021 クラスの親睦会(その3)
ゴム製の滑り止めとタイルがぶつかる、鈍い音と共に由希奈が近付いてくる。しかし今の睦月には、彼女の疑問を解消する言葉が見つからなかった。
(しかし、まずいこと聞かれたな……)
どこまで聞かれたのかは分からないが、少なくとも知り合いだったことを知られたことが一番まずい。
「何で……知り合いだったことを、教えてくれなかったんですか?」
知り合いならば、会って挨拶した時に、そう言えばいい。それが普通だからだ。
だが、睦月達の生き方は普通じゃない。だからこそ、確信が持てなかったことも相まって、先程は何も言えなかったのだ。
「相手が整形していて、すぐには気付かなかった……では説明になりませんか?」
「それは
(だよなぁ……)
睦月もその点を、どう説明しようかと悩んでいるのだ。
単なる知り合いであれば先程由希奈が言ったように、達也の方から整形した旨を含めてそうだと言えばいい。特に恋人の親族に対して、今後も付き合いが続く可能性があるのであれば、なおさら隠す理由がなかった。
それこそ……相手に対して、何かをやましいことを隠しているとかでもない限りは。
「ずっと、違和感を覚えていたんです。あの人は荻野さんみたいに優しい所もありますけど……何か、
「…………」
分かり辛いですよね、と一度は謝罪してくる由希奈だったが、睦月にはそれだけで、何が言いたいのかを理解できてしまう。
おそらくはASDの影響で、常人とは少し違う思考を持っていたからだろう。達也に、いや達也と名乗る青年に対して、ずっと違和感を覚えていたのかもしれない。
特に、相手が赤の他人ではなく姉の恋人であるのならば、ますます心配になってしまうのは仕方がないだろう。
「教えて下さい、荻野さん……あの人のことを」
「…………はぁ」
もう、これ以上は隠すこと自体が難しいのかもしれない。
適当に誤魔化せたとしても、今後の付き合いに影響が出て来ることは想像に難くない。ならばもう、話してしまった方がいいのかもしれないが……睦月には、それができなかった。
「すみません。が、……話せません」
だから睦月は、口を噤んだ。徐々に鋭くなる視線を放つ由希奈から目を逸らすことなく、近付いてくる彼女をそのまま待ち、
――……パシン!
「すみません……八つ当たり、ですよね」
由希奈は背を向けると、そのままアパートの自室へと戻って行った。睦月は彼女の影が消えるまでずっと見つめ……数分後にようやく振り返って、車のドアノブに手を掛けようとする。
「うわ痛そう……ざまぁ」
「…………あ?」
これで何度目だ、とさすがに苛立ちの感情が浮かんでくる睦月に近付いてきたのは、二人の女性だった。
……いや、睦月は知っている。もう一人の
「姫香……そんなに暇だったのか? お前」
首肯する姫香。睦月はとりあえずこっちへ来いとばかりに手招きする。
「……おい、荻野」
姫香の隣にいる、ハスキーボイスを放つ高長身の女性を睦月は無視しようとしたが、そうはいかなかったらしい。
「…………チッ」
「舌打ちすんな」
茶髪のショートボブを持つ、女性の皮を被った人物に舌打ちした睦月は、仕方なくワゴン車から離れると、そのまま
「姫香、お前……他に友達いないのかよ?」
しかし姫香は何故か、そう問い掛けてくる睦月の方を指差していた。
「ん……?」
そして隣の女性(?)を指し直してから、両手の掌を合わせてがっしりと握り込んだ。
「【友達】」
「おい、姫香……」
何となく、姫香の言いたいことが分かった睦月は、アパートにいる由希奈に届くかもしれない程の声量で叫ぶ。
『……こいつは俺の友達じゃねぇ!』
しかし悲しいかな、睦月の叫びにハスキーボイスが重なってしまう。
「てめえ声被せてくんじゃねえよ
「それはこっちの台詞だ荻野っ!」
何故か姫香から友人扱いされている女性擬きこと、七瀬
