三、 始まりの記憶

1話 混乱と事実

「ほんまにまだおるん? ぱっと見、何もおらんっぽいけど」


 ロクスと相まみえた日から、八日が経った昼下がり。ネスとカカロは二人だけで、またあの隔離区域内の廃屋街にある、すり鉢広場を訪れていた。


 生き物の気配がしない乳白色の客席と、それに囲まれたくすんだ歯抜けのモザイク画。ところどころに穴が空いて、上から見下ろせばミミズでも這った後のようにも思える。


 時折砂埃を巻き上げる、熱くも寒くもない風が吹くだけの広場。静かで、埃っぽくて、乾いていて、音がしない。先日の喧騒が嘘だったかのように空気は凪いでいる。


 ただ、それでも。あれから雨が降らなかったために、モザイク画の一角にはどす黒く変色した水溜りの跡、のようなものが残ったままだった。それがネスの心をざわつかせる。


 血の跡。眼鏡男、リューズの生きていた、そしてここで殺されたことの証だ。


「……まだ、いる。どう見ても指針アッシュのルーンはここを指している」


 指針アッシュのルーン。一般的には、ただの方位磁石だとカカロから教わっていたルーン。


 だがあの日、ロクスから教わったのは、神気の込め方によって、光の針が方位ではなく『探したいもの』を直接指し示すものへと変化する、という新たな扱い方だった。


「俺はあの新種と思われる甲虫型と、ミディアルのことをずっと思い浮かべていた」


 答えて、ネスは手のひらに浮かぶ指針アッシュをカカロに見せた。間違いなく針は、多少ゆらゆらと不安定に揺れながらも、すり鉢広場の中央辺りを指し示している。


「……穴に潜ってるんかねえ。前の時は、この辺りに来た時点での気配を察知して、四体揃ってわさわさ穴から顔出してきてたのにな」


「どういう新種なのかはっきりわかっていないから、できれば距離を保ったまま駆除できれば良かったんだが」


「穴のそばに行かなあかんかぁ」


 気乗りしない声で息を吐いて、カカロがすり鉢広場の中央へ向けて足を出す。


 が、ネスはひどく苦い気持ちで、引き留めるようにカカロの袖を掴んでしまった。


「ネス?」


「……ガイが呑まれたヽヽヽヽ状況を思い返す限り、現れた断罪者コンダンナーがヘドロっぽい何かだったら、絶対体には触れさせるな。引っ張られる」


「ああ、気ぃつけるよ。水しぶきみたいにヘドロの滴とか飛ばされたら、自信ないけど。とりあえず作戦としては、ネスが凍らせてオレが重突ウルでぶっ叩く、でええんやろ?」


「ああ。『温度を下げるだけの聖氷イス』じゃなく、ロクス司教に教わった『水分そのものを凍らせる天雹ハガル』なら、間違いなくあれを止められるはずだ。粉々に打ち砕いて、それから一気に聖火ケンで蒸発させてやる」


