4話 司教とルーン

「初めまして。南都協会支部に所属する司教、ロクス・リゴリと申します」


「司祭のイアン・モルトです。通常、駆除人との接見に司教様が立ち会われるなどないことですが、司教様のご厚意による立ち寄りとなりました。深く感謝なさってください」


 翌日の昼過ぎ。まさかのエクソシスト司教と司祭が、予告もなしに裁判刑務所の医務治療室を直接訪ねてきた。


 あまりにも思いがけない形で、ネスとカカロの要望は早々叶えられたわけである。


 右手を聖職服の左胸に描かれた紋章に当てて一礼したエクソシスト二人は、ネスが上体を起こして座っていた寝具の脇へと、何てことないように歩みを寄せてきた。首から下げたそれぞれのロザリオの細かな鎖が、聖職服と擦れてシャラ、と涼しい音を立てる。


「あなたが、ネス・バンテーラですね」


 ロクスと名乗った、二十代後半から三十過ぎほどの青年司教。少しクセのある青灰の髪が、雨上がりの空を思い起こさせて美しかった。ふわりと優しく微笑んでたわむ垂れ気味の目は、甘そうな澄んだ紅茶色をしている。ネスと同じか、少し低いくらいの華奢な体躯だが、背筋がピンと伸びていて、偽りなく立ち姿に威厳を感じさせる。


 つい呆気に取られて言葉を返せないでいると、半歩後ろに立ち控えた二十代そこそこらしい司祭のイアンが、険を隠さない表情で眉間のしわを深くした。


「返事をなさい、ネス・バンテーラ。この方をどなたとお考えなのです。今代最年少の司教様にして、次代教皇様とも目されるお方なのですよ」


「いや、知らんがな」


 唖然と先に口を開けたのは、ネスの寝具脇に腰かけていたカカロだった。


「来てくれはったんはありがたいですけど、こっちは何も聞いてへんっちゅーねん」


「そうですね。ちょうど悪魔祓いを終えて南都へ戻る道中でしたもので……唐突で不躾かとは存じながら、お邪魔させていただきました」


 イアンとは対照的に、ロクスは非常に寛容な様子で、陽だまりを音にしたみたいな心地良い声で穏やかに言った。


 が、その視線がカカロから再びネスに移った時、わずかに瞳がネスの首元へ逸れたのがわかった。穏やかだった笑みに、かすかな陰りが差したように見て取れる。


 態度に出さないだけで、やはり心が広そうな司教から見ても、漆黒は忌避してしかるべき存在で間違いないようだ。


「知ったことじゃないなど、言葉にお気をつけなさい! 本当に、ろくな礼儀も知らないなんて、これだから駆除人は――」


「イアン。あなたも言葉が過ぎますよ」


 やんわりと、しかし決して有無を言わさない声音でロクスがたしなめる。


 イアンがまた、瞬間的に口をつぐんで右手を左胸に当てた。


 あの所作は恐らく、敬礼の一種か何かなのだろうな、と。眺めながら、ようやくネスの思考回路にも余裕が出始める。


「……呆気に取られてすまない。ネス・バンテーラだ」


「敬語くらいお使いなさい!」


「イアン」


 イアンが再び背筋を伸ばし、もう何も言うまいと誓いでも立てるように目を閉じた。


 隣でカカロがぼそりと「おもろい奴やな」と皮肉交じりに呟く。


「ネス、言葉遣いなどはお気になさらず。大まかではありますが、あなたの話は伺っております。ふた月前から記憶を失くされているとか。どうぞ、あなたの話しやすいように」


「助かる」


 ネスがぎこちなくうなずくと、ロクスは改めて包み込むような笑みを浮かべ、傍らの椅子に腰を落ち着けた。


 早速ではあるが、ネスもロクスに向き直るように寝具の上で居住まいを正す。


「カカロも言ったように、来てくれてありがたく思う。だが、何故偉そうな司教が、わざわざこんなところに来てくれたんだ」


 率直に疑問をぶつけると、直後にイアンがロクスの後ろで顔を赤くして、大仰に口をぱくぱくと動かした。声には出ていなかったが、唇が「偉そうとは何ですか、偉そうとは!」と動いているらしいことが、かろうじて読み取れる。