そして両手を組み合って力比べをしている中、姫香はその場に膝を追ってしゃがみこみ、頬杖を付いて見上げてくる。
「つーか姫香に手ぇ出してんじゃねえよこの馬鹿っ!」
「それは
「お前
性同一性障害、という障害がある。自身の性別について、肉体と精神が一致しない障害である。
しかし洋一のように、単に同性を性愛対象として見ている同性愛者とは違う。生活内容を含め、現代社会においての肉体的な性別を嫌悪し、真逆の行動を取ろうとするのだ。それこそボーイッシュや少女趣味等が可愛く思える程、徹底的に。
しかも目の前にいる晶は睦月が知る限り、下手な同性愛者よりも
何せ目の前にいる人物は、元は女子高に通っていたにも関わらず、他の生徒や果ては女教師に至るまで、性的に喰い散らかした為に退学となったのだ。さらにはそのせいで実家とは絶縁状態、通信制高校でも自衛できてかつ、緘黙症で話せないからと孤立しやすい姫香位しか友人がいない有様だった。
おまけにその姫香ですら、先程のやりとりからも分かる通り、何故か睦月の男友達と認識している始末である。
「というか姫香、お前何で七瀬とつるんでんだよ?」
姫香の返答は単純だった。
膝を伸ばして立ち上がった姫香は、睦月に向けて両手の掌を自分側に向けてから手首を返し、まるで今が手隙の状態であるかのように掌を翳してきた。
「【暇】」
「あっそ……」
本気で暇だったのだろう。正直、呆れるしかなかった。
他に友達はいないのかよと思う睦月だが、さすがに姫香に向けて言葉を放つ気はない。それ位の分別は持ち合わせていたからだ。
「……で、これからどうするつもりだったんだ?」
「その先のバス停に送ろうとしてたんだよ。泊まってけ、って誘ったのに無視して帰ろうとするから……」
「当たり前だろ、馬鹿かお前」
そしてまた取っ組み合う馬鹿二人を置いて、姫香はワゴン車の助手席のドアを開け、ダッシュボードに備え付けていた消臭スプレーを座席に吹き付けていた。
その様子を見た睦月は馬鹿らしくなって晶から距離を置き、姫香と共に帰ろうと運転席側に回る。
「じゃあ、後は俺が連れてくから、お前はもう帰れ」
「はいはい……ところで、」
すぐ帰るのかと思えば、晶は何故か車の方に近寄り、睦月の傍で立ち止まった。
「さっきの野郎に言われたから黙ってたみたいだけど……いいのか? さっきの
「…………」
どうも達也と名乗った青年と話していた時から、すぐ近くにいたらしい。睦月は一度アパートの方を見てから、晶に向けて答えた。
「
「何か弱みでも握られてるのか?」
しかし睦月は、晶からの問い掛けに肩を竦めるだけだった。
それこそ『まさか』、とでも言いたげに。
「俺が野郎相手に義理立てする理由なんてないし、弱みがあんなら先に潰してる……」
その間にも、気が済んだ姫香が消臭スプレーを片付け、乾いたばかりの座席に腰掛けている。そのままスマホを弄り出すのを確認した睦月は、晶に背を向けて運転席に乗り込んだ。
「俺がまともに守る気があるのは……仕事の契約と女との約束位だよ」
そう、溜息と共に吐き捨てて。
翌日、菜水の帰宅に合わせて、由希奈はアパートの自室を出た。
菜水のスマホは自宅にある。かといってロックの解除ができないので、疑わしき達也にすら連絡もできない。しかも杞憂で終わる可能性もあるので、下手に姉の職場に連絡して、事態をややこしくすることもできなかった。
何より、現時点では明確な証拠が存在しないのだ。実際に連絡したとして、ASDである由希奈には、相手にきちんと説明しきれる自信がない。
だからこそ、由希奈は菜水の元へと向かい、逸早く合流してどうにか達也と距離を置かせる、という選択肢を選んだ。
いや……その選択肢を選ばざるを得なかったのだ。
通学する為に降りるバス停よりも少し前、最寄り駅でバスを降りた由希奈は、少し歩いた先にある別の停留所へと向かった。
