3話 記憶と目的
「二か月前のデジャヴ感じたわ。ネスお前、もうちょっと抵抗しぃや」
当然のように聖職刑務官から説教を食らい、ようやく解放された夕暮れ時。
夕食準備に賑わう街の市場を並んで歩きながら、カカロが不満げにぶすくれた表情で唇を突き出した。頭の後ろで腕を組みながら、「はーあ」と大げさな溜息を吐く。
灰白色と赤茶の石造り、レンガ造りの家々が建ち並ぶ石畳の街。裁判刑務所が近く、お世辞にも治安が最高とは言えないが、隔離区域帰りの駆除人達が飲み食い寝泊まりする街であるため、商魂たくましい一般人が集っていつも賑わっている。
基本、死刑囚を除けば、駆除人は外界への出歩きも自由だ。
皮肉だ、と思う。
「ふた月前……。そうだな、ふた月前も、カカロは今日のように俺を助けてくれた」
ネスは首肯する代わりにあごを引きながら、わずかな己の記憶を振り返った。
あれは記憶を失くして数日後。相棒殺しの二つ名が駆除人の間に知れ始めた頃だった。
相棒――つまり、駆除すべき
駆除人同士、中には仲間意識のようなものを抱く者もいるが、同族嫌悪を抱く者も多い。ただし一人での駆除はこちらの致死確率が上がるだけ。そんな鬱屈したコミュニティで、己に害を為すかもしれない同業者がいる、と知れれば、それは嫌われて当然である。
だからふた月前のその日、ネスは今日よりも質の悪い駆除人のグループに取り囲まれ、排除されようとしていた。やられる前にやれ、の精神だったのだろう。
「俺を助けようとする駆除人がいるとは思わなかったから、あの時は驚いた」
ネスはわずかに視線を上げて、どこか懐かしく思いながら目を細めた。
記憶がなく、己が何者かも何をしたのかもわからないまま、当時のネスはされるがまま集団からの暴行を受けていた。記憶がなくとも痛みはあるから、そろそろ気も遠くなりそうだ、と思っていたところにカカロが現れたのだ。カカロは自分に不利益しかないだろうに、
「いや、てかネスってぶっちゃけオレより強いやん。純粋な身体能力はオレのが上やけど」
カカロが変わらず不満げに、そして当然のように低く呻いた。
「それがヒョロッヒョロとか言われんのも腹立つし、もうちょっと何とかならへんの?」
「何とか、と言われてもな」
小首をかしげ、隣を見上げる。
カカロはじとりとした半眼でネスを見下ろし、鼻の頭にしわを寄せて続けた。
「自分、俺より扱えるルーンの数も多いし、神気も明らかに強くて同じルーンでも目に見えて効果が違うやんか。二か月前はまあ、記憶失くしたばっかりでルーンの使い方さえ忘れてたわけやから
「そう言われても……俺には、
ネスは手のひらを見つめ、にぎにぎとゆるく力を入れ、あるいは抜いて拳を握り込んだ。
ルーンは書いて字のごとく、古代に神の御使いである天使が使役したとされる神聖な文字だ。扱える人間は実はさほど多くなく、神気を持つだけでも聖職者となり得るような、一種の特別な力である。
駆除人、つまり犯罪者であれば扱えない者のほうが圧倒的に多く、だからこそ聖職者があらかじめ神気を込めた
当然、外界を出歩く際は没収される。神気を持つ者には没収も意味を成さないのだが、基本、神気を持つ者はそもそも重犯罪率と再犯率が低い、とも言われていて見逃されているのが現状だ。
ただ、何故か――……、
「……それに、ルーンを人間に対して使うのは、記憶のない俺でも気が進まない。これは本来悪魔を祓うため、人を守るために研究が重ねられたものなのだろう」
ネスは目を伏せ、困惑を交えた小さな声で答えた。
神気は主に信仰心が篤く、慈悲の念を抱く者に授けられると言われている。まさにカカロに当てはまるわけだが――しかし何故か、ネスにもルーンが扱える。
ルーンは全部で三十の種類があり、内包する神気の強さで扱える数が変わる。カカロが扱えるのは十一種で、記憶を失くしたネスはカカロからルーンの扱いを教わった。
ルーンは、その意味を正しく理解していなければ使えない。だからネスは、カカロも扱える十一種と、聖職者の力によって生活圏に普及しているいくつかのルーンしか、そもそも理解できていない。
先の駆除でも使用した、植物の成長を助ける
他にも扱えるルーンがあるのか否かは、今のネスにはわからない。
「いや、ルーンが人を守るためのもんってのはオレも知ってるよ。せやからその『守る人』に自分も含めときって話なんやけどな。守るべきか守らざるべきか判断できひん時は、とりあえず守っときて言うてるやろ。ゆで卵って、生卵に戻されへんねやで。わかる?」
カカロが神妙な顔をして、その大きな手で卵を象るように空気中を撫でた。
ネスは困惑交じりに薄く眉根を寄せて、
「ゆで卵を生卵に戻せないのは理解できるが、何故ここで卵の話が出たのか理解できない。腹が減ったのか?」
