運命の人

かなぶん

運命の人

 ついにこの時が来た――。

 隣に座る彼女は、自分以上に緊張しているだろう夫の横で喉を鳴らす。


 あれは今から10年前のこと。


 駆け出しのお笑い芸人だった彼とひょんなことで出会い、意気投合。

 数度のデートやら何やらを重ね、プロポーズとも言えないプロポーズを経て、ついに互いの両親にご挨拶……のはずが、実はそこで彼が天涯孤独の身の上と知った。

 彼女の方も、実は男手一つで支えられてきた家族構成だったため、これを機に今更明かしては、なんともなしに笑い合い。

 そうして迎えた彼女の父との対面。

 ただでさえ緊張している彼に、父は言う。

 ――今ここでネタを見せて貰おうか。

 それは、彼の職業を軽んじているようにも思える口振りだったが、娘の結婚相手が家庭を持つだけの実力があるか、案じてのことだったのだろう。

 実際、当時の彼には食べていけるほどの稼ぎはなく、生活費は彼女がほとんどを出していた。それでも彼のセンスを信じる彼女は、父の要求に怒り――対する彼は、彼女の父の考えを察し、彼女を宥めてネタを披露する。

 結果は「つまらん」の一言。

 緊張に緊張を重ね、急な要求に応じても、それらを加味しない無情の評価は、続けて結婚の破棄を求めた。

 いくら娘を想った言葉であっても、到底受け入れられないソレに、彼女は完全に激怒し、呆然とする彼を引きずって生家を後にした。

 もう金輪際、関わりを持つことはないと言い捨てて。


 それから10年後の現在。


 何故かまた、あの日と同じく彼女の父を前に、テーブルを挟んで正座する二人。

 久しぶりに会う父の姿は、やはりそれなりの年月を重ねてはいたものの、不穏さを感じる陰りなどはなく、一方的に絶縁を叩きつけながらも、彼女はこっそり安堵の息をつく。

 さておき。

 あれから10年である。

 年月を重ねた父の姿同様に、彼らの方にも変化はあった。

 結婚、妊娠、出産。

 喜びに反比例する苦しい生活に、夢を諦めるばかりか、全てを諦めかけたことも、一度や二度ではない。

 離婚の二文字も、何度二人の頭に過ったことか。

 それでも――

 必ず報われる時が来る、と楽観していた頃も忘れかけたある日、ソレは訪れた。

 -1グランプリ優勝。

 ピン芸人から相方を得、漫才を武器にして五年目の快挙。

 途端に舞い込む仕事を歓迎しつつも、これまでの努力を忘れまいと邁進する中で、彼女の父に改めて挨拶したいと言ったのは、夫だった。


「……で? 今更何の用だ」

 場に流れていた沈黙を先に破ったのは、彼女の父だ。

 途端に彼女の心は10年前、「つまらん」と切り捨てられた心境まで遡り、なぞるように激昂しかけたのだが、察した夫の手が妻の腕を掴んだ。

 これを見計らったように、彼女の父が言う。

「電話でも言ったが、反対しても結婚し、子どもも出来た。何と言ったか、大会にも優勝して、生活にも困らなくなった。君も娘も見たところ健康には問題ない。それで、今更ここにこうして座って、何をしたい? すでに結婚して子どももいる家庭に、今更親の許しが必要か? 大体、反対はしたが、一方的に絶縁を叩きつけたのは俺じゃなくてソイツの方だぞ?」

「……お父さん」

「それとも、金の無心でも邪推しろと? 少なく見積もっても、今の君の方がここにいる誰よりも稼いでいるだろうに」

 気まずくなって久々に彼女が父を呼べば、目を閉じた彼女の父が首を振った。

 ここに来て、彼女は気づく。

 終始仏頂面ではあるものの、父は決して怒っている訳ではないのだと。

 彼女は自分ばかりがこの場で戸惑っていると思っていたのだが、どうやら父の方も突然の訪問に困惑しているらしい。

 となれば、視線は自ずと彼女の隣に座る夫へと集中する。

 自ら彼女の父へ電話をし、今日という日をセッティングした夫へと。

 彼女の父の言い分をすんなり受け取るならば、結婚の許しはここへ来る前、電話をした時点ですでに貰ったも同然。

 他に用があるとするなら、あの日「つまらん」と言われ、傷ついたことへの謝罪、あるいは――復讐。

 けれど、彼女は夫がそういう人間ではないことを知っている。

 悔しい思いをしてもそれをバネにし、手のひら返しがあってもカラリと笑う。

 そんな夫だからこそ、今もこうして妻としてここにいるのだ。

 ならば一体――?

