2話 進化と退化

「ああ、いたいた。駄目だよ、もう逃がせないんだ」


 不意に頭上から明るい声が降ってきて、ネスとカカロは弾かれたように顔を上げた。


 まだ崩れず残った屋根の上にしゃがみ込み、ミディアルが逆光に沈んだ暗い瞳でこちらを見下ろしている。


 ネス達に向けられた指先が、不意に天雹ハガルを描き出した。


 それが発動される前に、ネスとカカロは前後に分かれる形で飛び退いた。


 ネスは同時に聖水ラグを描き、手をかざして神気を込める。


「おっと。巻き添えで凍らせようなんて、怖いこと考えるね」


 元いた付近の空気中の水分が急速に凍り付き、氷の結晶あるいは霜となる中で、ミディアルはネスの狙いを先読みして隣の屋根に跳躍した。


 その隙にネスは駆け出し、改めてカカロの元へ寄る。


「カカロ。いつもの通りに頼む、しばらく観察したい」


「わかった。正直、オレよりルーン扱えるっぽい相手にどれだけできるかわからんけどな」


「可能な限り援護する。ただ、天雹ハガルだけは絶対に避けろ。他のルーンはロクス司教が一時的に与えてくれていた加護エオの要領で、今度は俺がお前を守るが……天雹ハガルは恐らく無理だ。あれは水分そのものを凍らせるから、ほとんどが水でできている人間も絶対に凍る」


「おお、色々突っ込みたいことはあるけど、とりあえず了解」


 苦笑して、カカロは改めて武装ティールの鞘を握り締めた。いつの間にか消えていた刃を改めて発現させ、屋根にいるミディアルを見上げる。


 ミディアルもこちらの様子を見てか、同じく武装ティールを描き、その手に細身の刺突剣を発現させた。


「カカロ」


「おん?」


「先ほど言いかけたことだが。今の俺は本当に、外界のことは比較的どうでもいい」


「え、ああ……それ、今聞いとかなあかんやつ?」


 カカロはミディアルから目を離すことなく、あちらがカカロを探るように動き出したのに合わせて、同じく足をさばき、ネスから少しずつ離れていく。


 ネスも、カカロの邪魔にならないよう、そしてミディアルの視界から外れるように移動して、カカロから距離を取る。


「カカロ。それでも今の俺を、俺たらしめているのはお前だけだ。だからお前がどうにかしたいと言うなら、お前を尊重して、俺が全部、必ずどうにかする」


 だから援護は任せて遠慮せずに戦え、と。


 言いたいことを言い切った瞬間、カカロはしわしわに溶けた顔になって、一体どういう感情なのかさっぱり読み取れない表情の歪め方をした。


「あぁああ、男前に見せかけて雛鳥みたいなこと言わんとって、父性目覚めるぅう」


 謎の言葉を残した直後、ミディアルが屋根から跳び下りて、カカロも同時に駆け出した。


 カカロが頭上から降ってくる剣戟をいなす。


 ネスは急いで物陰に隠れ、可能な限りに気配を抑えてミディアルを観察した。


 片手剣をいなされたミディアルは、それを既に織り込み済みだったか、反対の手で音楽の指揮を執るように茨縛ソーンのルーンを描き出した。


 ネスも即座に加護エオを描き、発動させてカカロの身から茨縛ソーンを弾く。幸いなのは、どのようなルーンが使われても、ひと筆で描ける加護エオのルーンのほうが、発動が簡単なことだ。


 強いて挙げれば最も描きやすいのは縦に一本線を引くだけの聖氷イスだが、これは一定範囲の外気温を氷点下するというだけなので、水場でなければ人間にはあまり有用ではない。


 天雹ハガル以外なら、何が来ても守れる。守る。


 己に言い聞かせるように心を落ち着けて、ネスは集中して二人の攻防を凝視した。


 ――純粋な身体能力は圧倒的にカカロのほうが上だ。体格はカカロのほうが大きいが、幼い頃から曲芸旅団にいたというだけあって柔軟性があり、動きに瞬発力がある。


 対してミディアルは丁寧、という言葉がしっくりくる体さばきをする。訓練を積み重ねたと思われる基礎の下地がしっかりしていて、特別な速さがあるわけではないが隙が見つけづらい動きだ。片手用の刺突剣だから一撃に重さはないが、それを生かして合間にルーンを放ってくるのが最も厄介と言える。


 ネスが守るとはいえ、天雹ハガルだけはカカロ自身で避けてもらう必要があるため、ミディアルが何かを描く度にカカロの注意もどうしたってそちらに逸れる。


「あの体技と神気は、本物のミディアルのものなのか? 寄生型の断罪者コンダンナーは、そもそも寄生した人間の能力と記憶、思考回路を引き継ぐ……?」


 だから神気もルーンを使えるし、まるでネスに、知り合いかのように言葉をかけてきたのだろうか。


 ……いや、待て。


 何かが引っかかり、ネスは警戒を怠ることなく、必要に応じてカカロへの加護エオを発動させながらこめかみを押さえた。思考を、精いっぱい回転させる。


 ミディアルは元聖職者だ。そしてロクスは彼を弟弟子だと言った。


 ロクスは、叶うならミディアルにはエクソシスト協会に戻って欲しいと言った。加えて彼の損失が大きなものであるかのような物言いもした。


 ので、あれば。


 本来のミディアルは、それこそ司教にもなり得る神気の持ち主だったのではないか。


 仮に、そうならば。


 今のミディアルの神気が、ネスと同等、あるいはそれ以上とは思えなかった違和感を、どう説明するか。当然、ロクスのような圧倒されるものもなく、神々しさも感じなかった。


 ——『ネス。贖罪が終わった後、尚もその豊かな神気を授かったままであった時は……』


 ロクスの言葉が、改めて脳裏によみがえる。


 そこでようやく、得心がいった。


「……そうか。神気は弱まることもあるんだな。神に見捨てられれば、消えることすら」


 ミディアルの記憶を有する断罪者コンダンナーも、恐らくそれに気が付いた。このふた月、何をしていたのかは知らないが、気付いたからこそ、己を圧倒するかもしれないネスの存在を危ぶみ、ルーンが使える内に殺し、食らおうと考えたのではないだろうか。


