038 久芳姫香が生まれた日(その2)

 ……意外にも、由希奈が動揺することはなかった。

 本物の自動拳銃凶器を見るのは初めてでも、先日の銃撃戦で散々銃声を聞いたから慣れてしまったのかもしれないし、由希奈の人生の中でまだ・・誰も、銃器によって死んでいないからかもしれない。

 いや、それ以前に……

「……『もう近付くな』って、言われると思っていました」

「私も……できればそう言いたいわよ」

 座卓の上に自動拳銃を置いた・・・手で頬杖を付きながら、姫香は自嘲するように息を吐いた。

「適当に銃口突き付けて脅すなり、なんなら殺したっていい。でも……勝手にそうしたら、睦月に絶対に嫌われる。そう考えると……何もできなくなるのよ」

「それは……緘黙症話せないことと何か関係が?」

「あるようでないような……微妙なところね」

 自分でも会話が散らかっていると考えたのか、姫香は目を少し細めながらゆっくりと、どこか懐かしむように話し始めた。

「私はね、そこらの三文小説によくあるような、所謂『孤児を暗殺者に育て上げる』養護施設で育ったの。良くも悪くも、完全な商品扱いだから虐待とかはされなかったけど……人間としても見られていなかった」

 本当の意味で、商品道具扱いされていたのだろう。

 実際、姫香が話し掛けてこなければ、印象が静か緘黙症な分、第一印象はどこか人形めいていた。とはいえ、表情が豊かなのを認めてからは、その印象も薄れていたのだが。

「だから正直……私には、生きる・・・理由・・がなかった。施設が潰れて、偶々売れ残っていた私は、じっとその場に残っていることしかできなかったし……しなかった」

「そんな時に、睦月さんが……?」

「そんなところ」

 由希奈もまた、どう生きればいいのかが分からなかった。だからこそ、姫香の気持ちは少し、理解できた。

 普通から外れ、普通とは違い、普通に馴染めない由希奈もまた、生きる理由は何かと問われれば、何も答えられないだろう。精々が、『ただ、なんとなく』と答えるのが関の山かもしれない。

 だが、姫香の言う『生きる理由がなかった』という言葉はきっと、由希奈の考え以上に重い。短い人生だとしても、人の気持ちが分かり辛い思想だとしても、そのことだけはよく分かった。

「その時から、ずっと睦月さんと……」

「……ん? ああ、違う違う」

 頬杖から顔を上げた姫香は、由希奈の前でその手を振って否定した。

「たしかに今の・・私が生きる理由は、睦月がその大半・・を占めているけれども……別に人生全て・・を捧げているわけじゃないわよ」

「え、そうなんですか?」

「そうよ。そもそもの話……」

 もう一度紅茶に口を付けてから、姫香は言葉を続けてきた。


「……『人を愛すること』と、『人生を捧げること』は完全に別物よ。誰かを好きになったからって、その人の思い通りに道具として生きるわけじゃないでしょう?」


「それは……そうですね」

 姫香にそう言われて、得心が行った由希奈は首を縦に振った。

 たとえ恋人として付き合い始めても、そこから結婚に発展したとしても、所詮は人間なのだ。ただ『共に生きる』だけで、『相手に自分の全てを捧げる』わけではない。でなければ、結婚非解消主義のように一生を添い遂げる考え方が強く残り、離婚という概念そのものが生まれることはなかっただろう。

「だから、私が睦月を『生きる理由』にしたのは、単に拾われたからじゃないわ。ついでに言っとくと、『異性として見始めた』のも、まったく別の機会ときよ」

「じゃあ……」

 姫香は、由希奈に何をもってして、『身を引く』か『傍にいる』かの選択肢を突き付けてきたのか。

 姫香にとって邪魔な存在だというのなら、由希奈の気持ちはともかく、ただ『睦月の前から消えろ』と言えばいいだけの話だ。わざわざ選択肢を用意する必要なんてない。ましてや、自宅に招く必要すらなかったはずだ。

 それなのに、これではまるで……

「『裏社会の住人に関わるのは危険が付き纏うから、いざという時は距離を置け』って、警告しているように思ったのなら……その通りよ」

「何、で……」

「私が話せない相手睦月を『生きる理由』にした理由。というよりも……『睦月に嫌われたくない』から、かしらね?」

 飲まないの、と由希奈のカップを一瞥してから、姫香は視線を下に向けた。

「さっきも言ったけど……睦月は『扱い易い』女が、道具みたいに何でも言うことを聞くような女が好きじゃないのよ。むしろ、自分から離れていくわ」

 少し、陶器が締め付けられたか何かして軋むような音が、由希奈の耳に入ってきた。

「実際、私を拾ったからって『都合のいい女』扱いなんてしてこなかった。ほとんど『拾った小動物』扱いよ。色々と便宜を図ってくれるくせに、距離を詰めようともしてくれない」

