5話 嘘と祈り

 詰め込み教育がすぎるひと時だったが、どうにかイアンが医務治療室に戻ってくるまでに駆除に有効であろうルーンの使い方を無事教わることができた。


「今日は助かった。ありがとう」


 見送りのために裁判刑務所の通用口まで出たネスは、ひと足前を歩んでいたロクスに改めて声をかけた。


 そんな二人の五歩ほど先では、駆除人を毛嫌いするイアンと、やたら大仰なイアンの反応をからかって楽しんでいるカカロが何やら賑やかしく言い合っている。


「こちらこそ……ネス、あなたに出会えたことを神に感謝致します」


 ロクスは悠然と微笑み、右手を左胸の太陽と十字架の紋章に当てた。


「貴方は漆黒ですから、先の長い話になるやもしれませんが……贖罪が終わった後、尚もその豊かな神気を授かったままであった時は、聖職についてみませんか?」


 駆除人を勧誘するエクソシスト司教とは如何なものか、という感情が思わず顔に乗って、ネスは歯にモノが詰まったような心地で唇を歪めた。


「それは……」


「叶うなら、カカロと共に是非。私はお待ちしています」


「……神気は、深い信仰心がなければそもそも授からないとカカロが言っていた」


「ええ、そうです。神気は修行で強くすることも可能ですが、ネスの歳で予めそれほどの神気量を持つともなれば、よほど敬虔な信仰心と神の寵愛がなければ持ちえないでしょう」


 ロクスは迷いなく告げた。


 しかしネスは目を伏せて、つい視線を足元に落としてしまう。


「俺には記憶がない。神への信仰心も、ないとは言わないが……よくわからない」


「そうでしょうね。ですが、それでもあなたの神気は失われていません」


 さもありなんと肯定されて、ネスは改めてロクスに視線を返した。


 甘そうな紅茶色が、真っ直ぐにネスを見据えている。


 それがひどく……居心地が、悪くて。


 ネスはそっと、小さく息を吐いた。


「神やロクス司教に対して、俺は思うところがある」


「何でしょうか?」


「何故カカロのような、本来善良で罪とは縁遠い人間に、業を背負わせようとするのか理解ができない。だから聖職や聖職者に対しても、今の俺は疑心暗鬼だ。駆除人という、効率的かつ残虐な制度を作ったこともそうだ。神に仕え、人に施し、罪人を救い導くはずの聖職者の発想として、ひどく気味が悪いと思う」


「それは……耳が痛いですね」


 そう言うロクスは、けれど言葉と裏腹に痛くも痒くもなさそうだった。


「言い訳をさせていただけるなら、駆除人の制度が施行された時、私はまだ一介の司祭で何の力も持っていませんでした。今も、どちらかといえば反対の立場です」


「そうか。だが、それでもロクス司教は俺達に嘘をついた」


「嘘?」


「ああ、嘘だ。ついただろう」


 断言すると、ロクスは困惑したように眉尻を下げ、そっと指先で唇をなぞった。


「何の話でしょうか。私は、あなたがたに嘘など――」


「ロクス司教は、マイサー・フォルテの何かを知っている」


 淡々と事実を切り込めば、ロクスの指先が明確にぴくりと跳ねた。


「……何を根拠に?」


「俺は嘘が苦手だ。記憶がないせいもあると思うが、いわゆる空気が読めずに思ったままを口に出す。だから俺自身、思ってもいないことを口にしようとすると落ち着かなくて、何かしら態度に出してしまう。それと同じだ」


 ネスは右手の人差し指を顔の横に持ち上げると、それを己の唇にそっと当てがった。


「ロクス司教は冗談や嘘を言う時に、唇を触る癖がある。些細だが、ロクス司教は普段の所作が美しいから、その癖だけが気になってわかりやすかった。気を付けたほうがいい」


 ロクスは小さく息を呑み、自身の唇に触れていた手に視線を落とした。完全なる無意識だったようで、じわりと頬に赤みが差し、「一本取られました」と気恥ずかしそうに言う。


「おっしゃる通り、嘘も罪です。今の私が洗礼ペオースの水晶に触れれば、一ノ色に染まってしまうでしょうね。信用が足りない者に勧誘されても、引き受けられなくて当然です」