 ネスがうなずけば、カカロは何故か楽しげに口笛を吹いて「頼もしーぃ」と笑った。


「そういう物騒な物言いするネスって、新鮮やな。今までは何があってもポヤポヤしてるばっかりやったけど、何か情緒育ってきましたって感じして感慨深いわぁ」


「何に感心しているのかよくわからないが、とにかくカカロ、お前は――」


 これから始まるであろう戦闘に備えて念押しをしようとした、その時だった。


 視界の端、広場の中央に突如として人影が現れ、思わず弾かれたように振り返る。


 ミディアルが現れたのか、と――、


 思った、のだが。


「……は……?」


 ネスが目に映る光景に絶句しているとの同じ温度感で、カカロが掠れた声を上げた。


 広場の中央に、見知った人影が立っている。


 ミディアルではない。痩せぎすの男だ。表情筋がピクリとも動かなさそうな、ネス以上に不愛想で寡黙な印象を受ける、少し厳めしい髭面。


「……ガイ?」


 ネスが呼ぶと、あの日、ヘドロのような何かに呑まれたガイが、ゆらりと顔を上げた。


 互いの視線が真っ直ぐ合う。意志の窺える瞳に、ネスは思わず駆け寄ろうとして、


「ガイ――!」


「待った」


 一歩足を出したところで強く腕を引き留められ、ネスは後ろへつんのめった。


「カカロ? どうしたんだ、行こう。ガイが生きて――」


「いや、だってお前……さっきまでおらんかったやん、あいつ。どこにも」


 警戒を露わに顔を強張らせて、カカロは足に留めていた武装ティールの柄を外し、握り込んだ。


 そこでネスも、動揺に鈍ってしまっていた思考にわずかな理性を取り戻す。


 ——そうだ、いなかった。これだけ開けた場所なのに、ほんのつい先ほどまで、ガイの姿はどこにもなかった。


 ならば今、広場の中央に立つ彼は、一体どこから現れたのか。


 可能性があるとすれば、あの断罪者コンダンナーの穴。だが、あの中に人間が入る意味はあるのか。例のヘドロが――断罪者コンダンナーの甲殻の中から現れた、とても普通ではないヘドロが、まだ近辺にいるはずの、そんな穴の中に。


「……ネス、どうする?」


「とりあえず、会話ができるのかどうかだけは、確認を」


 言いかけた瞬間、ゴッ、と空気を切るような音がした。息を吸う暇もなく、広場中央にいたはずのガイが文字通り跳ぶように目の前に迫ってくる。その手に、大剣型の武装ティールを発現させて。