 そこから先は、由希奈の知らない話だった。

性的魅力商品価値を上げる為に徹底された食生活で、化学調味料が駄目な体質だったから自分で料理してたんだけど……睦月は私が・・作って・・・あげた・・・料理に最初、口を付けもしてくれなかったわ。一応面倒を見て貰っていたから、お礼のつもりだったんだけど……見向きもされなかった」

 睦月という青年は元々、警戒心の強い人間だ。だから最初こそ、『毒を盛られない』ようにと、料理に手を触れなかったのだろう。たとえ……姫香の方に『殺す理由』はなくとも。

「後はずっと、家賃代わりに家事をしながら暮らしているだけ。それでも、睦月にとって……当時の私は結局、他人だったんでしょうね。少しして、『私の肉親を見つけた』からって、家から連れ出されたわ」

 車に乗せられ、廃村となった睦月の地元や今住んでいる地方都市からも離れた街に着いた姫香は、ある巨大なビルの中へと連れられていった。

「中で待っていたのは……私の異母兄だったわ」




 父親は不動産会社の社長。妾腹の娘は売られて施設送り。産みの母親はそのお金で生活していたが、それも尽きた途端に別の男へ言い寄ろうとして警察沙汰になり、もうすでに他界済み。

 それだけであればよくある話なのだが……姫香にとっては、そこで終わりではなかった。

『小さな不動産会社とはいえ、元は財閥の子会社。私以外に後継者はいないからと、社長職を引き受けてみれば……まだ候補が残っていたとは』

『妾腹とはいえ、こいつも一応血縁者だ。継承権はともかく、本人の希望に折り合い付けるのに協力するのは、あんたの義務でもあるだろ?』

 姫香は、当時はまだ名前はなかったが、睦月が事前に話を通していたので問題なく面会の機会を得られた異母兄の社長、暁美あけみ愼治しんじをじっと見つめていた。

 そして、姫香の前で睦月にそう言われた愼治は、思わず首を傾げてしまう。

『正直に言えば、会社の資産とかを目当てにした恐喝や、面倒事含めて彼女を押しつけられるようなことを覚悟していたんですけれどね……』

『それは俺の事情であって……こいつには関係ないからな』

 その時は『運び屋』としてではなく、あくまで付き添いだったからか、睦月は最初から砕けた調子で、愼治に事情を話していた。

『俺が連れて行くにせよ、あんたが引き取るにせよ……一人で生きていくことを選ぶにせよ、こいつの人生だ。簡単に死なせないようにするのが、俺達の責任だろう』

『もう両親も、彼女の産みの親もなくなっているので……私一人の責任、だと思うんですけどね』

『もしそうなら、最初から押し付けるか放置してるよ……拾った時点で、俺にも責任がある。そう考えているだけだ』

 社長室の端、ソファーの並ぶ応接スペースで互いに向き合うように、三人は腰掛けていた。

 睦月と姫香で片側、その反対側に向かい合うようにして、愼治が腰掛けている。

 そして、ようやく結論が出たのか。どうしたものかと考えていた愼治は、ゆっくりと顔を上げた。

『一先ずは、彼女とをさせて下さい。ただ、その前に一つ、お聞きしたいのですが……』

『……何だ?』

 愼治は睦月の方を向き、口を開く。

『もし彼女があなたを……『裏社会の住人』としての生活を望んだ場合、あなたはそれを叶えるのですか?』

『それは当人の希望次第だし、俺だって毎回『裏』の仕事をしているわけじゃない。個人経営とはいえ、『表』向きは真っ当な運送業だしな。ただ……』

 一度、睦月は言葉を切った。

『ただ……正直に言って、俺はお勧めしない。自分以外、状況によっては俺とも・・・殺し合う可能性のある世界だ。何より……』

 姫香の方をチラ、と見てから、睦月ははっきりと断言する。


『何より……たとえ戦い方を仕込まれていたとしても、当人がやる気になれなければ宝の持ち腐れだ。何もしない・・・まま無駄死にする位なら、『表』の真っ当な生き方を覚えた方が、まだ有意義だよ』


