五、お約束の、あの場所へ
数多の悲鳴を引き連れて、ファントムが通路を突っ切った先は、ミッドタウンの大街道、5番街であった。
高級ブランドのブティックに両側から囲まれた街は、クリスマスネオンにより一層煌びやかな黄金色に輝いている。
その一帯の真ん中を陣取る象牙色のファントムは、その道を優雅に走っていた。まるで何事もなかったかのように走る姿は目も肥え、懐も肥えた金持ちたちの感嘆の息を促す。NYPDの書式が抉られた、激しいカー・チェイスの傷には全く気付かれていない。それほど、ファントムの醸し出す、ブティックを背景にした荘厳な雰囲気は、人々の目からその傷をも消し去っていたのだ。
その間際、左手の通路と交差したが、そこは歩行者用の幅でしかなかった。これならもう、車が追い駆けることもないと、ファントムが悠々とそこを通り過ぎたとき――、突然、真横のGUCCIブティックのガラスが劈く音を立てて割れたかと思えば、その中からブランド服に身を包んだマネキンを踏み潰し、漆黒のHSVが突進してきてきたのである。その中には目を凝らす二人の男と、まるでサーフィンのように身を翻し、その車の屋根に乗る美青年とが叫び声をあげた。
「目の前にきたああああああ!」
「そのままぶちこめえええええ!」
避ける間もなくファントムは、その体当たりをもろにくらった。鉄と鉄のぶつかる音と共に、勢い故か、二倍も重量があるはずのファントムは向かいのブティックにまで引きずられ、挟まれてしまう。
そこから逃げ出そうとファントムはアクセルをかけるが、浮いてしまった左前輪のタイヤは空しく音をたてて、回転するだけで動くことができない。
椴がきひひと笑いながら抵抗するファントムを押さえつける一方、ジョージは両手でギルデッドを構え、一寸の躊躇なく弾をぶちこんだ。そこまで責められた高級車の末路に、いったいあの高級車が何をしたんだと、多くの人々が悲壮に叫ぶ。
やがて、ギルデッドの砲口が鳴り終わったと同時にファントムが動きをやめ、先程までのタイヤの音がぴたりと止まる。遠くでヴァイオリンの音色が聞こえた。
「終わったか……」
意外とあっけなく終わったカーチェイスに、椴が名残惜しそうにステアリングを掴んだ手を離した。
「はあああ~……」
ヨーナスも緊迫した気持ちが一気に放たれていくのを感じ、ずりずりと背もたれに寄りかかる。
「しっかし、椴さんよくやりましたねえ……。あの通路から4ブロック先のブティッ列を一直線に突き抜けるなんて……」
あのとき、HSVが通路に突進せず左へ曲がってくれたときの、涙を流した体感を覚えつつ、ヨーナスは椴を見る。それに椴は得意気に鼻をならした。
「ふふん。前に付き合ってた男が、あのブティックコーナーのデザイナーでさ、間と間をガラス張りにして開放感がどうの、現代デザイン性がどうのとほざいてたのを思い出して、ガラスを突き破って突き進んだ方が野次馬が多い小道を抜けるより早いなと思ってね~」
ヨーナスは芸術を知らぬ車狂いに、台無しにされたデザイナーの悲哀の顔を思い浮かべた。
「おい、んなことよりさっさとこれどかせや。ドアが開きゃしねえよ」
「猟犬くん!」
ジョージが目の前のフロントウィンドウに、先の尖った靴底をべたりとつけている。幾つものガラスを身一つで突きぬけたためか、3人の中では彼が一番痛手を追っていた。ボーイ服は所々裂け素肌をのぞかせ、綺麗な顔にも赤い筋が斜めに通っている。そして明らかに見える、眉を顰めた不機嫌そうな顔中にいた2人は冷や汗をかきながら、大人しく指示に従った。
「はいはいはいっ! 今からやりますからね!」
HSVが後ずさってフャントムから離れ、ファントムの銃弾に晒されたドアがその拍子で軋みの音を立てて傾きながら、ドシャンと鉄の重い音とも同時に、前輪を地面につけた。