「っ、クソが!」


 カカロが素早く柄を返し、ネスを横手に突き飛ばして光の刃を発現させる。


 ガキィッ、と武装ティール同士のぶつかり合う、金属音とも空気の摩擦音とも異なる歪で骨に響くような音が広がった。


「カカロ!」


「ええからネス、どうするか、何か考え――、ッ」


 鍔迫り合いをしてカカロがガイを後ろに押し返した直後、


 ただそれだけの衝撃に、ガイの腕が、本来関節の曲がらない方角にぐにゃりと折れた。


 ——まるで骨などない、みたいに大剣を持つ腕が、ぐにゃぐにゃ、と。


 込み上げた生理的嫌悪感に、ネスは片手で口元を覆った。


 同時に、全身を逆毛立てたカカロが、


 ガイの心臓めがけて、苦悶に顔をしかめながら突きを一閃した。


 ずく、と切っ先がガイの胸に貫通する。ガイの体が、くずおれるように後ろへ倒れて、カカロの足元でどしゃりと鈍い音がする。


 ガイを刺した刀を握る、カカロの腕の洗礼ペオースが……渦を巻くように、色を濃くした。


「ああ、やっぱり駄目かあ。仕方ない、地力が違うよね」


 パチパチと、場違いな拍手と共に軽やかに弾んだ中低音が場の空気を揺るがした。


 振り返ると、すり鉢広場の客席の九時方向、崩れかけた石造りの段差に腰かけて座る、ミディアルの姿がそこにあった。


「な、あ……ミディ、アル?」


「やあ、ネス。また会ったね」


 一体、どういうことなのか。


 再び思考が混乱し、ネスは側頭を押さえて所在なく視線を泳がせた。


 意味がわからない。何が起きているのか、今見た光景は何だったのか。断罪者コンダンナーのヘドロに呑まれたはずのガイが何故生きていて、何故、あんな――……。


 どうにか状況を整理したくて、カカロの足元に倒れたガイに目を向ける。


 と、心臓を刺されたはずのガイの体が、ぬ、とわずかに動いたのが見て取れた。


「ッ、カカロ!」


 ガイを刺して茫然としたままだったカカロに、とっさに腕を伸ばす。


 けれどそんなネスの目の前で、まるで軟体動物を思わせる動きで腕を上げたガイの大剣が、カカロの腹のあたり目がけて振り下ろされて、


「やめろ――!!」


 間に合わない。


 カカロ自身がハッと気づいたらしい時にはもう、大剣の切っ先が腹に入るところだった。


「カカロ!!」


 ところが、ネスが絶望の声を上げたその瞬間、


 カカロの額に突如ルーンが現れ、閃光のような輝きを発した。


「な……っ!?」


 ネスとカカロの驚きの声が重なり、同時にカカロの腹を裂こうとしていた大剣が大きく光に弾き返される。


 ネスは考えるより先に中空に茨縛ソーンを描き出し、出現させた茨でガイの全身を拘束した。


「何や、今の……っ」


加護エオ……加護エオの、ルーンだった」


 茨縛ソーンをきつく固定させ、まるで心音が耳元で鳴っているかのような感覚を味わいながら、ネスは言葉を口にした。


 カカロの額で、一瞬輝いたもの。加護エオのルーン。


加護エオのルーン? 何でそんなん――」


「考えるのは、駄目だ、後だ。わからない。だから、後だ」


 混乱から脱却しきれないまま、ネスはカカロの傍らに寄ってミディアルに目を向けた。


 ミディアルは変わらない朗らかな笑顔で、今のところ何をする様子もなくネス達をにこにこと眺めている。


「カカロ。ガイに真偽オークを使う。今のガイが話せるのかわからないが、とにかく状況を理解できないと俺も何もわからない」


「わ、かった……。うん。とりあえず、あっちのことは任しとき」


 ミディアルに目を向けながら、カカロは細く、けれど深く息を吐き出して体勢を整えた。


 相棒の落ち着いた姿にネスも深呼吸をし、ロクスに教わった真偽オークのルーンを描いてガイにかざすように神気を送り込む。


 発動させた瞬間、ネスは軽いめまいを感じた。日に何度も使えないとロクスが言ったように、ルーンの効果が強すぎるゆえだろうか。腹の底から血を吸い上げられるような肌寒さを感じ、両足を踏ん張るようにしてどうにか気を保つ。


「……ガイ、答えてくれ。一体、お前に何が」


 最後まで言い切るのを待たず、ガイの口が、がぱりと大きく開いた。


 開いた、だけでなく見る見る裂けて、顔の半分以上が口のようになって、


 ——中から、濁り切った赤茶けたヘドロが押し上がってくるのが見えた。


「ぐ、ッ、カカロ、跳べ!」


「は!? うわッ……!」


 状況を理解するより先に指示に従ってくれたカカロと共に、大きく跳んで後退する。


 そんな二人の目の前で、ごぷり、ごぽりとガイの口からヘドロが零れ溢れてくる。


 真偽オークのルーンに絞り出されたかのように姿を見せたヘドロが、その体内から出切った後の、ガイは。


 文字通り、皮しか残っていなかった。


「う、ぐ、ェ……っ」


 限界がきて、ネスは胃の中の物を吐き出した。


 けれど猶予がないことは頭の隅でわかっていた。吐しゃした直後、ネスは考えるよりも先に、頭の中で散々試行した通り、指先に神気を溜めて天雹ハガルを描き出した。


 それを見たカカロも、我に返った様子で重突ウルを描き出す。ネスがルーンを発動させると同時に光の槌が振り下ろされて、瞬時に凍り付いたヘドロが、甲高い音を立てて粉々に砕け散るのを確認した。


 ——想定では、その後で聖火ケンを使う予定だったが、必要なかった。


 元の姿に戻るためには、一定の大きさを維持する必要があったのだろう。砕けたヘドロはそのまま風に溶けるようにして、これまで倒した断罪者コンダンナーと同様に、崩れ消えていった。


「何、なんや……これ」


 後に残ったのは、まるで脱皮したかのような、ガイの皮膚だけ。


「甲虫型の新種、じゃなくて……まさか」


 擬態型、あるいは……寄生型、ともいえる、完全なる新型の断罪者コンダンナーなのか。


 その思考に至った時、ネスは弾かれたように改めてミディアルに目を向けた。


「まさ、か……」


「さすがだよ、ネス。やっぱり君の神気はすごいね、僕達には怖くて仕方がないや」


 僕


 言葉に愕然として、ひとつの可能性が頭に浮かんだ瞬間、それまでただ微笑んでいただけのミディアルがその手で聖火ケンを描き出した。


 隣で息を呑んだカカロが即座に地を蹴り、その場から飛び退く。


 けれどネスは、いい加減、頭も何もかも追いつかなくて、とっさに体を動かせなくて、


「っ、おいネス、何で避け――!」


 カカロの声をどこか遠くで聞いた直後、ネスの目の前に、全身を覆い尽くしてしまえそうなほどの巨大な火の玉が飛んできた。


 ——『ネス、カカロ。お二方に、どうか神のご加護がありますよう』


 耳の奥で、ロクスの声がした。


 ネスの額が熱を帯び、先ほどカカロが刺されそうになった時と全く同じ、閃光のような輝きが場に弾けた。


 ようやく気付く。ロクスが、言葉通り、自分達に加護エオを授けてくれていたことに。


「こんの……ッ、ド阿呆!!」


 横から腕を掴まれて、体を大きく引っ張られた。


 カカロがネスを連れて駆け出し、すり鉢広場から逃げる。ミディアルから、逃げる。


 崩れかけ、あるいはまだそれなりの形が保たれている廃屋の街中に駆け込む。と、そのまま広場の方角から身を隠せる壁の陰に飛び込んで、カカロはようやく足を止めた。


「アホんだら!!」


 バチコーンッ、と。


 体ごと振り返ったカカロは、ネスの両頬を叩き潰すように両手でビンタし、挟み込んだ。


「カカロ……」


「落ち着いてくれ! いや、オレも意味わからんし落ち着けてへんけど、惑わされんな! あれは断罪者コンダンナーや! 人間やない、人間に寄生したヤッバイやつや! お前が司令塔やのに、お前にうろたえちゃちゃくられたら、オレもマジで何したらええかわからんなる!」