 初めてカカロ以上にうるさい顔を見たかもしれない、とよそ事が思考の隅をかすめつつ、そこでネスもはたと気付いた。


「ああ……すまない。言葉を間違えたかもしれない。偉そうというか、随分と位階が高いらしいエクソシスト司教が、普通なら引き受けない駆除人との接見を受けてくれたのは何故なのか、が気になっただけだ」


 ネスが言い換えれば、ロクスは「ふむ」と吐息交じりの相槌を打った。思慮深げに目を細め、その長い指の先で自身の唇をそっとなぞる。


「ネス。記憶がなくとも、あなたはミディアル・レジンのかつての相棒だったのでしょう」


「ロクス司教は、ミディアルを知っているのか?」


「ええ。彼は私の子ですから」


 笑顔で返された言葉に、


 一拍、二拍と間が空いた。


「……子? え、子ォ!? 司教さん歳いくつよ、ミディアルって二十三歳くらいとちゃうかったっけ、おたく何歳で女孕ませたん!?」


「訊きかたァ!」


 結局黙っていられなかったのか、再びイアンの一喝が部屋に響いた。


 が、そんな盛り上がる二人をよそに、ロクスは「ふふ」と悪戯っぽく笑って白い歯を覗かせた。


「すみません、冗談です。知人であることは本当ですが、彼は私の弟弟子だったんですよ」


「うわあ、めっちゃ乗せられたわ……エクソシスト司教でも冗談とか言うんやな」


 カカロが大きく肩の力を抜いて、粗雑に髪をかき混ぜる。


 ロクスは楽しげに吐息を揺らして、そんなカカロに微笑み返していた。


 そこから改めて、乞われるまま一連の駆除とミディアルについて、報告することになる。


 良くも悪くも驚きの連続だったが、お陰でネスもカカロも肩肘を張らず、余すところなく先日の一件をロクスに告げることができた。


「なるほど、それは……確かに、また断罪者コンダンナーが何かしらの進化を遂げてしまった可能性が否めませんね。すぐに各支部へ伝達して、隔離結界の強化を図らなければ」


 全ての話に神妙に耳を傾けた後、ロクスは小さく呟くと、懐から取り出した紙とペンで手早く何かを書き記していった。


「イアン、これを南都司教長にお伝えしてください。少々お小言があるかもしれませんが、火急だからと必ずお伝えするのですよ」


「うっ、か……かしこまりました」


 ロクスが差し出した紙を受け取って、イアンはわずかに顔をしかめてから一礼した。心なしか来た時よりも重そうな足取りで、部屋を後にする。


「……何か、上手いこと追い出した感ありますねえ」


「あなたはとても聡い方なのですね、カカロ・ドゥーン」


 悪びれずうなずくロクスに、カカロは楽しげに口の端を引き上げた。昨日はエクソシストと駆除人を水と油だ、と言っていたが、存外ロクスを気に入ったのかもしれない。


「さて」と。


 ロクスが、そこでひと区切りつけるように、軽く自身の両手の指先を触れ合わせた。


「今の内に本題に入りましょう。まず、申し訳ありませんがミディアルについては、私から申し上げられることは特にありません」


「特にない?」


 思わずネスが反復すると、ロクスは「ありません」と端的にもう一度繰り返した。


「ミディアルには、生きているなら是非もなく協会にも戻ってきていただきたいのですが……そもそも彼は現在、生死不明の行方知れずとして処理されています」


「へえ? 駆除人の間では、すっかりネスが殺したみたいな扱いになってるんやけど」


 カカロが、物言いたげに片眉を跳ね上げる。


 ロクスは苦笑を交え、軽くおどけるように首をすくめた。


「その点は、一部の駆除人の方々が面白おかしく語り継いだ結果かと。まあ私個人の見解としては、あれでミディアルが生きていた場合、彼は服だけを残した素っ裸で一体どこへ行ったのだろうな、という何とも言えない疑問は残りますけれど」


「何かこう、ありとあらゆるものを解放して自由になりたかったんですかねえ」


「そういうはっちゃけたヽヽヽヽヽヽ理由で一時の自由を謳歌しているだけならば、正直それが最も平和で結構だと思いますね。説教は不可欠になりますが、彼を損失するよりはいいですから」


 何とも口を挟めずにいるネスを尻目に、二人は真面目なのかふざけているのか、互いに笑い合いながら会話を続けていった。


「ミディアルは少々、規格外の駆除人です。この二か月、ネス・バンテーラが殺害した説の他、元エクソシストであるがゆえにマイサー・フォルテに誘拐された説、それから、それこそ新種の断罪者コンダンナーに殺された説など、ありとあらゆる憶測が飛び交っていました」


「協会側は、マイサーについて何か知ってたりせぇへんの?」


 カカロがさり気なく探りを入れる。


 しかしロクスは指先で唇をなぞると、「存じ上げないんですよね」と諦観気味に眉尻を下げただけだった。


「マイサー・フォルテに限らず、ミディアルの一件は全てが憶測で、憶測から先に踏み込んだ情報は、これまで何ひとつ入ってきませんでした。ただ、今回は少々違います。ネスの話で初めて、本当にミディアルが何かしらの形で生きている説が有力となりました」


「駆除人の報告を、ロクス司教は丸呑みして信じると言うのか?」


 改めて挙がった己の名前に、ネスが抑揚のない声のまま問い返す。


「ええ、信じます」


 驚くほど欠片も迷うことなく、ロクスは断言した。


 隣でカカロが目を丸くし、ネスもはくりと口を開けてしまう。


「ああ、そうでした。ルーンの扱いについても教えを乞いたいとのことでしたね。それも踏まえて打ち明けますと、実は先ほどの聴取中、私はずっと、ネスに真偽オークのルーンを作用させていたのです」


真偽オークのルーン?」


 カカロからも聞いたことがない初めてのルーンに、ネスは小さく首を傾けた。


 ロクスは当然のように「真偽オークです」と首肯して、何故かおもむろにネスの片手を取り上げる。


 ロクスのそれは、カカロやネスとは違って武骨なこととは縁遠そうな、細く綺麗で、しかしとても温かい手だった。


真偽オークは、作用させた対象者が真実しか話せなくなるルーンです。使役者の負担が少々大きく、日にそう何度も使えないルーンですが、神の御名に基って嘘がつけなくなります。その上で、先ほどのネスはこのルーンの作用に気付くことなく、またカカロも違和を覗かせることなく、話を終えてくれました。偽りがなかったことの、何よりの証左です」


 ロクスの周到さと己の鈍さに閉口して、ネスは空いた片手で口元を押さえた。


 カカロも似た想いだったのか、「怖……」と静かに嘆息を漏らして肩をすくめる。


 ロクスだけが、一人くすりと全てを見透かした顔で微笑んでいた。


「あれらの話が本当だとすれば、あなた方には近く、再び新種と思しき断罪者コンダンナーと戦っていただくことになります。であれば、私はあなたに可能な限りのルーンを教える必要があると考えます。司教が駆除人を指導するなど、協会は待ったをかけるでしょうが……」