「せやねん、駆除終えたばっかりで腹ごしらえまだやったやろ、オレはソースじゃなくて塩派やねん――ってオレは食いしん坊か! ちゃうわ!」
一瞬笑顔になったかと思えばすぐさま顔をしかめ、カカロは大仰に頭を抱えて見せた。本当に、黙っていればただの美形であるのに、くるくると表情が変わる様は目まぐるしい。
「お前が生卵であるべき人間かどうか、記憶が戻らん限りはわからんわけやろ。でもわからん間にゆで卵になってしもたら、生卵に戻られへんねやでっていう例え話やから!」
「カカロはいつも、いいように俺を解釈してくれるな。だがどんなに神気が強かろうが、結局は漆黒でしかない事実を忘れてはいけないと思う」
「いや、そら漆黒ってどえらいなとは思うけど。そもそもネスって理由もなく」
カカロが何か言いかけた時だった。
横道から飛び出してきた子供が足にぶつかって、ネスは軽くたたらを踏んだ。
どさっと傍らで音がする。目をやれば、紙袋を抱えた十歳足らずの少年が尻もちをついており、手元からポロポロとリンゴや芋が転がり落ちてしまっていた。
「ああ……すまない、大丈夫か?」
声に抑揚は出ないが、ネスは膝をついて転がった食べ物を拾い、少年に手渡した。
少年は慌てた様子で立ち上がると、綿毛のようにやわらかな笑みを浮かべた。
「ありがとう、お兄ちゃん。ぼくこそ、ぶつかってごめんなさ――」
「ルイ! こっちにおいで!」
少年を追いかけるように後ろから飛び出してきた年配の女性が、ルイと呼んだ少年の腕を引っ張る。落ちてしまった最後のリンゴを受け取り損ねたまま、少年はぐんぐんネスとカカロから引き離されて元いた横道に戻っていった。
「母さん、痛いよ! 待ってよ、あのお兄ちゃんが――」
「店のお客さん以外、駆除人には近づいちゃ駄目だっていつも言ってるでしょ!」
そんな会話が遠ざかっていき、あっという間に姿が見えなくなる。
母親の態度は正しい。命を懸けて働いていたって、そもそも罪を犯さなければ存在しない、しかも贖罪すら終わっていない自業自得の犯罪者が駆除人だ。
「……カカロ。このリンゴ、どうしようか?」
「食べたらええんちゃう? 施しモンとしてもらっときぃよ」
ネスもカカロも、そして道脇に並ぶ露店主やその客も。一連をやり過ごし、あるいは見届けた後、また何事もなかったように己の仕事や日常に戻っていく。
慣れだ。
ネスは思案に首を傾けた後、
「甘そうだから、二人で食べよう」
「……そういうとこぉ」
苦笑いに眉尻を下げたカカロが、リンゴを受け取りながら呟く。
「そういう? ……どういう?」
「オレがお前のこといいように解釈する理由やって。自分、理由もなく罪を犯すような奴には見えへんからさあ」
リンゴをかじって、小気味よい音をしゃくしゃく鳴らしながらカカロが答える。
同じようにリンゴをかじり、改めて並んで歩き出しながら、ネスは空いた手で首元の
「……漆黒ともなれば、大量殺人などの可能性が高い。というか、それくらいしか例がないと言われている」
「知ってる」
「その上、俺はカカロに会う前の……元相棒すら、殺したかもしれないとも言われている」
「知ってるぅ。ミディアル・レジンな。二ノ色になっただけで駆除人を志願した超絶稀有な元聖職者って、有名やったからな。二ノ色とは言え染まってはおったわけやから、まあ軽犯罪者には違いなかったんやろうけど」
ネスはうなずく代わりに目を伏せた。
ところどころに小石が転がる、整然と並ぶ石畳を見下ろし踏みしめながら、足を進める。
——元、聖職者。何か罪を犯したとはいえ、本来なら駆除人になどなる必要もなかった紛う方なき善人が、何故漆黒であるネスなんかと共に行動していたのか、理由は知れない。資料として残された写真を見る限り、人のよさそうな顔をしていたことは知っているが。
ネスが記憶を失くした日。精鋭の駆除人と聖職者が、ネスとミディアルの担当した駆除区域に赴くと、駆除すべき
人を灰にするなどという力を持った
「……理由もなく罪を犯す人間じゃなくとも、どんな理由があろうと殺人は許されない」
色々なものが判然としないモヤを内に抱えたまま、ネスは独り言つように答えた。
ところがカカロは、先までと何ひとつ変わらないあっけらかんとした声で、
「そうか?」
「……え?」
「理由があるんなら、人殺しかて
顔を上げたネスの前で、カカロは一切の曇りがない笑顔で言い切った。それこそ、リンゴが甘くて美味しいとでも言うような表情と変わりない、いつも通りの寛容な笑みだ。
顔には出さなかったが、ネスは背筋にぞくりと寒気が走るのを感じた。
呼応するように、リンゴを掴むカカロの手首に着けられた
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