第19話 亀山の決意。
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「熊崎くん。私、もう一度、牛久先生のところに行って話してくるわ」
「分かった。亀くんが起きたら連絡するね」
――空虚な脳内に、凛々しい声と癒やしの声が聞こえ届く。
ええっと、これは兎川と熊崎……だろうか。
静かに目を開けてみると、まるで知らない真っ白な天井が広がっていた。どこだ、ここ。ベッドがあるから、保健室か医務室かだと思うんだが、それにしては解放感があるような……。
窓ガラスからはオレンジ色の陽が射しているため、もう既に夕方だと気付くのに時間は掛からなかった。昼休み後すぐの試合だったから、えっと、何時間だ? だめだ、頭が回らない。
身体は思ったよりもずっと軽い気がするが、頭はまだぼーっとしていた。こりゃもう、完全なる寝起きである。
「さすがに――ぇようかしら」
「それなら、ぼくは向こうに行ってるね」
「いいえ、魔法でやるから問題ないわ。すぐに終わるもの。……亀山くん以外には見えないのだし……大丈夫よ」
兎川が何をするつもりかよく聞こえず、気になった俺は二人のほうへと目を向けてみる。
――と。その視界に入るはスポーツタイプらしき、シンプルなデザインの下着。こうして見ると、それなりなように思えてくる。何がとは言わないが、凹凸ラインが浮かんで見えているのだ。そして、控えめな色合いのショーツ。パンティとは、心の内でも言い辛い単語だなぁ。
つか……もしや、今のって、お着替えですか? 変身魔法での着衣チェンジ? 大会Tシャツから制服へってことです?
一瞬だけしか見えなかったが、衝撃によってスローモーションかなと思うくらいに、目の奥に焼き付けられてしまうもので。今すぐに記憶を焼き増ししたら、さぞ鮮明なものが出来上がるだろう。バッチリくっきり目撃してしまったじゃん、俺。いや、不可抗力だ不可抗力。
「――っ、亀山くん?」
まずい。つい、もぞもぞっと布団の中で動いてしまった。
兎川の声が近づいてくる。俺は咄嗟に、声の向かう先とは逆方向に顔の向きを変えた。咄嗟とは言ったが、実際には首がギギギと音を立てそうな具合だった気がする。首、硬いな。
「ねぇ、見たかしら?」
氷点下の声色が降り注ぐ。布団の中にいるのに、寒気がして鳥肌まで立ってきた。
「起きてるんでしょう?」
「…………」
シカトを貫き、沈みかけた夕日が差し込む窓の外を眺める。とっても綺麗で温かな夕焼け空だなー。あぁ、君は今日も沈んで行ってしまうのか……。
「んーと……おはよう? 亀くん?」
しみじみとしていた目前に、きょとんとした熊崎の顔がひょっこり現れる。破壊力高いぞ。
「……ぉ、ぅ……」
俺が反応を見せると、熊崎はパァァッと明るい笑みを浮かべた。辺りがきらきらで彩られるほどに、純度の高い笑顔だ。はい、ずるい。茶色の大会Tシャツもよく似合っているよ。
「わぁっ……よかったぁ……亀くんっ!」
「ちょ、熊さ……き……。ここはどこだ……?」
「第三体育館の医務室だよ?」
「おう……ありがとう……」
負けを認めた俺の一方で、兎川は勝ち誇ったように「ふふん」と胸を張っていた。
卑怯だぞ兎川! 熊崎を使って仕掛けてくるとは、オタク、随分と俺のことを分かってますねぇ……じゃなくて、なんで知ってんだよ。兎川の前で熊崎と絡んだことあったっけか?
「で、見たのよね?」
「いえ、見てマセン」
「ダウト。見たわね?」
「むっ……、……ま、まぁ、たかが下着だろ。水着と変わらんって」
「水着はビキニが全てではないわ。というか、やっぱり見たのね?」
「スポーツタイプとは抜かりな、ではなく。あれは不可抗力だろうが!?」
「認めたわね。上等よ。今こそぶっ飛ばすときだわ」
「だから! 鳴らねえ指を鳴らそうとすんなって!」
なにこの威圧感。冷気と殺気が入り混じって物騒すぎることこの上ない。こいつ、真剣にぶっ飛ばす気だ。待って、一応怪我人だから待って! 頭とか腕とかに包帯巻いてるから!
