三、HSV‐010vsロールスロイスファントム

 ロック・フェア・センターは、マンハッタンの西北にある、ミッドタウンに位置する巨大ビル群の総称である。


 ミッドタウンの中でも、ブランド店が揃うストリートとして有名な5番街側に面しているのは、ロック・フェア・センターの中心部である70階建てのG.Eビル。


 そこから向かって奥の左手にイギリス館、右手にフランス館と、情緒ある建物が対面し、その間にはチャネル・ガーデンという広い通路が通っている。その突き当り、G.Eビルの前には、少年の黄金像と巨大なツリーが、間近にせまるクリスマスのイルミネーションで並び輝いていた。


 ヨーナスはメガネ越しに、ツリーを覆う赤と金の電飾に感嘆の白息をもらしながら、ビルに背を付き待ち伏せをしているところであった。


 NYは寒かろうと、オーストラリアの祖母からもらった手編みのタートルネックと、マフラーに顔を埋めながら、ヨーナスはぶるりと寒さに大きく身を震わせる。


 曇天に浮かぶ灰色の雲は、瞬くツリーをより際立たせ、チャネル・ガーデンの白灯に輝く天使のネオンを映し出す。もう遅い時間かとヨーナスは錯覚するが、時計を見るとまだ午後4時半であることに驚いていた。


 そう、それは丁度、ジョージが昨日ここをパトロールした時間帯。初日だからどうせ外れるだろうが、とりあえず30分はここで見回っていよう、とヨーナスは決めていたのだった。


 ツリーの下では、クリスマス用に特別に作られたリンク場で、大勢の子どもたちが厚着で動きにくそうながらもスケートを滑っている。それを見てふと顔を綻ばせつつ、かじかんだ手を揉みながらヨーナスは待っていた。


 チャネル・ガーデンには5番街でショッピングをしてきた大勢の人、そして多くの車が歩行速度で通っていく。ヨーナスは子供たちの様子を眺めながらも、それをも見逃さず確認していた。


 しかし、今のところアレクサンドルに教わった――、クラシックでエレガントな雰囲気を漂わすという、「ファントム」という名の車を見かけることはない。


 見覚えのない車にいちいち反応している内、「見たらすぐわかる」という言葉だけで探すのに今更不安を覚え始めたのだった。


「私からすれば車なんて、ただの移動手段としか見られなかったしな……」


 そんな自分が車を待ち伏せするなんて良いのだろうかと思っていた矢先、ヨーナスの横、G.Eビルの地下駐車場から出てくる黒い車にだけは、ふと既視感を覚えた。スポーツカーであると分かる、流線に沿った車体、長いリアウィング、細長のライトがイルミネーションと同じように光り、ビルの駐車場からこちらへ近づいてくる。


「な、なんだろうあの車……ファントムじゃないのは確かですが……」


 滑らかにツリーを周るその車は、漆黒のボディに赤と金の宝石をちりばめていた。その艶やかさに視線が釘付けになっている中で、やがて車はゆっくりと、ヨーナスの目の前にそのボディを突きつける。遠目からでは見えなかった黒いボンネットには、赤いリンゴを咥えたガラガラヘビのノーズアートがある。それに目を凝らしながらゆっくりと、ヨーナスが運転席に顔を向けると、


「あ!?椴さん……!?」


 あの色男、椴敬之が、出会った時と同じように笑い、節々とした指をステアリングホイールに絡ませていたのだった。


***


「まさかメールで、本当に来るとは思わなかった……」


 ヨーナスは今、寒いだろと誘われ、彼の助手席に座っている。上質なスーツを身にまとう運転席の彼と対比して、ドアミラー越しに見える自分の姿はジーンズに灰のタートルネックという何とも貧層な姿であることに気づいた。鏡のような光沢を放つ車のボディにさすがのヨーナスも、これが普通車でないことを察して萎縮する。



「なあに、あの正体不明なNYPDのファントムに会えるためだったら、重要な契約も、女主任と一夜ベッドを共にして短縮するくらい、おやすいごようさ」


 ヨーナスの心情を介せず、会話の始めからそんな調子の男に、ヨーナスは暖房の効く車内でも汗が引いていく。


「噂通りなんですね……」


「ん? 聞いているのか? 俺のことは」


「ええ、後からそれはもう、色々聞きましたよ」



 眼鏡を整えながら、ヨーナスは呆れた気味に答えた。


「ミスタートドマツ。僅か齢28にて、日本ホンダ自動車ディラー、NY支部の副主任を勤める若き営業マン。さることながら同僚、上司、契約企業の人間男女問わず、その眼光の強い瞳と艶やかなボイスでもって誘惑、関係を結ぶことでより、そのつながりを強化する一方、色街も練り歩くという無類のプレイボーイ。またの名をNYの林檎を食べ尽くす、毒蛇としても知られている」