『…………』

 それを聞き……少し悩んだ後に、愼治は睦月に向けて頷いた。

『分かりました。少し……彼女と話をさせて下さい』

『じゃあ、席を外すが……どこで待てばいい?』

『少しお待ちを……』

 部屋の外に控えていたのだろう、愼治からの電話呼び出しに応じた女性秘書がノックと共に社長室へと入室し、そのまま睦月達の元へと歩み寄ってくる。

『少し彼女と話をします。その間、こちらの方は隣の応接室へご案内して下さい』

『かしこまりました……では、こちらへ』

 睦月はソファーから立ち上がると、一度だけ姫香の肩に手を載せた。

『では少し、お待ち下さい』

『……しっかりな』

 それが何を指しての発言かは、当時の姫香には分からなかった。

 睦月は女性秘書に案内されるままに部屋を辞する。

『……もう答えは、出たようなものだな』

 社長室から退室し、その扉が閉じられてもなお……姫香は、睦月の背中を追って、視線を外すことはなかった。

『ええと、とりあえず……話せるかな?』

 愼治にそう問い掛けられてから、ようやく姫香は視線を外し……


『…………はい』


 ……口を開いた。

 緘黙症の症例は、大きく二つに分けられる。

 生活する上で完全に話せなくなる全緘黙と、学校や職場等の特定の条件下で話せなくなる場面緘黙の二種類だ。

 そして、姫香の場合は後者の場面緘黙症……元居た施設や、睦月をはじめとした地元の関係者の前では口を利けなくなるのが、主な症状だった。

 現在での人間関係で言えば睦月や弥生、秀吉に和音もだろう。彼等の前で口を利くことは適わないものの、無関係な彩未や由希奈達であれば、問題なく話せる。

 そもそも何故、姫香が緘黙症だったかというと……

『荻野さんとは、話せないのかい?』

『近くにいる分には問題ありませんが、無理に話そうとすると急激にストレスが増して……酷い時には過呼吸も』

『そっか……』

 腹違いとはいえ兄妹だ。ちょっとでも距離を詰めようと砕けた口調にしたものの、姫香の方は未だに硬かった。いや、少し前までそう教育されてきた影響が残っているのだろう。

 たとえ簡単に話せないようにと精神的に追い込まれていたとしても、商品として売られた場合の為に、口の利き方も徹底的に教育されていた。

 目の前にいる相手が肉親だったとしても、口調が柔らかくなるには、まだまだ時間が掛かりそうだった。

『それでも君は、荻野さんの方を目で追いかけた……彼と、一緒に生きたいのかな?』

『…………』

 姫香は俯き、膝に手を置いて口を噤んだ。

 しかし、社長の肩書は伊達ではなかったらしく、愼治はそんな姫香を見て、大体の事情を察することができた。

『なるほど……荻野さんが、君を俺の元へと連れてきた理由が分かった』

 愼治はソファーの背もたれに体重を預け、染み一つない天井を見上げてから、再び首を降ろして話し掛けた。


『君は少し……甘え・・過ぎた・・・んだね』




「甘え、過ぎた……?」

「そ、睦月の言葉を借りるなら……『縋り過ぎた』のよ」

 一度話を区切ってから、姫香は紅茶の残りを飲み干した。

「今だからこそ分かるけど、当時の私には生きる理由がなかった。施設では教官達の言うことを聞くだけ・・、睦月に拾われてからもそんな生活を続けていれば……『自分がない』なんて言われても、仕方がないと思う」

 そして、自分に縋るだけの人間を、睦月に限らず、誰もが信用するはずがない。

「『誰か何かに縋る』っていうのはね、『自分以外に縋る生き方しかできない』ってことなの。逆に言えば……縋る対象がなくなれば何もかもがどうでもよくなくなるし、変わるだけで人は簡単に裏切る」

 神の使徒ですら、銀貨三十枚で信仰が揺らいでしまうこともある。

 ただの、『自分がない』人間程、目先の欲望に目が眩み易い。


「そして、私が睦月に縋っていたのは……『他に生きる道標がなかった』。たった、それだけの話なのよ」


 当時の姫香には、暗殺者の商品として育てられた少女には、睦月以外の道標が見えていなかった。

 だから睦月は、姫香の肉親を探し出して、届けることを選んだのだろう。


 少女に、自分以外の選択肢道標を示す為に。

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