「ああ……だから、イアンを退室させたのか」


 ようやく得心がいって、ネスは感嘆の息を吐いた。


「そういうことです。ルーンは三十種の形があることはご存知ですか?」


「カカロから聞いている」


「それは結構ですね。しかし、その三十種のルーンが、実はひとつにつきひとつの意味しか持たないわけではない、ということはご存じないでしょう」


 微妙に遠回しな物言いに、ネスは眉をひそめてロクスを見返した。


 ロクスは「お見せしたほうが早いですね」と目元をたわめた。先ほどからずっと握っていたネスの手のひらを上向かせ、そこに、ネスもよく知るひとつのルーンを描き出す。


 洗礼ペオース。犯罪者達の、罪の有無と重さをつまびらかにするルーンだ。


 ところがロクスの描いた洗礼ペオースは、その手のひらをかざして発動させた後も、色を帯びるようなことはなかった。代わりに、


「……っ、……?」


「ネス?」


 知らず息を震わせたネスに、カカロが心配げな声をかける。


 急激に、体が熱くなり始めた。まるでロクスに触れられた手のひらから、体内に湯でも入れられたかのようで、それらが全身を巡って熱を帯びていく。


「これは――……」


 じっとネスの手を取ったまま鋭く目を細めていたロクスが、ふと、何やら驚いた様子で声を上げた。


 しばらくすると、ネスの体内から熱が引いていく。自然と、深い溜息が零れ落ちた。


「……今の洗礼ペオースは一体、何なんだ」


 改めて問うたネスに、ロクスは視線を上げず、まるで頭痛でも感じ始めたかのように眉間にしわを寄せて額に手を当てた。


「今の、洗礼ペオースは……体内の神気量を調べる作用がありました。主にエクソシストを目指す聖職者に、その資質があるか否かを見極めるためのルーンです」


 罪の有無と重さをつまびらかにする、という駆除人達が身に帯びているものとは全く異なった作用に、ネスとカカロはどちらからともなく顔を見合わせた。


 ——なるほど。ひとつのルーンにつき、ひとつの意味、作用しか持たないわけではない。


 先のロクスの説明を実地で見て、ようやく理解が及ぶ。


「……で、司教さんは何でそんな頭痛そうなん?」


「それは……。……いえ。誤魔化しても仕方がありませんね。実はネスの神気量が……もしかすると、エクソシスト司祭どころか、司教にもなり得るほどかもしれないのです」


「司教になり得る? それは、ロクス司教と同じくらいの力があるということか?」


「いえ、さすがにそこまでは。イアンからも紹介を預かりましたが、私は後々教皇を期待されるほどですので、事実として他の司教より頭ひとつ二つ飛び抜けているのです」


 嫌味なく事実だけを言いました、といった雰囲気の返答に、虚を衝かれた気持ちでネスは瞬きを繰り返した。


「エクソシストはピンキリです。同様に司教もピンキリなのですが、ただ……そもそも、この国には今、司教となれる神気量を持つ人間は十人といません」


「えっ、マジで? ネスやばない?」


「やばいですね。これほどの神の恩恵を受けながら漆黒の大罪人であることも……漆黒の判定を受けながら、神から神気を召し上げられず置かれていることも、正直やばいです」


 どうしましょう意味がわかりません、と言葉の上でロクスから突き放されてしまうが、


「……一番意味がわかっていないのは、俺だと思うんだが」


「いや、まぁそうやけどもね」


 吐露したネスの肩にポンと手を置いて、カカロは困ったように苦笑した。


 ロクスは額を押さえるだけでは足らず、しばらくしてとうとう両手で顔を覆ってしまった。ううん、と悩ましい声を上げて、それまでずっと伸ばしていた背筋も丸く縮める。


 ――結局そのまま三分ほど、うんうんと唸っていただろうか。


「うぅうん……ううー……、……よし。はい。……いえ、うん。わかりました、考えるのはやめましょう。今のお話、ここだけの秘密にしておいてください」


 ロクスは不意に、何かを振り切ったように勢いよく顔を上げた。


「ここだけの秘密って。司教さん、将来の教皇様とか言う割に、さっきからちょいちょいノリが軽いよな?」


「頭が固いばかりで聖職は務まらない、というのが私の持論です。ともかく、イアンが戻ってくる前に可能な限りのルーンの意味と扱いをお教えします。エクソシストしか扱ってはならないものもありますから、さすがに全ては無理ですけれど……ネスの神気があれば、余すことなく全種のルーンを扱えるでしょうから、新種の甲虫型も駆除できるはずです」


 言うが早いか、ロクスは再びペンと紙を取り出すと、勢いよくそこに三十のルーンとその意味を書き出し始めた。


「私は神のご判断を信じることにします。いいですかネス、己の力量は決して見誤らないでください。神気は生気でもあります、使いすぎれば死にますからね。まずは――……」

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