六、ファントムという女

「おい、大丈夫か、おい」


 低い声に意識が戻った椴は、瞼の裏から自分は今、街灯の真下に寝かされているのだと気付く。真っ白な光に眉を顰めて、うっすらと目を開けば、逆光で真っ暗な人影がこちらに膝をつき、真上から見下ろしているのが分かった。逆光に相反して生気のない灰色の目が、ぼんやりと光っている。


「なんだ……? 死神か……。俺、ついに死んじまったんか……」


「わざわざ死神が出迎えてくれるなんて……ああ、こんなことになるんだったらもうちょっとおばあちゃんに孝行すれば良かったですよ……」


 隣に寝ているのであろうヨーナスの声も聞こえる。しかし、人影の声はそれを否定した。


「残念だったな。ここは冥界じゃない。忌々しい現実の世界だ」


「喋った!?」


 椴は飛び上がり、覗き込んでいた人影を、今度は首を横に向けて寄ら得た。人影は目だけでなく髪も灰色で、顔は痩せこけ目の下にくっきりと隈が縁取られている男だった。顔色も白灯と、同じ仄暗い白といったところ。椴はそれを凝視しながら、


「嘘だ。絶対死神だ。だってどう見ても生きた人間じゃないだろ。この顔」


 と、『死神』の言葉を疑う。男が納得していない椴に再び口を開けようとしたとき、椴は突然、その男の胸を鷲掴んだ。白いワイシャツ一枚隔て、窓を拭くようにゆっくりと胸を撫で回す。


 男は一瞬だけ眉を顰めたが、特に何も言うことなく、することもなく、無表情のままその行為を見守る。やがて椴は、男の胸から手を離し、両手を震わせた。


「ワイシャツごしに触ってもすぐ肋骨に到達するなんていう、胸板の薄さ……! とても生きた者とは思えない、が……! 暖かい! 死神じゃねえ、生きてるわコイツ!」


「何故、それを胸で確認する」


「触りたかっただけなんでしょう、どうせ」


 すると、男の後ろで割れたメガネを外したヨーナスが、呆れた様子で椴を見ながら寝そべっていた。黒縁メガネで隠されていたヨーナスの目鼻立ちに、椴は意外に良い顔してるじゃないかと思った。


「それより、どうしたんだ。美術館で鑑賞してたら突然地震のように鳴り響いて君たちの車が――、」


「……っそれより、ファントムは!? 俺の車は!? 猟犬くんは!?」


「ジョージさんより、車の心配を先にしないでくださいよ……」


 ヨーナスの指差す方に椴が顔を向けば、ブルドックのごとくくしゃくしゃになっているファントムとHSVが、並んでレンガの壁に突き刺さっている。


 椴は見るも無惨な相棒の姿に悲しむと同時に、己の欲望に付き合ってくれた奮闘ぶりに感謝の念を目を伏せて示した。そしてそれらを淡々と立ち眺める、ボーイ姿の背の高い金髪の青年は――、