 考えるのはお前の仕事だろうと叱咤され、ネスは大きく目を瞬かせた。


 断罪者コンダンナー。人間に寄生し、擬態したモノ。


 言葉が脳の中心に到達して、そこでやっと、叩かれた頬もジンジンと痛みを思い出す。


「わ、かった。とりあえず、カカロだけでもここから逃げ――」


「全然わかってへんやん、指示の仕方がちゃうやろ!」


 もう一度、バチコンッと両頬を叩かれた。


 今度は思わず目を閉じるほど、瞬発的に痛みを覚えた。


「ネス。ここであいつを捕えるなり何なりして情報を得んと、いや、情報とか無理でもとにかく、ほぼ完全なヒト型を取ってるっぽいミディアルだけでも駆除せんと、絶対やばい」


 カカロは血の気の失せた顔で、それでも強い意志を滾らせた瞳をネスに向けて、言い聞かせるように言葉を重ねた。


「あいつ、今でこそまだ隔離区域におるけど、何も知らん駆除人とか刑務官が、うっかり隔離結界の外に出してしもたらどないすんねん。どないなんねん。また何の罪もない人間や街が食い散らかされて、食い散らかされるどころか寄生されて乗っ取られて……」


 ネスの頬を挟む両手が、かすかに震えているのを感じる。


 ああ、うろたえているのは、恐ろしいのは、ネスだけではないのだと強く感じる。


「国も、世界も、死に絶える。……あかんやろ、そんなん」


「カカロ……」


「オレらしか、おらんねん。今、オレらがやらなあかんねん! あんな……あんな、十二年前のオレみたいな想い、もう……誰にも、さしたらあかんねん」


 戦慄いた唇を噛み締めて、カカロはきつく、何かを祈るように目を閉じた。


 長いまつ毛が揺れるのを間近で見つめながら、ネスも目を閉じ、カカロの体温を、呼吸を、そして自分の心音を。全身で感じ取る。


「……マイサー・フォルテが関わらなければ、本当にただのいい奴だな、お前は」


 次に目を開けた時、ネスの心は不思議と随分、凪いでいた。


 カカロもまぶたを上げて、苦虫を噛み潰したような顔で低く呻く。


「ちょぉ待って、今掘り返すとこか、そこ。こないだはポンコツでホンマごめんて」


「いや、責めているんじゃない。純然たる事実に感心した」


「ええ……?」


「それと、やはり俺は漆黒の犯罪者なのだと再認識した」


 落ち着いた、いつもの抑揚のない声で告げる。するとカカロが不機嫌さを隠さない様子であごを上げ、珍しく遠慮なくネスを睨み下ろした。


「は? この状況でまだ自己卑下する?」


「自己卑下じゃない、これも純然たる事実だ」


 首を軽く横に振ると、ずっと挟むように触れていたカカロの手が離れていく。


 カカロがまだ理解しきれないというように首を傾けるので、ネスは小さくうなずいて、


「俺はお前のように、一般市民のことなど頭をよぎりもしなかった。それに今も、実はあまり外界の人間のことは考えられない。他なんてどうでも良くて、やはりお前だけでも生かせたらそれでいいんじゃないかという思考もまだ、普通に残っている」


「えっ何、告白? もうちょっとシチュエーションとムード考えん?」


「違う。俺は自分勝手な人間なんだという話だ。曲解するな、ふざけている場合か」


「さっきまでうろたえちゃちゃくってた自分がそれ言うのん、理不尽すぎん!?」


「俺は」


 ネスは真っ直ぐカカロを見上げ、まだ何か言いたげなカカロを遮るように強く続けた。


「俺は、ミディアルのことを相変わらず思い出せない。哀しいと思えない。ガイのほうがつらかったくらいだ。ミディアルをかつての相棒だと理解はしているが、彼のために何かどうこうできればという感情が湧かない」


「ネス、お前……」


「そんな今の俺を、俺たらしめているのはお前だけだ、カカロ。だから――」

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