰もいない一室。そこでベッドに腰を降ろした状態で、ジッと壁を見ていたんだぞ? まるで他に、
実際、その通りだった。
部屋の近くには書庫もあり、少し離れた場所にはテレビもラジオもある。そして、彼女が施設の外へ出ようとするのを邪魔する者は、もはや存在しない。
にも拘らず、姫香は外に出ることはなかった。
外へ出る……理由がなかったからだ。
『自殺すら考えずに、何もせずにじっとしている
『イラッとした、って……それにしては、ちょっと肩入れし過ぎじゃない?』
『そりゃ、『人形』や『商品』じゃなくて……『人間』として見ているからな』
コッ、とさらに体重を掛けてしまい、また扉を鳴らしてしまった。それに気付いてか気付いてないのか、扉越しの会話は未だに続いている。
『八つ当たりだって、分かってはいるんだよ。だが、駄目だった……あいつを見ていると、つい考えちまうんだよ』
『何を?』
『俺の可能性の一つ――……生きる理由がなく、ただ漠然と日々を過ごす可能性を』
それでも、可能性があるからこそ、睦月は姫香を連れ出したのだろう。
『…………』
その証拠に、姫香の手には小さく、力が込められていた。
『あいつはまだ、自我が出来上がっていないだけだ。知識も技術もあるし、何より……感情がないわけじゃ、ないんだよ』
『……そう言い切れる根拠は?』
『
『…………っ!』
睦月のその言葉に、姫香は目を見開いた。
思わず扉から背中を離し、振り返って睦月達の方を向いてしまう。
『実はさ……あいつのいた施設に行った時、いくつか死体を見つけたんだよ』
『なるほど……自殺していたの?』
『全員じゃなかったが……自分自身に銃口を向けている時点で、ほぼ間違いないだろう』
そのことについて、当時の姫香は……まったく知らなかった。
「……え、知らなかったんですか?」
「外に連れ出される際、『暗い所からいきなり外に出ると、光で目が焼けるぞ』って言われて、適当な布で目隠しをした後に連れ出されたから……全然気付かなかったわ」
その当時、姫香は目を覆ったまま睦月に手を引かれて、施設の外へと出たのだ。
そしてゆっくりと目隠しを取り、徐々に目を光に慣らして、最初に見たのは……
「時々、野外訓練で外に出された際に見ていた空なのに……その日は何故か、過去最高に綺麗な晴天に見えた」
雲一つない青空の下、車のボンネットに腰掛けて遠くを眺めている人が居た。
それが理由だとは姫香も後に理解していたし……由希奈もまた、遅れてその事実に辿り着いた。
「だから、上ばかり見ていて気付かなかったのよ……足元の死体については」
別に、仲の良い者が居たわけではない。
成績による妬みの視線を受けたことはあるものの、所詮は姫香と同じ立場の者達だ。特に疑問もなく、商品価値を上げる日々を送り続けていた。
だからグループ単位の訓練はあっても、全員が機械のように行動を起こせていた。そしてそれが、姫香の同期達が自殺した理由だろう。
『自殺した理由は?』
『行き場がない、もしくは
ただの商品に、居場所はない。
おそらくは誰かが『生かす価値無し』と誰かを殺し、それが連鎖した結果、そうなったのだろう。もし自我があるのならば、選択肢は『脱出』か『復讐』の二つだ。少なくとも、ただ居場所がないからと理由もなく自殺するなんてことは、『人間』の行動としてはまずありえない。
そして、その連鎖から偶々外れていた姫香は、ただ茫然と待っていたのかもしれない。
自分の運命を、左右する存在を。
『それが俺には……何かに縋っているようにしか見えなくて、つい苛立っちまったんだよ』
『まるで……『父親無視して勝手に仕事を請け負ったら、銃撃戦にビビってハンドル握るのが手一杯だった結果、自己嫌悪に陥って引き籠っちゃったクソ
『…………』
『…………』
睦月と有里の間に突如、重い空気が圧し掛かってくる。
『……誰から聞いた?』
『おじさん』
『あん、のクソおやっ、!』
――…………チュドーン!!
しかし、睦月の罵倒は……突然の爆発音によって、掻き消されてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます