2話 別れと出会い

「――いやこいつデカすぎやろ! あとキモい! めっちゃキモいぃ!」


 元は祭事典用か何かだったと思われるすり鉢型の広場に、良くも悪くもいつも通りに戻ったカカロの絶叫が反響した。


 薄雲のかかった青空の下、ピースが抜けたパズルのように欠けたモザイク画タイルの床に、大人が数名入れるくらいの大穴がいくつも空いている。そして複数の大穴から四体ほど出入りを繰り返すのは、人の倍はあるような大きな体躯を持った甲虫型の断罪者コンダンナーだ。


 テラテラと油を塗ったように陽の光を反射させる体は、視界の端でも捉えやすくはあるがそれ以外は少々厄介だった。硬い上に実際に油を塗ったかのように表面が滑るらしく、関節を的確に狙わなければカカロの刀やネスの石弓の弾がなかなか通らない。


 眼鏡男の持つ投擲ナイフ型や、髭男の大剣型の武装ティールも同様で、四人がかりでも未だ一体も倒せていない。


「硬いのが厄介だな……どの穴から出てくるかも読みづらいし」


 眼鏡男が呻いた。中距離型のネスと眼鏡男は、すり鉢広場の、恐らく客席だったであろう円周の中ほどの高さから広場を見下ろして援護している。


「油っぽいのは、燃やしたら燃えないのか?」


聖火ケンの水晶でどうにかできる大きさじゃ……いや、まさかお前、ルーンが使えるのか?」


 傍らに寄って問いかけたネスを、眼鏡男は驚いたように振り返った。


 ネスは首肯するように小さくあごを引いて、


「最低限だが、使える」


「随分頼もしい言葉だが、燃やすのが得策とは思えないな。地中にもぐればすぐ消されるだろうし、下手に甲虫型の怒りを煽るだけになる可能性が高い」


「そうか。……穴に水を流し込むのも良くないな」


「そうだな。地中の穴がどう広がっているかわからないし、下手をすればこっちの足場にも影響が出る」


 口早に意見を交わす間も、カカロと髭男は四方から受ける甲虫型の攻撃をかろうじて避けている状況だ。


「ちょっとそこの頭脳派二人ぃーーーっ! はよ何か打開策考えて!」


 カカロが悲痛な声で叫ぶ。


 その一番近い穴から甲虫の足だけが現れて、しなる鞭のようにカカロに振り下ろされた。


 カカロはいつもの身軽さで側転して避けたものの、避けた先の別の穴から別の甲虫型が現れて、思わずネスの血が冷えた。


 が、間一髪、髭男がカカロをかばう形で甲虫型の鼻先に一撃を叩き入れ、穴の中に押し戻してくれる。


「何か効きそうなルーンはないのか」


 眼鏡男の声にも、隠し切れない焦りが滲んでいた。


 ネスは思い返すように少しだけ視線を上げて、それから再び広場に目を向ける。


「単純に効く、と思うのは重突ウル鈍斧ユルのルーンだ。重突ウルは数百キロほどの重さがある金槌のようなもので、鈍斧ユルは半径一メートルほどに及ぶ空気の刃のようなものだ。かなり鋭い。ただ、どちらも瞬発力がないので、あの甲虫型には間違いなく避けられる」


「なら、甲虫型の動きを止めるようなルーンは?」


「……茨縛ソーンという、光の茨を操るルーンがある。だが茨縛ソーンを使うということは、あの甲虫型と綱引きをするのと同義になるから、俺では確実に力負けする。カカロも扱えるルーンだから任せることもできなくはないが、茨縛ソーンを使えばカカロの足まで止めてしまう。甲虫型が四体もいる今、数十秒もカカロの足を止めさせるのは得策とは思えない」


 答えながら、打開策が見つけられないことにネスは眉根を寄せてしまった。石弓を握る手に汗が滲み、それが気持ち悪くて一度武装ティールを解除し、武器を消す。


 眼鏡男は指先でフレームを押し上げると、逡巡を交えて問いを重ねた。


「その茨縛ソーンは、どれくらいの距離で使えるんだ?」


「広場に下りないと無理だ。重突ウル鈍斧ユルなら、ある程度離れた場所からでも使えるが」


重突ウル鈍斧ユルとやらは、あの銀髪男も使えるのか?」


「使える」


 うなずけば、眼鏡男は何やら腹を括った様子で大きく息を吐いた。


「……わかった。なら、茨縛ソーンを使ったお前を補助する形で俺がお前を支える。それであの銀髪男に重突ウルだか鈍斧ユルだかを使わせろ。ガイに援護させるから、銀髪男とガイが変わらず動き回って甲虫型をかく乱させながらなら、どうにかなるんじゃないか」


 ネスは、視界が開けたような心地を味わった。二度、三度と目を瞬かせて眼鏡男を見つめ、つい思ったまま口を開く。


「眼鏡をかけている奴は、頭が良さそうに見えるだけで実はそうでもないとカカロが言っていた。嘘だったんだな」


「後であの銀髪男を一発殴らせてもらうぞ」


 眼鏡男はこめかみを震わせ、半眼になって言った。


 たぶん眼鏡男の拳くらいカカロは簡単に避けてしまう、と思ったが、それを言わないほうがいいことは理解できたので、ネルはただ「行こう」とだけ告げた。


「カカロ! 俺達が茨縛ソーンで甲虫型の動きを一体ずつ止めるから、重突ウル鈍斧ユルを撃ち込んでくれ!」


 すり鉢を駆け下りながら言葉をかけると、「んあー!」とわかったのかわかっていないのかよくわからない答えが返ってきた。


 息が切れてきているのかもしれない。カカロはかなり体力もあるほうだが、限度もある。


「ガイ、援護しろ!」


 ネスの後ろについている眼鏡男が、髭男に呼びかける。こちらに返答はなかったが、わずかにあごを引いたのが見えたので状況は理解できているようだ。


 そうしてネスと眼鏡男が広場に下りた、その直後。


 二人の近くにあった穴から、即座に甲虫型が頭を出してその足を一本振り上げた。


 ぎょっとして思わず身を固めた瞬間、後ろから眼鏡男に襟首を掴まれ、力いっぱい引っ張られる。


 鼻先すれすれに甲虫の足先が叩き下ろされ、衝撃で足元が揺れた。


「げほっ。た、すかった、ありがとう」


「思った以上に鈍くさいな、それでも漆黒か!」


「近接戦闘は苦手なんだ。あと、洗礼ペオースの色と身体能力は全く比例しない」


 話しながらも右手の指先に溜めた神気で、ネスは茨縛ソーンのルーンを中空に描いた。手のひらをかざした瞬間、そこから生えるように光の茨が現れる。


 誘導するように腕を払い、ネスは目の前にいる甲虫型の全身に茨縛ソーンを巻き付け、足を動かせないよう封じた。


 縛り付けた瞬間から、これを振りほどこうともがく甲虫型に全力で引っ張られる。


 踏ん張ろうと力を入れた努力も虚しく体が前方に浮きかけたネスを、そこで後ろから羽交い絞めにするように眼鏡男が力を貸してくれた。


「カカロ……っ!」


 呼びかけると、暴れる甲虫型の向こう側で、二体の甲虫型から転がるように逃れるカカロの姿が見えた。


 カカロは勢いを殺すことなく駆けながら右手で重突ウルのルーンを描き出し、ネス達の捕えている甲虫型の頭上に光の槌を出現させる。


「っ、しゃオラァ!」


 柄が悪いことしかわからない謎の掛け声と共に、カカロが頭上に掲げた腕を振り下ろす。


 動きに呼応し、一拍遅れて重突ウルが甲虫型を叩き潰そうと落ちてきた。


 ——グシャッ、とキャベツを丸ごと踏み抜いたような音が鳴り、ネスの顔と全身に飛び散った茶緑の濁った体液がかかる。が、それはすぐ空気に溶けて跡形もなく消え、ただ不快感だけが残された。


「よし、上手くいったな!」


 どうやらネスを盾にしたようで、体液を浴びなかったらしい眼鏡男が喜色の声を上げた。


 少し物申したい気持ちもあったが、広場に下りた以上のんびり話しているわけにもいかず、続けてもう一体、同じ手順で駆除を完了させる。


「いい感じだ、このまま残りも駆除してしまおう」


 眼鏡男の言葉にうなずいて、ネスは広場を見渡すように視線を流した。


「リューズ、後ろだ!!」


 一体の甲虫型をカカロと共に穴に押し戻した髭男が、こちらを見た瞬間に突然、大声を張り上げた。


 喉が張り裂けるのではと思うほどの大声量に驚いた直後、ネスの頭の後で「え」と眼鏡男の短い声が上がって、


 びしゃり、と。


 重い震動と共に、ネスの背中に酷く生ぬるい液体が浴びせかけられた。


 振り返る間もなく、鉄生臭い血の匂いが一気に鼻腔に押し込まれる。くちゃくちゃと、何かが何かをすり潰し、咀嚼する音が耳をつく。


「ネス、避けろ!」


 知らず全身を強張らせたネスの元へ、とっさに俊動エオーのルーンを作動させたカカロが飛び込んできた。


 体が横にさらわれ、視界の端に、しなった甲虫型の足が映り込む。


 油を塗ったようにテラテラ反射しつつも黒みを帯びていたはずのその足は、鈍く赤く、染まっていた。


「っ、ぐ……ッ!」


 耳元でカカロの呻き声が零れ聞こえ、ネスはようやくハッと我に返った。


 己の呼吸音がいやに耳の奥で反響し、吐き気をもよおしたが、どうにか呑み込んで自分を抱いたまま片膝をついたカカロに目を移す。


「カカロ!」


「ごめんネス、あと一発が限界……っ」


 額に脂汗を浮かせたカカロの左足のももが裂け、決して少なくはない血が流れ出ていた。


 ネスを助けるために避けきれず、先の攻撃を受けてしまったらしい。


「っ、すまない」


 ネスは奥歯を噛み締めると、何より優先して茨縛ソーンを描き出した。眼鏡男はもういないが、カカロがのしかかる形でネスを腕に抱き留めているので、恐らく踏ん張れる。


 目の前の食事ヽヽヽヽヽヽに夢中になっている甲虫型を、力いっぱい縛り上げる。邪魔をされて腹を立てたのであろう断罪者コンダンナーは暴れたが、間髪容れず重突ウルを描き出していたカカロが、即座に力いっぱい叩き潰してくれた。


 体液が飛ぶ。ネスもカカロも全身で浴びて、すぐにそれは消えていく。


 けれどネスの背中にかかったすべては、消えることなく、すぐに乾くわけもなかった。


 カカロの腕から力が抜ける。疲労に加えた失血と痛みで気を失ったようだ。


 ネスはわずかな逡巡の後、カカロの体の下から抜け出して周囲に目を向けた。


 髭男は呆然と立ち尽くしており、残り一体の甲虫型は穴に潜っているのか見当たらない。


「……っ、ガイ!」


 眼鏡男が呼んだその名を口にすると、髭男――ガイは、雷に打たれたように大きく肩を跳ね上げた。


「カカロが気を失った。力を貸して欲しい。次に断罪者コンダンナーが現れたら、五秒でいいからその場に断罪者コンダンナーを留めてくれないか。俺が叩き潰すから」


 ネスは、自然ときつくなってしまう眉間のしわを手の甲で雑に押し広げながら請うた。


 頭痛がする。気分が悪い。


 だが、ネスですらそうなのだから、ガイはきっと、もっと酷い想いに苛まれている。


 ガイは大剣を握る手を戦慄かせると、視線を鋭く細め、敢えて囮になるようにひとつの穴の傍らに立った。そこにネスやカカロを守る意図は、別にないのだろう。だが、己一人ではあの甲虫型に食われるだけだと、彼はわかっている。相棒が殺されても、そう理解して動けるだけの冷静さを、保ち続けてくれている。


 ネスは呼吸を整え、すぐに重突ウルが出せるよう指先に神気を込めた。


 しばらくして、地面に膝をついているからかわずかな振動を地中から感じた。


 狙い通り、残った断罪者コンダンナーは穴の最も近くにいたガイを狙って地中から姿を現した。


 ガイが甲虫型の足を受け流し、払い、地中に潜らせないよう身を捻って動きを妨げ、その場に断罪者コンダンナーを留め置いてくれる。


「ガイ、避けろ!」


 断罪者コンダンナーの真上に重突ウルを出現させた直後、ネスは叫んだ。


 ガイが地を蹴るのと同時に腕を振り下ろし、最後の一体を叩き潰す。


 ようやくだ、とわずかに息を吐いて、


 甲虫型の体液を浴びて膝をついていたガイの体が、不自然に、叩き破ったはずの断罪者コンダンナーの甲殻の元へ引っ張られるのが目に見えた。


「え……?」


 唖然と呟いたのがネスの声だったのか、それともガイの声だったのか、わからなかった。


 背筋に悪寒が走り、ネスは無意識にガイの元へ向けて駆け出していた。茨縛ソーンを描き、現れた光の茨を断罪者コンダンナーではなくガイの腕に巻き付け、とっさに手前に引く。


 ところがそれより一瞬早く、本来ならもう消えていいはずの断罪者コンダンナーの体液が、意志を内包したヘドロのように寄り集まって、膨れて、形を成して、茶緑から濃茶に色を変えて、


「っ、駄目だ、来るな!!」


 叫んだ直後、ガイはその全身丸ごと、甲虫型と同じくらいの体積を持つヘドロに呑み込まれてしまった。


 ネスの手から繋がっていた茨縛ソーンが、ナイフを突き立てられたように引き千切れる。


 反動でたたらを踏み、ネスは愕然と目を見開いた。


「何、だ……何だ、あれは」


 粘質なヘドロは濁りが酷く、呑み込まれたガイがどうなったかは見て取れなかった。


 けれどあれが、甲虫型の断罪者コンダンナーの中から現れて、断罪者コンダンナーと同じく、人に触手を伸ばしたのだとすれば、否応なくどうなったかなんて想像がつく。


 ゾッとした。


 ネスはすぐさま聖氷イスのルーンを描き出し、手をかざした。ヘドロが見た目通り水分の塊なら、凍らせて壊すしかない。


 そう思ったのに、聖氷イスに反応してその身の動きを一瞬止めたヘドロは、しかし表面しか凍らなかったようで内側から氷を割ってぬるりとネスに向かって動き出した。


 今度はすぐさま、聖火ケンのルーンでヘドロを燃やす。


 それでもヘドロは動きを止めず、ひたひたと鈍い動きでネスに近づく度に、聖火ケンの炎を鎮火させていく。


 頭の奥底で警鐘が鳴った。意味がわからない。


 動きが鈍い。重突ウル鈍斧ユルで倒せるか?


 ……重突ウルで潰した後でも動いているのだから、無理だ。


 武装ティールの石弓が効くか?


 ……重突ウルでも聞かないのだから、鉛玉程度の衝撃が効くわけがない、無理だ。


 カカロを守りながら、これ以上考えて戦えるか?


 ……本当に意味がわからないから、


 無理だ。


 ネスは即座に足を引き、カカロの元へ駆け戻りながら勇喝イングのルーンを描き出した。


 端的に言えば、アドレナリンを放出させるルーンだ。一定時間、痛みも疲れも、何もかも忘れてがむしゃらに動けるようになるルーン。使った後、時間に応じてしばらく反動で動けなくなることも多い、諸刃のルーン。


 勇喝イング俊動エオーを重ねて作動させ、ネスはカカロをどうにか肩に担ぎ上げた。


 脱兎のごとく、すり鉢の客席を駆け上がる。


「……んんん、残念」


 風を切る耳の端に、かすかな呟きが触れたのは広場の最上部に上がり切った時だった。


 足を止めず、顔だけ後ろに振り向ける。


 さほど離れていない四時の方向の客席に、人間が一人、足を組んで座っている姿が目に飛び込んでくる。


 わずかに赤みがかった金髪に、やわらかな水の流れを思わせる色素の薄い青の目。聖職服に似た黒の衣装を身に着けて、人のよさそうな微笑みを浮かべたその青年は、何故か朗らかな様子でネスに向かって手を振っていた。


「またね、ネス」


 直接会った記憶は残っていないが、裁判刑務所の資料で見た記憶は残っている。


 ミディアル・レジン。死亡したとされる、ネスの元相棒。どう見ても、その人だった。


 ネスが足を止めないので、青年からぐんぐん距離は離れていく。


 意味が、わからなかった。


 本当に、意味がわからなかった。

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