 と、ヨーナスは締めた。


「ふうん」


 一方、当の本人は説明通りの麗しい声で応え、ステアリングにひじを付きながら、頬に手を添え説明を聞いている。しかし、やがて腕を広げ、やれやれと言ったような表情で首を振る。目の下に刻まれた一筋の皺が均等に上下した。


「ま、大体合っているけどさー。俺が随一の車狂いだって事はなーんにも書かれていないのねー」


「それは言わなくても分かるからじゃないんですか。こんな如何にも高そうな車に乗って、謎のファントムに会いに行こうなんて、好きじゃなかったら出来ることじゃありませんしね」


「言ってくれるじゃないの!」


 先程までの妖艶な視線が一変して様変わりした。ただ純粋に好きなことを語る少年のような茶色の瞳に、ヨーナスの心が跳ねた。ああ、大抵の女性はこれで落ちるのだな、と。


「だってね!あのファントム様が、マザーラインを引いてワケもなく街を練り歩いているんだせ!? そりゃぁ、理由が知りたくて知りたくて、会いにいきたくなるだろうが!」


「あ、ワケはあるんですよ」


「うへえ!? どういうことなのお!?」


 突然、飄々と諭されたことに目を点にした椴へ、「NYPDだって何も調べていないわけじゃないんですから」と、眼鏡をかけ直してヨーナスは答える。


「調べてみたら、もう四十年前になりますけど、ファントムのパトカーって実際に作られたことあるんですってよ」


「はあ!? マジで!? なんのために!?」


「寄贈品ですって」


「寄贈品ん!?」


 答えを言ってもますます首を傾げる椴に、ヨーナスはため息をつきながら続けた。


「もう今は昔のことですが、当時はNYPDにお世話になったお金持ちや要人が、お礼にということで、わざわざ高級車のパトカーを寄贈したことがあったらしいんでよ。それに当時の警官たちも喜んで、使っていた背景があったんですってよ」


「へえー! おもしれえー! で、その中でファントムが?」


「ええ。さすがの寄贈者も、道楽的な意味合いで寄贈したらしいのですが、いくら何でもファントムはないだろう、と、いう一般市民の反発を受けて、結局そのファントムのパトカーは売却されてしまったそうです。それから、パトカー寄贈の習慣もなくなったということらしいですよ」


「ほ、ほえええー……」


 と、呆然とする椴であったが、実は彼の故郷――、日本にもその例があったことを知るには至れなかった。


「で、その、売却されたファントムの今の所有者こそが、道楽のために起こしている騒ぎなんだろうと、私たちは予想しています。今、その所有者の足取りは辿ってますが時間がかかり、まだ分かってはいないようです。しかしまあ、最後の最後までお遊びに使われるなんて、ファントムも可哀そうですよねえ……」


 そうして、脇目も振らずフロントガラスから監視を続けようとするヨーナスを余所に、椴は彼の肩を叩き意気揚々として言った。


「そうだなあ。ま、アンタらオフィサーにとっちゃぁ、車なんて所詮弾除けくらいにしちゃ思ってねーだろうけどな。ファントムって車は特別だぜ。ま、この車、ホンダの努力の結晶、HSV-010も特別っちゃあ、特別だけど」


 と、愛おしそうに漆黒の車のラインシャフトを撫でながら、フロントを向いたかと思うと、厚い懐から葉巻を取り出しその白い犬歯にひっかけ火をつけた。


「ファントムが特別ですって? どんな風に?」


 今度は全体像が掴めず焦りつつあるヨーナスに、椴はそこで、まるで女を語るような物言いでその魅力を歌い上げた。


「ファントムを知らないたあ、男としてもったいねぇなあ! ロールスロイスの伝統を受け継いだ、四角く白い変わり映えのないボディに、空気抵抗何それ美味しいのとギリシャパルテノン神殿を象った銀燭のラジエーター、一般道路なんて通るつもりは更々ないわと、言わんばかりの無駄に長い車幅……乗りこなすにゃぁ少々手間のかかる、プライドの高いお嬢さんのような車でなあ……」


「あれですか」


「ああっ! あれだぁっ!?」


 すると、猛々しく叫ぶ声で揺れる黒い車のことなど気にも止めず、象牙色の大型リムジン―、ロールスロイス「ファントム」は今、その勇姿を見せつけるがの如く悠々と二人の前に向かっていたのである。


 椴の車とは逆に、白い光を放つボディに彩られたネオンが反射する。それはかつてヨーナスが見た、象牙彫刻に宝石を散りばめた、ロココ朝のシンギングバードを彷彿とさせた。立体的なパルテノン神殿をもじったラジエーターは、椴の説明通り銀燭色に輝き、頂点の女神像の持つ金の玉も光る。


 その芸術品は、クリスマスツリーをもボケさせる程の存在感を露わにし、タイヤを優美に滑らせていた。白いボディと映えるように金縁に囲まれたウィンドウに、唖然とする二人の顔を捉えた。


