3話 過去と死
「――さあ、できた。ネス、食べようよ」
ミディアルの声が聞こえる。
そう気付いた時、ネスはどこかの宿屋の一室の隅に立っていた。
目を瞬かせ、視線を巡らせる。
寝具が二つ用意され、簡易的な竈と流しもある簡素な木造りの部屋。夕暮れ時なのか、窓から差し込む光は赤みを帯びている。
見ると、素朴な木枠の窓際の椅子に腰かけて、無表情にぼんやり外を眺める男がいた。
「ネス」
スープをよそった器を手に、ミディアルが竈から男の元へ歩み寄っていく。
皿を差し出しても、男は一瞥しただけでゆるく首を横に振った。
「いけないよ、食べないと」
――これは果たして、いつの記憶だろうか。
ネスは驚きながら、目の前の光景を眺めた。
ネスの記憶ではない。これはミディアルを呑み込んだ
ミディアルは穏やかな口調ながらも有無を言わさず、窓際の男にスープを手渡した。男は困惑気味にミディアルを見上げるが、「さあ食べて」と、やはり有無を言わさずスープを口に運ばされる。
ひどく陰鬱で、暗い男だ。
過去の己を見たネスの、それが最も素直な感想だった。
男は数口スープを飲むと、それ以上は不要だといわんばかりに器を窓枠に置いた。
「……俺の面倒は見なくていいと、何度言えばわかるんだ」
今のネスよりももっと平坦で、何の感情も持たないような、ぼそぼそとした声。
しかし、そんな聞くだけで耳障りだと感じられても仕方ない言葉を受けてなお、ミディアルは幼子の面倒を見る兄のような瞳で男を優しく見下ろしていた。
「そう言われても、これが僕の性分だから仕方がないよね」
「俺にまともに生きる資格はない。わかっているだろう」
「さあ、どうかな? 君が何と言おうと、僕は君に責任はないと思うから」
責任、とは何か。
ネスが疑問を抱いたところで、不意に視界がブレて景色が移り変わった。
「――ネス、逃げて!」
次の場所は、どこかの廃墟郡の一角だった。隔離区域内だと思われるが、珍しくいくらか木々が残っており、傍らには小さな泉がある。何もなければ、他の
だが、そこに広がる光景は、のどかなどという言葉とは縁遠いものだった。
薄く赤みを帯びた、透明度の高い粘質な水の塊がミディアルの両足を呑み込んでいた。
ただ、ガイの中に寄生したものとは何かが違っていた。本体の透明度が高く、強いて言葉にするならば「純度が高い」と、そんな印象を受ける。
「ミディアル、馬鹿を言うな!」
記憶の中の男が、ミディアルの言葉を無視してその上体に追いすがる。
——無駄だな、と。
自分で自分が恐ろしくなるくらい、ネスは冷静に考えて目の前の光景を眺めていた。
ずぶずぶと、底なし沼に引きずり込まれるようにミディアルの体が呑み込まれていく。あの状態では、何のルーンを使おうともミディアル自身にも多大なダメージを与えてしまうし、何より――……、
「嫌だ、駄目だ……っ! お前が死ぬなんて、駄目だ!」
「あは……そんな、感情的になったネス、初めて見たな……」
ぐじゅ、ずぐ、とミディアルの足先から鈍く生々しい音が鳴っている。生きたまま圧し潰され、吸収される苦痛に、ミディアルの額に玉のような脂汗が浮いている。
「……ごめんね。僕じゃ、君を……助けて、あげられなかった」
ミディアルは浮かぶ涙を隠すこともできない様子で、それでも何故か、微笑んだ。
「ミディアル!」
「ごめん、ね――」
ミディアルは残った力を振り絞り、己を
虚を衝かれた男が尻もちをついた隙に、ミディアルは砂を掻くように指先でルーンを描く。
「ミディアル!」
起き上がろうとした男に向かって、ミディアルは
男を包み囲うように土砂が盛り上がり、小さな要塞でも作り上げるかのごとく壁を、天井を形成していく。
「あ、ァああアアアアーーーーーッ!!」
土くれの中から、くぐもった悲痛な叫びが漏れ聞こえた。
ああ、この時に、ネスは壊れたのかもしれない。この時に、記憶すら飛ぶほど、飛ばさずにはいられないほど、己を失くしてしまったのかもしれない。
そう思うが、思っても、ネスの記憶は戻らなかった。ひたすら冷静に眺めてしまう。
「ネ、ス……君が……」
己を閉じ込めた土くれを眺めていると、不意に掠れた声が聞こえた。
振り返れば、顔から一切の血の気を失くしたミディアルが、それでもまだ、微笑んで、
「いつ、か……君、が……重荷を、下ろして……笑え、ま、すよう――」
言葉が途切れるのが早かったか、ミディアルの体が、
呑み込まれた体に、目から、耳から、口から、穴という穴から
それでも、ネスは目を逸らさなかった。
食われていくかつての相棒を、眺める。
——見送る。
かつての自分には知り得なかった、今の自分にしか知り得ない、かつての相棒の死に様。
目を逸らしてはいけない気がした。最期の最期まで、己の死を直前にしてさえ、己のことよりもネスに心を傾けてくれた男の死に様。
これだけ見ても、ネスは未だに何も思い出せない。ミディアルをどう思っていたのかも、どういう関係性を積み重ねてきたのかも、何ひとつ。
なのに、気付けばネスの目には涙が溢れていた。
実体なんてない。今はネスの精神体が、
謝ることもできない。感謝すら伝えられない。今のネスにはそれをする資格もなく、ただすべてを目に焼き付けて、涙を流すしかできなかった。
……どうして、俺は。
内臓を鍵爪でかき混ぜられるような痛みを、胸に感じた時、
再び視界がブレた。
「は……?」
涙を乾かす間もなく思わず声が出る。
移り変わった光景に眉を顰め、ネスは瞬きも忘れて
ここまでの記憶とは違い、音がなかった。何故かはわからない。ただ、視界も妙にかすんでいて、おおよそ人の、あるいは人と同等の知能を持つ生き物の記憶とは思えないほど景色の彩度も落ちていた。
視覚情報と聴覚情報の制限により、周りが正確に判別できない。
どこかの室内、だろうか。全体が薄暗く、壁際に無秩序に並んだルーンの刻まれた水槽、のようなものがいくつか並んでいるのがかろうじて見えて、
ネスの立つ、その目の前に、十歳くらいの少年が茫然と立ち尽くしていた。
小綺麗な貴族のような服装を身に着けた、ネスに似た目鼻立ちの、一人の少年。
室内に、多くの獣型の
白衣を身に着けた、年配の男。既に大部分を食いちぎられて事切れている。
ただ、かろうじて判別できるその顔は、裁判刑務所に貼られたお尋ね者の手配書で見た、
「……マイサー・フォルテ……?」
愕然と呟いた瞬間、今度こそ視界を断ち切るように、すべての意識が遮断された。
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