 しかし同時に、既に純粋なルーンだけではネスに敵わないことも悟っていたからこそ、八日前、余裕ぶった態度でこちらを騙しながらもルーンを駆使して逃げたネスを……満身創痍であったネスを、追いかけることもできなかった。


 ネスは確信を得て、物陰から飛び出した。


「カカロ、わかったぞ! 全力を出せ!」


「はぁ!? 今もめっちゃ全力ですけど!?」


 心外だと訴えるカカロの言葉を受け流し、刃を交える二人の元へ駆け寄ったネスは、二つのルーンを同時に中空に描き出した。


 俊動エオー勇喝イング。重ねて発動させたそれらを、ネス自身ではなくカカロに作用させる。


「短期決戦で仕掛ける!」


「そういうことかいな、任しとき!」


 ルーンが作用したカカロの動きが、ミディアルを圧倒する速さに変化した。


「く……ッ」


 かろうじて数撃を受け、かわしたミディアルだが、己の不利は即座に悟ったようだった。


 これで恐らく彼も、俊動エオーを使うはず。しかしネスよりも効力が弱いであろう俊動エオーでは、カカロに敵うわけもない。


 そう目して、ネスは己も二人の動き追いつけるよう、己に俊動エオーを発動させようとした。


 ところが次の瞬間、ミディアルがその手で描き出したのは俊動エオーではなかった。


「な、っ!?」


 ミディアルの手元で輝いたのは、水霧エオールのルーンだった。特定範囲に霧を発生させる、ただそれだけのルーンではあるが――、


「わっ、何じゃこりゃ!?」


 意表を突かれ、ネスの反応が遅れて止められず、周囲一帯に濃霧が発生した。


 ——まずい。


 これで互いに天雹ハガルは使えない。全員まとめて凍り付いてしまうからだ。


 しかしミディアルは、ここで聖氷イスを使える。濃霧で湿気たこの場で外気温を氷点下に下げられた時、身体的ダメージを受けるのは生身の人間であるネスとカカロだけだ。


 ネスはとっさに陽輝ダエグのルーンを描き出した。わずか数秒、周辺一帯太陽光を当てたように明るくする、それだけのルーン。


 発動させようと手を掲げた瞬間、思った通り急激に外気温が変化し始めた。


 肌に刺すような痛みを感じ、髪の先から凍り出す。


 間に合え――……!


 陽輝ダエグのルーンを作動させた瞬間、まぶしさに目が自然と細まる。


 けれど目の端に、霧の中で明確にうごめく人影を見つけて、


「そこ、ッ、か……!」


 カカロが手に持っていた武装ティールの刀を、人影に向かって全力で投げた。直後、それを追うようにカカロ自身も人影へ向かって駆けていく。その手で、茨縛ソーンを描きながら。


 ネスも指輪の武装ティールに手をかざし、己の石弓を発現させた。光の弾を撃ち込んで、すぐさま次に鈍斧ユルを描き出す。カカロが発現させた茨が人影を縛ったのを目で捉え、凍傷を起こしかけて動きがぎこちなくなり始めた腕を叱咤し、その頭上に巨大な光の斧を発現させる。


「カカロ、っ避けろ!」


 かろうじて、腕を振り下ろす。


 光の斧が、霧に映し込んだ人影の首を、重く鈍く、跳ね飛ばした。


 まるで強風に流されるように、ミディアルの発現させた霧が晴れていく。気温も正常に戻っていく。


 ネスはかじかむ手足を動かして、カカロの元へ急いだ。


「カカロ、加護エオ断罪者コンダンナーを閉じ込めろ!」


「えっ、閉じ込める!? オレにそんなんできひんやろ! 司教さんも言うてたやん、オレの神気じゃ瞬間的に一方向の防御結界くらいしか張れんって!」


「そいつのヘドロの動きは鈍い。絶えず繰り返し作動させれば、維持できなくともこちらの身を守って、相手をその場に留めることくらいならお前でもできるはずだ」


 言うだけ言って、ネスはカカロの足元に膝をついた。


 まだ感覚の戻り切らない指先に息をかけ、神気を溜めて加功ギョーフのルーンを描き出す。


「待て待て待て待て、そのルーン何やっけ? オレの使われへんルーンをおもむろに使おうとすな! オレに根性耐久戦させようとしといて、お前は何しようとしてんねん!」


「俺は少しの間、意識が飛ぶと思うから頼む」


「はぁあああ!?」


 不満しかないといわんばかりのカカロ叫び声が、廃屋街にこだまする。


 しかしその時既に、ネスは加功ギョーフのルーンを発動させていた。相手の深層心理に無理やり入り込むという、使役する人間はもちろん、作用させられる相手にも苦痛を伴わせるという、扱いには重々気を付けろとロクスに釘を刺されたルーン。


「おい、ネス……!」


 カカロが呼ぶ声を遠くに聞きながら、ネスは急速に遠のいていく意識を手放した。

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