「ジョージさん!」


 ヨーナスと椴はふらつく足元で駆け寄った。それに横を向き、「おう」と、ジョージは声をあげる。


「よく、無事でしたね!」


「ああ、当たる寸前に横に飛び降りて何とかなった。しかしてめーらは無様だったなあ。とんだアホ面かまして、鉄屑の中にのびてやがったぜ」


 自分も土を被り、透き通った頬に赤黒い痣を作っているにも関わらず、赤い筋を曲げて嘲っている様子に、椴は若者らしい強情を感じ「昔の俺のようだ」と、笑った。


「じゃあ、ファントムの方は! 運転手は!? 無事ですか!」


 ジョージは黙ってファントムの運転席を指差す。まさかもう手遅れなのかと、二人はドアのない運転席へと駆け寄ったが、そこには誰もいなかった。


「まさか……逃げてしまったのですか!?」


「ちげーよ。……最初から誰もいなかったんだよ」


「は?」


 椴とヨーナスはジョージの方へ向き、信じられないといった顔をした。


「俺もぶつかる前に気付いてたんだがな、空の運転席の中ハンドルだけが動いてて、すっげー気持ち悪かったぜ」


「え、つまりファントムは遠隔操作だったと……?」


 ヨーナスは答えを乞うように椴の方を見る。


「いや、俺は一度ファントムに近づいた時、声が聞こえた」


 椴が遠隔操作の可能性を思考するも、すかざずジョージが否定する。


「なっ……。じゃぁ一体全体どうなってるんですか……!? まさか幽霊が操作しているワケじゃあるまいし……!」


「さあ……」


 混乱するヨーナス、意味が分からなくて黙っているジョージの間とのに椴は入りこむ。やがて、仁王立ちして構え、人差し指を宙につきつけた。


「なるほどお! これがホントの幽霊ファントムって奴か!? ははは!」


「「じゃかあしいわ!」」


 椴の後頭部めがけて、二人のツッコミが同時に炸裂した。


「ああ、あのう……」


 その直後、三人は後ろから聞き慣れない女の声を聞いた。声のする方に同時に顔を向ければ、広場の真ん中で黒いレディーススーツを着た黒髪の女が、前に両手を組みながら三人を見上げている。


「あぁ?なんだテメえ」


 ジョージが冷徹な眼差しで彼女の声に答えると、その視線に女ははっと頬を紅潮させつつ顔を逸らす。やがて目だけを三人の方へと戻し、口を小さく開いた。


「あ、あのう……は、はじめまして……私はアーサー・ベリャーエフ議員の第二秘書を勤めております、강전・미나(カンジョン・ミナ)と申します。今回は……その……、うちのファントムがご迷惑おかけしました……」


 最後の言葉に、三人は最初のあいさつなど頭から吹っ飛んでしまった。


「あ、あなたが!? あなたがファントムの持ち主なのですか!?」


「君なの!? ファントムをあそこまで操れた奴ってのは!」


 切羽詰まった状態で前へ乗り出すヨーナスと椴に、ミナと名乗る女は慌てて両手を降った。


「いいえ……! 確かに持ち主は私ですけれど……! 運転したのは私ではありません!」


「じゃぁ誰なんだっていうんだお前は」


 一方、ジョージは淡々としたまま彼女の証言に応じる。


「ああ、あのう……こんな話、簡単に信じられないのかもしれませんが……」


 そこでミナはまた、遠慮がちに目を伏せ、薄い唇に指を添えつつも、やがて小さくその答えを呟いた。


「運転したんです。ファントムが、自分自身で」


 沈黙。


「は」


「はははは」


「何言ってんだよ君はああああああ!」


 椴は衝動を抑えきれずに、ミナの肩を掴んだ。


「散々追いかけて、なんとかして追いついて、数億円もの損害賠償もものともせず追い求めた結果が『運転したんです、ファントムが自分で』ですたあ!? ふざけんな!大体車が自分で動くわけないだろが!」


 全くもってその通りだと、後ろでヨーナスは眉間を押さえながら頷いた。運転席が空な原因を知ったことが、更に謎を深めることになろうとは。予想だにつかない事態となり、一気が怠さが襲いかかる。


「ま、それはおいとくとして」


 すると、突然責められ固まっているミナの横にジョージがつた。興奮が抑えられないでいる椴を右腕で押さえつけながら、ミナを更に問い詰める。


「じゃあ、そのファントムが俺たちのことをつけ狙ってたのはどういうことなのか。持ち主のお前は知ってンのか?」


「そ、それは……」


 引っ込み思案な性格故か、彼女はまた斜め下に視線を逸らす。そして今度は更に顔を赤く染めていた。


「それは……、私がファントムのそばで独り言していたのを聞いていたから……」


「はあ、なんて?」


 彼女の性格を介することなく質問するジョージに、ミナは深く俯きつつ、


「あ、あなたのことです……」


 と、やがて掠れた声で答えた。


「俺?」


「はい…ゴシップ雑誌のとある小説で、あなたのことが書いてあるのを知りまして…それを見ながら私ファントムの前で何気なく言ったんです。『こんなドラマにしか出てこないような格好良い人に会ってみたい』と」


「はあ? それでファントムが?」


 ミナは、ジョージごしにファントムを見ながら答えた。


「……はい。ジョージさんか、相方のヨーナスさんのパトロールルート知り得た後、NYPDのパトカーを装って回ることで怪しまれることなく、定期的に行きつけの喫茶店などを窺って、会えるルートを私に知らせたかったそうです。最もプラザのパトロールは不定期だったことは、今まで知らなかったらしいのですが……」