「さあーて、と。とっとと、NYPDのファントムとやらの、ドライバーの顔を拝みにいこうじゃねえか? どんなツラしやがって……」
と、ジョージがドカドカと音を立ててHSVのボディを歩き、ファントムのドアノブに手をかけようとした。が、
『ちょっと待って――、今、ここで捕まるワケにはいかないのよ』
と、こもった誰かの声が聞こえたと思った途端、ドアノブがジョージの手からするりと通り過ぎた。
「え」
「は」
「なああああああ!?」
中二人の叫びにジョージがはっと横を向けば、目の前にいたファントムが今は尻を向けている。
「「「まだ動けるのかあああああ!?」」」
間を置いて男3人の雄叫びが響いた。
「ちっ! また振り出しに戻りやがったかっ!」
「もー、やだっ!」
ジョージは振り返っては大股でルーフの上に飛び乗り、椴はアクセルを踏んだ。興味本位で近づくイエローキャブを一つ二つと突き飛ばすファントムを、またHSVも粉塵をあげながら後を追う。
「次はねえぞあああ!」
「させるかあああああ!」
ヨーナスはファントムのあまりのしつこさに苛立ちで叫んだが、一方椴はただ感情的に叫んでいたのではなかった。
「やべぇ。そろそろマジでやばくなってきたかも」
今だ隆起するソレとは別に、不安定に揺れるようになった愛車の状態を感じ取っていたのである。
「そもそもコイツ、点検寸前だったんだ。続けてやってきたハーフスピンに、タイヤも擦り切れてもたないのかもしれねぇ」
「え、じゃぁもしこのまま追い続けてたら……!」
「あぁ、さっきのようには上手く避けれねえせ、どこかの車にぶつかって今度こそお陀仏ってやつだね。けれど――、」
と、椴は一つ瞬きしながらファントムを見た。
「やっこさんもそれは同じかもしんねぇがな」
数メートル先に一直線に逃げるファントムは、外れかけのドアを引きずっていた。地面を擦るドアは火花を散らしファントムのスピードに摩擦をかけている。
「あれじゃぁ、外れるのも時間の問題だ。その後、真横について猟犬君が撃ってくれれば間違いなくこっちの勝ちだ。お互い、これが最後の勝負だよ」
「そうするにはファントムのスピードがあまりにも早くありませんか? 全然追い付けてないじゃないですか!」
「馬鹿いえ! GTのHSVがファントムに負けるかよ! ただ追い付けないのは、人と車が回りに多いというだけだ! おっと!」
ファントムに飛ばされたイエローキャブを、HSVは高い金切り声をあけで避ける。年末に賑わう5番街。それをよけながら追いかけるのは至難の技だ。
「もう……つくづく、どこからツッコんでいけばいいか、分からねよ……・いや、突っ込むけどよ……!」
椴は悔しさに歯を食いしばった。今彼を突き動かしているのは、ファントムに対する抑えようのない、下劣かつ、焦がれるような想いだけであった。
「人がいなければ、良いんですよね」
すると、椴の耳にヨーナスの凛とした声が響いた。己と対比し、ヨーナスの言葉に妙な落ち着きがあることを感じ取り、目を開く。
「あ、ああ……! でもこんなNYのど真ん中で人がいないところなんて」
「ありますよ」
ヨーナスは素早く答えた。
「ただし勿論、不法侵入ですけど」
そう言っている内にも車は走り続け、5番街のネオンは線となってヨーナスたちを追いかける。このままでは、もうすぐ突き当たりにさしかかってしまうところだ。
それにいよいよ後には引けないと悟ったのか、ヨーナスの恐怖の目つきが一筋光った。太腿からグロック26を取り出し、突風が吹きつけようと構わず、HSVのウィンドウを開く。
「お、君もファントムを狙うのかい」