そちらは地元の交通バスとは違い、旅行会社が運営する長距離バスの停留所として使われている。一日の本数こそ限られているものの、この地方都市ではそこまで大きな場所を用意できるわけではなく、発着時の人口密度は通常の比ではない。しかも人だけならまだしも、旅行客なのだ。その者達の携行する荷物も考えると、杖を突いている由希奈では、まともに歩き回ることすら難しくなるだろう。
しかし由希奈の姉である馬込菜水が、旅行会社に勤務しているのだから、仕方がない。
元々菜水は、旅行代理店の本社で勤務をしていた。しかし由希奈が事故に遭った為、一時的に駅近くにある支店に転属願を出し、営業と事務業務に専念していた。今のアパートも、由希奈がリハビリに通うジムから近いだけでなく、勤務地も考慮した上で選んだとも言える。
ただ、少し前からは違う。
リハビリの目途が立った由希奈の通信制高校への入学を機に、転属する前に担当していた企画業務へと再転属していた。本社ではなく未だに支店勤務ではあるものの、旅行計画の新規企画に即応できるよう、添乗業務の補助要員として同行する機会も徐々に増やしている。
今回もまた、菜水はこの地方都市発である一泊二日の旅行計画に同行していた。
未だ由希奈が杖を突いているからと長期旅行の仕事を請け負うことはできないものの、個人的な事情で業務命令を無視し続けることは難しい。今回だって、親睦会の日程と被ってしまったにも関わらず、誰かに代役を任せることができなかった。
だから由希奈は達也の裏の顔を知りつつも、スマホという連絡手段を自宅に忘れていった菜水の為に、動かざるを得なかったのだ。
添乗員として同行した菜水の乗る長距離バスはもうすぐ到着する予定だ。もしかしたら達也がすでに来ているかもしれないが、それでも昨夜のことは話さなければならない。
誰かが助けてくれる……そんな妄想も抱いてしまう由希奈だが、むしろ信じて貰えない、最悪の可能性も浮かんでしまうので、今は何も考えないようにしている。
今はただ愚直に、姉の菜水と合流する。それだけを考えていたからだろう。
「君が馬込由希奈さんだね……ちょっと止まってくれるかな?」
突然の呼び掛けに過剰に反応してしまい、由希奈は思わずつんのめろうとしたのだが……
「おっと!」
……その声を発した者に助けられ、転倒を免れたのであった。
「…………」
マンションの立ち位置的に、ベランダから駅の方を見るのは難しい。
それでも睦月は、ベランダの柵に身体を預けた状態で、駅のある方を見つめていた。
「本当、馬鹿だよな……」
今は画面が暗い状態のスマホだが、すぐに電話が掛かってくると睦月は予想していた。しかもその候補は、何人もいるのだ。
だから全てが終わるまで、睦月はベランダの外に出ているつもりだった。
「…………姫香、」
何が面白いのかは分からないが、駅の方を見つめている睦月を、姫香はベランダの縁に腰掛けて眺めていた。
そんな中、ふとあることを思い出した睦月は駅から視線を外し、背後にいる姫香の方を向く。
「実はお前との関係を聞かれたんだけどさ……俺達って、どういう関係なんだろうな?」
睦月からの問い掛けに、姫香は簡潔に答えた。
一度睦月を指差してから、その手を自身の胸元へと運び……小指を立てて。
「……お前はそれでいいのか?」
以前『微妙』と言われたことがある為、睦月は自分が格好良いとは思っていなかった。
周囲からは『蝙蝠』と揶揄される程にいいかげんな立ち位置、何人もの女性に手を出す
少なくとも睦月は、自己をそう評価していた。にも関わらず姫香は立ち上がると、目の前の男に対して手の甲を向けた左手を広げ、右手でその中指を摘まむ仕草をする。
「…………そうか」
だから『【
しかし言葉を続けるよりも早く、それこそ都合良くか悪くか、睦月のスマホは自身への着信を持ち主に伝えてきた。
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