「って、ファントムが?」


「はい、言ってます。今」


「今!?」


 椴がまた詰め寄るところを、ジョージは力を込めて留め、一方ミナは拳を握りしめて、向こうにいる潰れたファントムに対して怒っていた。まるでそれがいつもの日課のように。


「もう! ファントムったら! 私がいない間に勝手なことしてもう! ……何?サプライズにしたかったって!? ……ばかっ!!」


「馬鹿なのはあんただろがっ!」


 そこでいよいよ――、車に説教するミナに我慢ならなかったのか、椴がプレイボーイであることも忘れて踏出せば、いきなり彼女の胸倉を掴んだ。


「何自作自演してそうやって誤魔化そうしてんだい! 馬鹿!」


 見知らぬ男に、そこまで否定されたのはさすが勘に触ったのか、彼女も薄い眉を顰めて唇を尖らせる。


「自作自演なんかじゃありません! これが普通なのです!車だけじゃない! ありとあらゆる機械類は意志を持っているんです! ファントムはその中でも特に自分で動く力もあるというだけですよ!」


「何、車共々持ち主もワケ分かんないことしてるわけ!? んなことがあるワケないだろうが!」


「そう言ってるからいつまでも車の心が開かないのですよっ!」


 こうして、行き場のない討論が始まった。やがて一連の騒動に伴い、暗いセントラル・パークに人だかりが出来、騒動に駆けつけボランティア警備員の車や、Eトラックが広場の回りを囲っていく。その様子に感づき、ジョージはヨーナスの方を向いた。ヨーナスも抵抗しつつも頷き、腰元にあるものを取り出しながら近付いていく。


 一方、ミナはジョージに涙目で訴えた。


「ねえ、ジョージさんも聞こえていたのでしょう!?ファントムから声が聞こえたって! それはファントムそのものの言葉なんですよ! 言葉が聞こえた貴方なら、きっと私のこと分かって……!」


「はい、確保ー」


「えぇー!?」


 ジョージが振り上げるミナの細い手首を掴み、銀色に光る手錠をかけた。


「この女は頭おかしい奴として一時的俺らが保護するってことでー」


「ですね」


 ヨーナスは淡々と応じた。


「ちょ、やめて! 私は正常です! 本当に意志があるんです! 本当に喋れるんですよっ! ほら、今ファントムが私にさわるなって! きゃあっ!」


 ジョージは抵抗するミナを引きずって、ボランティア警備員の要人用警護車へ突っ込ませた。それに椴は胸を撫で下ろしつつ、片眉をあげる。


「おいおい猟犬くん。連れて行くのは分かるけどよ、何もそこまで乱暴にしなくても……」


「何呑気にほざいてンだ。お前も行くんだよ」


「えええっ!?」


 椴が肩を震わたとき、ヨーナスが宙に浮いた彼の手首に手錠をかけた。


「下らない好奇心にかまけて車を追いかけ、NY全体に多大な損害を加えたということで、逮捕」


「えええーっ!? あんたらも一緒にやってたじゃねえかよ!」


 と、椴の最もな反論を無視しながら、ヨーナスとジョージは二人がかりで椴を掴み連行した。しかし、当然だが納得のいない椴は仕切りに抵抗する。耐えかねたジョージは椴の手首を背中に回しボンネットに体を押し付けた。なおボンネットから離れようとする椴をジョージはのしかかり、体重をかけて押さえつける。それはさながらボンネットの上に後背位をしている態勢のようにも見えた。


 公の面前での突然なことに、赤くなる椴の耳に、ジョージは自分の唇をつける。


「後でこっちでうまく処理してやっから。今は形だけ逮捕されとけよなあ? 毒蛇」


 甘い呟きが椴の耳に息と共にふとかかり、脚から全身が電流にかかったように打ち震えた。この後、この震えがどこに繋がるかを椴は知っている。


「くっ……この俺が今日に限って二回もこんなになるなんて……あっ……」 


「じゃあ、これもついでにぶち込んどけなー」


「わぎゃあああ!」


 顔を赤く染めて大人しくなった椴を見て、ジョージは襟首を掴みと、投げ捨てるように警護車の中に入れた。シートからはみ出した椴の脚もかまわずドアを思い切り閉める。それを合図に、警護車がサイレンを鳴らして広場から走り去っていく。それを見て事件が解決したと思ったのか、何人か野次馬は帰っていった。