「まさか、ジョージさんの45ACPであんなんなら、私の9ミリでどうこう出来るものじゃぁありませんよ。ですが……」
ヨーナスは割れたメガネの奥から、ストリートの向こうに見える突き当りを睨んだ。右に曲がるか、左に曲がるか――、それがこの闘いの結末の別れ道だと察しながら。
「椴さん! 少しでも早くファントムがどちらに曲がるか分かりますか!?」
「あ!? あのスピードとFRってことを考えたら、それりゃにゃ――、」
「じゃあ、言ってください! 出来る限り! 早く!」
ヨーナスはウィンドウのへりに胸を乗せて身を乗り出し、椴は前屈みにステアリングを掴んだ。何をするかは知らないが今、その指示に従うべきだと、椴は意気込む。
そして、ファントムの後輪に目を凝られば、ファントムの右後輪がかすかに動きだした。
「左だ!」
「了解ィ!」
ヨーナスが左通路に向かって銃を構えたときには、すでに両車は突き当たりの道路に出ていた。タイヤが擦り切れ、思うように曲がらない白と黒の車は、歪んだ弧を描くようにドリフトする。その合間にヨーナスは両手で銃をかまえ、ファントムの遥か向こうにあるものを撃ったのだ。
「あったれえええええ!!」
立て続けに煙を吐く漆黒の銃と共に、ジョージも叫ぶ。
「下手くそおおおお!」
腕を振り回して銃口を向き直し、ジョージも加勢する。ギルデッドの弾の方が当たって地面に落ちてきたのは、大量の林檎――、果物店のテラスに大量に置かれていた箱詰めの林檎がゴロゴロとブロックごと落ちてきたのだ。
「っしゃあ!」
猛スピードで走る車を前に地面一杯に敷き詰められた林檎が迫る。それに足をかられてしまったら、お互い勝ち目はない。しかしファントムの左はブティック、前には林檎、後ろにはHSV-010、そうして残るァントムの唯一の逃げといえば――、
「右、しかないですよね!」
にやっと笑うヨーナスの囁きと同時に、ファントムがハーフスピンし、バックしたまま右に突っ込んだのある。
「よっしゃあ!椴さん! 右に行ってください!あれで追いつけつけたら私たちの勝ちですよ!」
「人がいないトコってお前え、セントラル・パークかよおおおおおお!」
椴の叫び声と共に、ファントムの後を追い林檎から逃げるようにHSVもセントラル・パークの柵に突っ込んだ。その反動にかまけてヨーナスも中に戻る。芝と土になって小刻みに震えるタイヤが車内に、そのHSVの限界を知らせていた。
「ばっかやろうが!HSVにパーク走らせるアホがどこにいる!? 車高を考えろ、車高を!」
揺れる体を震わせながら、椴はステアリングを回しながらヨーナスへ怒声をまき散らす。
「え、だってパークの中だったらこの時間だし、もう人がいないと思って」
と、その瞬間、電暗いセントラル・パークの中から、HSVのフロントランプは、恐怖に慄き、立ち止まる人影を捉えた。
「誰が人がいないってえええええ!?」
「ああっ、あああああ!!ちょっとどいてえええ!」
避けるには、気付く時が遅すぎた。闇に紛れたHSVが愕然とする男に向かって突進し、男は逃げる術も無く、後退りすることしか出来ない。しかしHSVがぶつかる寸前に、男は後ろの谷に仰向けに転げ落ちる。そうして、仰向けになりながら真上を走るHSVのタイヤに、男の長い鼻の先が擦れるだけにとどまったのであった。
「ぎゃあああああ!」
危機一髪に安堵する間もなく、いきなり坂から飛び降ったことで、潰されそうな衝撃にヨーナスは歯を食いしばった。それでもHSVは、跳ねながらもなんとか道なき道を走り続ける。。
「横についたぞー!」
ジョージの声によって、痛みに打ちひしがれていた二人は一斉に右を向いた。ファントムが交差する遊歩道を陣取って横切っていた。その両側には樹林が並び、横にそれることが出来ない。向こうも夜道でそれに気付かなかったようだ。