 考えても出ない答えを探る目で、夫をまじまじ見続ければ、脇からスッと一枚の紙をテーブルの上に滑らせた。

「「養子縁組?」」

 その内容に父娘が異口同音に驚く。

 ハッと先に気づいたのは彼女の方だった。

 自分が父へ絶縁を突きつけたばかりに、ソレを気に病んで婿養子になるつもりなのか、と。こうして場を作ったのは、自分と父の親子の縁を再び結ばせるため、この紙もそのために用意して――。

 彼女の父も同じように察したのだろう、今度ばかりはさすがに慌てた声で、「君、こんなことしなくても」と言いかける。

 だが、これを遮る勢いで夫は言った。

「改めてお願いします。俺を、お父さんの子どもにしてください」

「あなた……」

 やはりそうなのだと、自分のために、自分のせいで……。

 そう、彼女が思っていれば、バッとこちらへ正座姿ごと向いた夫が、またも脇から別の紙を畳へ滑らせ、彼女の前へ。

「そして、すまん! 俺と別れてくれ!」

「…………は?」

 一瞬、言われたことが分からず、視線を差し出された紙へ向ければ、いつかの時、書くかどうか迷って思い留まった「離婚届」の文字が、そこにある。

「え? いや……は? ど?」

 意味が分からず離婚届と夫の顔を見比べる。

 が、夫は大して補足もなく彼女の父へ、またしても正座ごと向き直ると、再びテーブルの上の紙を父へ近づけていく。

「ちょ、ちょっと待ちなさい。意味がよく……?」

 説明を求める父の視線が顔に突き刺さって来るのを彼女は感じるが、んなことより、目の前の紙の衝撃が強烈過ぎた。何が悪かったのかと、走馬灯のようにこれまでを思い出している最中も、父の子になりたいという夫の声が遠く聞こえてくる。

「10年前のあの日、お父さんからきっぱり「つまらん」と言われたあの時、俺の中で全てが変わったんです。それまでにももちろん、酷評されることはありました。でも、お父さんのように、しっかりと俺の芸を見て、それがモノになるかどうか、俺の一生を考えてくれた上で判断してくれる人はいなかった」

「いや、俺は別に、君の一生を考えたわけでは……」

 たぶん、娘の一生を考えていたのだろうと、救いを求める父の視線で分かるものの、当の彼女には未だ反応できる余裕がない。

「だから俺は、そんなお父さんに応えられるようになりたいと思ったんです。お父さんに面白いと言って貰える芸人になりたいと。そして、お父さんに言われた「つまらん」を参考に、何がどうつまらないか研究に研究を重ねた結果、俺は一人じゃ駄目なんだと気づきました。それで相方を見つけて、どの漫才がお父さんに笑って貰えるかだけを延々考え続けてきたんです」

「いや……ええ……?」

 熱量そのままにテーブルから身を乗り出す彼に、完全にドン引きした父が逃げ腰になっている。ちらちらこちらへ助けを求める姿を視界の端に、なおも彼女が離婚届に目を釘付けていれば、強制的に介入させたかったのか、父は言う。

「お、落ち着きたまえ。だとしても、娘は? 結婚して、子どもだっている。それなのに離婚というのはさすがに」

「もちろん、彼女のことは愛しています。子どもたちのことも。でも、それ以上にお父さんに俺の――僕の芸を見て笑って貰いたい気持ちが強いんです。そんな僕の本気度を知っていただくためにも、離婚します。離婚して、正式にお父さんの子に」

「いや、それはさすがに……よ、養育費、慰謝料なんかもあるだろ? せ、世間体だって……なあ?」

 完全に及び腰になった彼女の父が、こちらへ同意を求めてくる。

 対し、今にもテーブルを飛び越えていきそうな夫は、父の言葉に力強く頷いた。

「大丈夫ですよ。だって、離婚しても僕たちはお父さんの子なんですから。世間から見たって何一つ変わらない。養育費も慰謝料も当然出しますよ。なんたって離婚しても僕は子どもたちの父親で、彼女の元・夫で、彼女の兄になるんですから」

 勝手な夫の話の連鎖に、彼女の中で何かがぶち切れた。

 ここに来てようやく向けられた笑顔へ、張り手ごと離婚届を叩きつける。

「姉さん女房相手になれるかっ!!」

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運命の人 かなぶん @kana_bunbun

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