「……彼女の言ってたこと、本当なんですかね」


「んなわけねーだろ。どうせ、遠隔操作をごまかすためのホラに決まってらぁ。さあーってと、取りあえずこれで形はしっかりつけられたか」


 ジョージが手を組み、斜め下に腕を伸ばし骨の鳴る音をたてて屈伸する。一方後ろで、ヨーナスが顔を真っ赤に染めているのには気付かなかった。


「にしてもついてねえなあ。いきなり秘書が逮捕されまうとはな、なあ死神」


 その代わり、ジョージが横目でにやりと笑って見たのは、相変わらず無表情のままその一抹を見届けたアーサーだ。一方アーサーはジョージが皮肉気味に笑ったのを、


「別に」


 と、一言で返す。


「騒がしくて聞き取れなかったが、彼女に過失があったのなら、それは罰せられなければならないのは、当然だ」


「へえ、自分の秘書だってのに」


「仕事の方は大丈夫だ。第一秘書のダニエルが少しの間、何とかしてくれる」


「そういうことを言ったんじゃねえよ」


 アーサーはジョージの突っ込みにも動せず、厚いコートを靡かせ帰っていく。ジョージは背中を見ながら、以前の取り調べ室での光景を目に浮かべたが、アーサーは今度はそのときのように振り向くことはなく、一言だけを残していった。


「そうだ、彼女に言付けを頼む。『ダニエルも待ってる』と」


 それだけ言ってアーサーは広場から去って行った。コートは闇と同化し、そして闇はアーサーの身体ごと包み込みこんでいく。その去り際が如何にも死神のような神秘さを感じ、ヨーナスは目を見張った。


「ダニエル“も”って……、全然隠してねえって、お前」


 一方、何も見えない闇に向かって、ジョージはふてぶてしく呟いたのであった。


***


 手錠をかけられて警護車に乗る椴とミナは、黒壁にはめ殺しの防弾ガラス、そしてゲージによって、運転席とは隔離された席に並んで座っていた。


 先ほど沸騰した討論も不完全燃焼に終わり、互いに気まずい空気のまま、黙って座っている。その沈黙の合間、椴はミナの横顔を見た。目を伏せるミナの肌は、若さ故かキメ細かく綺麗である。小さな耳たぶには、黒いピアスが光り、細長く白い首筋から組み紐のよう絡まる長い髪、艶のある髪が車の振動で首筋に揺らいでいる。その姿は、実に色っぽいものであったが、


「如何せん顔が、なあ……」


 横顔だから尚更よく分かる、際立ちのない地味な様相、赤みのない薄い唇。それらの容姿を一言で表すなら「小学校にいたなぁこういうの」だと、椴は目を伏せながら笑った。すると、その様子を伺いながら、今度はミナが上目遣いに椴の顔を見上げ呟く。


「あの……さっきのことはともかくとして、色々すみませんでした……あの……賠償金や補償金はこちらの方でなんとかいたしますので……」


 椴は彼女の言葉に、口を大仰に開けた。


「マジで? 言っとくけど、とんでもない額になると思うよ?」


「ええ……でしょうけど、此方の方でなんとかなるとは……思います……はい……」


 成る程、と、椴は理解した。その年齢でファントムが持てるのなら、ただの金持ちではあるはずがないのである。「なんとかなる」と言いのけた彼女の背景の計り知れなさに、椴は悔しさと同時に羨望感に掻き立てられた。己を翻弄し欲情へと誘ったファントムの持ち主。象牙色のファントムが颯爽と走り去る姿と、彼女の姿が重なり、いつしか椴の目は評判通りの、女たらしの眼差しへ変わっていった。


「そうか……それは有り難いねえ」


 と、艶めいた声色で返し、椴は滑るように長い指をミナの肩にかける。それに戸惑い、退くミナの肩を掴んで固めた。


「意志があるかはともかく、君のファントムは実に良かったねえ。特に観音開きである事を隠すための、あのとってつけたようなドアハンドルサイドは、一体何の意味があるんだろ、と実に痺れたもんだ」


「気付いてたんですか!」


 それにミナは突然、嬉々として反応した。


「あれ、貴方には信じられないでしょうけど、ファントムがちょっとした悪戯でつけたんです。あれに騙されてはじき飛ばされたホテルのボーイは今も後を絶たないんですよ!」


 と、自分の腕の中でくすくすと笑うミナを見て、椴は眩暈がしそうになったが、それでも無理くりに笑う。


「ま、ファントムの観音開きも良いもんだが、それよりももっと……」


 それから静かに呟き、ミナの顎をそっと上げた。突然の椴の行為に彼女は細い瞳を開かせ、戸惑いつつもそれに従う。急に顔を近付けた椴はミナの口に息を吹きかけるように艶っぽい声で、こう言った。


「あんたの股はいつ観音開きしてくれるかな、なんてな。はははは」


 椴の頬に鈍痛が奔るのは、その後すぐのことであった。

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