遊歩道を抜けるまでの間が、決着をつける所。
HSVも右に曲がって追い駆けて、樹林を挟んで横につくジョージはがら空きになったフロントドアに向かって弾を命中させるも、相変わらずファントムは走ることを止めない。
「段差があるから丁度よく当たりゃしねえんだ……! おい、椴! 段差を上がれ!」
「はあ!? 無理だよ! 奇跡的に上がれたとしても木が邪魔して、道にはいけねえ!」
「片輪だけでも上がれればいい! そうじゃなきゃ逃げられっぞ!」
逃げられる。その言葉に椴は瞬時に「それは嫌だ」と思った。
何度何度も攻めても逃げ回るファントム。そもそも客を最高級のもてなしで迎える役目のファントムに、GTがカーチェイスで負けるとは、車狂いとしてこれほどの恥はないと思った。そんなプライドと何よりも欲情と重なり合って、椴を遂に行動へと移らせる。
「ああああー! もう二度とやらねぇぞ! これで絶対終わらせよろな!」
「ああ!」
ジョージの自信ある返事を信じて、椴は一気にステアリングを左へ回した。
「いっけえええええええ!」
すり切れたタイヤがへりにぶつかり、甲高い音が森に響く。その音を続けながら、ライトの光で微かに見えた段差の小さい所に、椴は叫び声をあげながら、タイヤを駆け上がらせた。前輪がはずれる一歩手前で辛うじて、HSVは片方だけ段差の上に乗り、左の後輪もそれに続いたのである。
「これがのウィッシュボーンの底力だあああああ!!」
段差が次第に大きくなり、このままHSVが横倒れになりそうなのを、寄りかかるヨーナスを支えるという窮屈な態勢で椴は耐える。耐えながら、地面を引きずり垂れ下がるジョージの両足に向かい、フロントドアウィンドウを拳で思い切り叩いた。
「今しかないぞ!早く撃て!早く!ハリー!」
ジョージはつま先を下部のサッシにつけ、ルーフに駆け登った。段差を半分上がることでファントムとの距離が急に縮まり、運転席からシーツまでがうっすらと見えた。向かい来る風を受けつつ、ジョージはふと笑い、ギルデッドを運転席に向かって突きつける。
「とっとと、お縄につきやがれえええええ!!」
と、そのとき――、過った街灯の光で、運転席の全貌がオレンジ色に明らかになった。それを見た瞬間、ジョージはある衝撃な事実をこの時初めて知った。
「……嘘だろ?」
途端、HSVが大きく揺れて段差から降りた。ファントムも遊歩道を走り抜け、両車とも電灯の明るい広場に並んで走る。ジョージがふとした気配に横を見れば、そこにそびえ立つはメトロポリタン美術館。
「「「うあああああああああああああああああ!!」」」
両車はついに並んで、けたたましい音と共にレンガの壁に激突した。
根井 舞榴
〈登場人物紹介〉
〈椴とどまつ 敬之たかゆき〉
…日本人。28歳。身長176cm。ホンダディラーNY支部副主任を勤める若き営業マン。かつ、バイセクリュアルの「プレイボーイ」と知られている。仇名は「毒蛇」。車狂いとしても知られ、そっちのテクニックの実力もピカ一。「ファントム」の持ち主、ミナに惹かれつつあるも、彼女の言う「車の意思」は断固として認めていない。
〈강전・미나(カンジョン・ミナ、漢字名記 岡田美那)〉
…韓国人。26歳。身長156cm。アーサー・ベリャーエフの第二秘書かつ、第一秘書ダニエルの彼女。仇名は存在感がないことと彼女の愛車の名前から「ファントム」。車好きの大富豪の養父の影響で車に詳しい。
ファントムの持ち主かつ、あやゆる車の意思をくみ取ることができると自負している。そこの所で同じ車好きの敬之とは決定的な壁がある。
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