「マイサーについて、ロクス司教は何を知っているんだ」


「お答えできません」


 顔を上げ、胸の前で手を組んでロザリオを握ったロクスは、存外はっきり突っぱねた。


 ネスはつい眉を下げたが、ロクスはそれでも微笑むだけで、ゆるく首を振る。


「ネスやカカロを信用しないわけではありませんが、私にも守らなければならない規則があり、その規則が秩序を保つと、今はまだ信じています。ただ……」


「ただ?」


「まだ、断罪者コンダンナーという罪深き存在がこの世に現れる前のことですが……恐らく私は、あなたをお見掛けしています。神聖文字ルーン研究家であった、マイサーの近くにいたあなたを」


 ネスは一瞬、身動きどころか呼吸も忘れた。


 数拍の後、ひゅ、と思い出したように肺に入った空気が音を立てた。軽く喉が詰まって「ん」なんて掠れた声が出る。


「あくまで恐らく、ですよ。会話したわけでもなく遠目に見ただけ。とても曖昧です」


「……覚えて、いない」


「今のあなたであれば、それこそ当然です」


「――ロクス司教様、いい加減このような場所、早く立ち去りましょう! 司教長からも早くあなたを連れ帰るよう言われているのです!」


 しびれを切らしたようなイアンの声が、通用口の前方から割って入った。


 はっとして顔を振り向ければ、怒りに顔を赤くしたイアンと、それを横目に意地悪く笑んでいるカカロがいる。


「こんな場所、ってご挨拶やなあ。こんな場所作ったんはおたくら聖職者やろ」


「うるさいっ、入ってきたのは貴様自身の罪ゆえだろう! そのニタニタ顔をやめろ!」


「ええー? 老若男女問わず人気やねんで、この顔。あ、もしかして嫉妬?」


「ちッがぁーーう!」


「ふふ、イアンの頭の血管が切れてしまう前に、立ち去りますね」


 微笑ましげに笑ったロクスは、言ってからふと、右手の二本の指先でネスの額に触れた。


 その瞬間、春風にでも吹かれたような温もりが全身を包み込む。


「ロクス司教? 今、何を……」


「カカロ、あなたにも」


 質問に答えずカカロの元へ歩みを寄せたロクスが、同じようにカカロの額に指を触れる。


 後ろ姿に隠されて、何をしたのかネスには明確に把握できなかった。


「司教様! そのような者達には過ぎたものです!」


「そんなことはありません。ネス、カカロ。お二方に、どうか神のご加護がありますよう」


 何かルーンが使われたのだろうか。それにしては何一つ変化がない。わけがわからず額を押さえると、カカロも困ったように口をすぼめて、ネスと同じく自身の額を撫でていた。


 右手を左胸の紋章に当て、一礼をしてから改めて二人は去っていく。


「何や……変わった司教さんやったな。何されたんやろ、オレら」


「わからないが、嫌なものではなかった気がする。礼を言い損ねた」


 おうん、と同意なのか否なのか、曖昧な相槌を返された。


 通用口の向こう側、聖職者達の姿は次第に小さくなって、街の人混みへと消えていく。


 それを見送って、ネスは静かにカカロを見上げた。


 カカロは何かを思案するようにあご先を撫でていて、感情の読めない深緑の目でまだロクスの背中を追っている。


 そんなカカロに、ネスはロクスから聞いた話を伝えるべきかと口を開きかけて、


 結局何も言わず、口をつぐんだ。


 言えなかった。言って良いものかも、今はわからない。


「……カカロ」


「おん?」


 呼びかけると、遠くを見ていた深緑の瞳が改めてネスに向けられた。


 じっと見上げれば、「何、どしたん?」といつも通りのやわらかい西都訛りが、ためらいなくネスに差し伸べられる。


「いや……お前は、黙っていれば美形なんだが」


「え、何や藪から棒に。褒めてんの? 貶そうとしてんの? 褒めても何も出ぇへんで?」


「別に何も出さなくていい。ただ、お前は黙っていないほうがいい」


「何じゃそりゃ、美形やめろってか? 美形やと見惚れてまうからか、そら仕方しゃーないな!」


 明るく斜め後方七時方角ぐらいの謎の受け取り方をされ、ネスはそっと眉尻を下げた。


 カカロはいつも通り「真顔やめて!」と悲痛に叫んだ。豊かな表情筋が、溶けたようなしわくちゃの顔を作り上げて哀愁を漂わせる。本当に、美からは程遠い表情だった。


 それでも、そのほうがいい、とネスは思う。表情を削ぎ落した、美しいだけの顔よりも。


「医療室に戻ろう。早く足を治せ」


「ええ……何なんもう。意味わからん」


 嘆くが、それでもカカロは当たり前のようにネスの隣に並ぶ。


 そのほうがいい、と。ネスは視線を落として、本当にただ、そう思っていた。

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