 それに、ヨーナスはただ何も言えず、首だけ動かしてファントムの姿を正面から右へと追うことしか出来なかった。が、ファントムのリアウィンドウが見えるまでのほんの一瞬、ドアパネルに描かれたNYPDの書式に目を覚ます。


「あれだ…! やった…! あれが噂の、ファントムのパトカーだ!」


「やったな! いやあ、良い車じゃねえの…!」


 椴もヨーナスと同じく身を乗り出しながら歓喜の声をあげる。と、同時にヨーナスは我ながらよくあの説明で見つけられたものだとも、思っていた。


「で、でもどうしましょうこのままじゃ、行ってしまう……!」


「ば……っばっか! 職質に決まってんだろ! ディンゴ君!」


 椴のかけ声にヨーナスは再び目を覚ます。ファントムに魔力に捕らわれていたのだろうか。と、らしくないことを思いつつ、ヨーナスは左のドアを開け、車体の低い入り口から窮屈そうに外に出た。そしてチャネル・ガーデンの向こうの通路へと抜けようとするファントムに駆け寄ろうしたが――、


「あ、れ……?」


 すると、ヨーナスより先にファントム近付いていく人物が出てきたのだ。それは、ヨーナスたちが見張っていたG.Eビルの横にあるホテルで、客の荷物の出し入れをしていたボーイだ。鶯谷色の分厚い生地に金のラインが入ったボーイ服は、そのホテルの品行さを表している。


「もしや…ファントムの主は、あのホテルに泊まろうとしている……?」


 と、思った矢先、ボーイは大理石のホテル入り口の階段から大股で近付きながら徐に懐から何かを取り出した。それはこの黄金色に囲むチャネル・ガーデンに存在するに相応しい、同じ色の銃――、


「え、ジョ、ジョージさん!?」


「オラァッ! NYPDのファントム! これでシメェだ!」


 彼の甲高い声に止まったファントムに対し、ボーイに扮したジョージは、ファントムの横につき、フロントドアウィンドウに黄金銃二丁を突き付けた。それは、車中にいる犯人を確保するときの、典型的な構えだ。


「ジョージさん、あなた何を……!」


「おう、ヨーナスそこにいたかあ! お前はさっさと後ろのドアを構えろ!」


「あ、はい……!」


 突っ込む前に指示をされて、ヨーナスは慌てて走り出す。そして、非番使用のグロック26を取り出し構えようとしたのだったが――、突然、鈍い音がしたがと思うと、ジョージがファントムのドアによってはじき出され、転がったのである。


「ぐあ……っ!?」


「ジョージさん!?」


 そして、突然の展開に駆け寄ろうとするヨーナスから逃げるように、ファントムは急に走り抜ける。


「ま、待てええええ!」


「うがあああああ!逃げやがった!くそったれが!リアウィンドウの左側から開く車とかありかよ!」


 転がったままギルデットをすかざす拾い上げ、ジョージは逃げるファントムを睨む。起き上がろうとするジョージ、駆け寄りそれを助けるヨーナス。すると2人のすぐ横で椴の車、HSV-010がキュッと音を立てて止まった。


「猟犬くーん、ファントムのドアは普通のと違って、観音開きなんだよー? ま、乗りなよ。このまま逃されんのも悔しいモンだろ?」


 と、にやけながら眉を片方あげてドアを開く椴の顔に向かって、ジョージはヨーナスの後頭部を突きつけた。


「いったああ! ジョージさん! 何するんですか!」


「うるせえ! ぐたぐたぬかさねぇで、さっさと走れ!」


 ジョージの怒声と共に、空の天蓋に放たれたギルデットの弾丸は電灯のブラウン管を割った。突然の銃声におののくチャネル・ガーデンの歩行者が一気に脇道にそれる。


「ヒャッハァ! 面白くなってきたァ!」


 と、椴は筋の曲がった鼻を抑えながら、ジョージの銃声を合図かのごとく、アクセルを思い切り踏んだ。車が馬のようなうめき声をあげ、ファントムに続けて走り出す。


「うぎゃあああああ! 待ってえええ!」


 それと共に、転がり落ちそうになって足を引きずるヨーナスは、必死になって助手席に這い上がる。一方、ジョージは大股でその後を追うと、片手で何かを取り出しながら、勢い高く飛び上がり、走り出す車のルーフ(屋根)にへばりつく。


「おおっと、大丈夫かい。振り落とされないかな猟犬くん」


 衝撃で揺れる車内の中で椴は心配する。も、ヨーナスは助手席のウィンドウから上を見上げ、その様子を確認した。


「くっ……ああ、大丈夫です。吸盤付きの取っ手道具つけてますね。どうせESUからくすねてきたんでしょうねえ。もう、また勝手に……ってぎゃああああ!」


 と、言い終わらない内に、ヨーナスは急ブレーキと共に、バランスを崩し椴に寄りかかった。車が半円を描くように左折し、ストリートを抜けた先は、車道でもまた人通りの多い道に至ったのだ。


 こうして、NYの街を駆け巡る、白と黒のカーチェイスが始まった。


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