そんな俺と兎川のやりとりを見ながら、熊崎だけは心から楽しそうに笑っていた。いい笑みだけどさ、コントじゃないのよ?
「ふふっ、元気そうで安心した〜。じゃあ、ぼく、先生を呼んでくるね!」
そう言い残して、とたとたと部屋から出て行ってしまう。
ちょいちょい。この空気で二人きりにしちゃうの? お待ちんさい、熊崎ちゃん――と手を伸ばすも遅し。
まじかぁー、と絶望しかけた俺はひとまず身構えておく。
しかし、兎川はひっそりとベッドの縁に腰を下ろした。ベッドがわずかに軋み、その音だけが静かな室内に広がっていく。
「――……」
包帯が巻かれた俺の頭に、色白で綺麗な細長い指がそっと伸ばしかけられる。だが、それは途端に引っ込められて、彼女はとんと俯いてしまった。なんだよ、このむずがゆさは。
「……無事でよかった……」
非常に小さな呟きを残し、兎川が完全に口をつぐんでしまう。取り残された俺は、なんと声をかけていいのか余計に分からなくなった。
少女漫画に出て来るようなイケメン王子様なら、ここでヒロインを抱きしめてトキメキが始まるのだろうが、生憎と亀山月人はそんなキャラじゃない。したがって、少々もどかしくはあるものの、ベッドの中で彼女の動く時を待つことしか選択肢はなかった。
時刻は午後六時を回ろうというところだ。針のないデジタル時計を見ながら「回る」と言うのもおかしな話だなと思いつつ、おもしろくもない秒数を見つめてともに数え待つ。
しばらくして、潤んだ瞳を揺らした兎川が俺を真っ直ぐに見つめてきた。膝の上で両手を重ね、彼女にしてはゆっくりと言葉を紡いでいく。
「ごめんなさい。私のせいで、こんなことになってしまって。試合も結局、負けてしまったのだし……ごめんなさい」
正直言ってビックリした。まつげ長いなぁ、とかそんな薄っぺらい感想さえも浮かばないくらいに驚いた。いや、浮かんじゃってはいるけど。思ったよりも動揺してるな、俺。
あれだけ凛々しく振る舞っていた彼女がこんなにも悲しげな顔をするなんて、想像したことがなかった。後悔も謝意も、たぶん安堵も、多くを煮詰めすぎて、泣きそうじゃないか。
「いや、兎川ひとりのせいじゃない。これは俺のせいでもある。おまえに、兎川だけに任せすぎたんだ」
「任せすぎたなんて、そんなことないわ。だって、私には余裕があるから当然で――」
「いや、それはちがう」
言葉を遮って、俺は彼女に手を伸ばす。だが布団の中からでは、格好つかないくらいに届きそうもなかったので、気づかれないうちに納めることとした。
「……要は、その気持ちが原因だろ。確かに、俺にとっては新しい世界のようなもんで、正直言えば自分のことでいっぱいいっぱいだったかもしれない。けど、別に兎川だって余裕ばかりじゃなかったはずだ。今日なんかいい例だと思うけどな?」
作戦を訊いても「いつも通りで結構」と返すばかりだった。
「気づいてんだろ、俺と猪子の相性がよくなかったこと」
「ええ……。けれど、そもそも私と狸原さんだって、あまり相性はよくなかった。だから、魔法に頼る狸原さんの相手は亀山くんに、それから……」
「対応力のある兎川が猪子の相手をすべきだった、ってか?」
「その通り。こんなこと……よく考えれば、すぐにでも分かったはずなのに」
だが、それを言ったら俺も同じだ。
スッキリしないままに「なんとかしてくれるだろう」と放っておいた。ペアとして、指摘すべきだったのにしなかった。兎川のことだから受け入れてくれただろうに、踏み込む勇気を持てなかった。
「俺だってどこか引っかかってたが、何も言わなかったんだ。やっぱり、兎川のことを変に信じて頼りすぎてたってことだろ。少なくとも、俺はそう思ってる」
兎川は両手で肘をぎゅっと抱え込み、唇をきゅっと噛みながら全身で感情を堪える。
あーもう、放っておけるかよこんなの。今なら勢い余って王子様できるかも、なんてことはないだろうが、俺がどうにかしてやりたい。
「さ、て、と、話してくれないか? 狸原と何があったのか、兎川の視点で聞きたいんだが」
「私の視点って……その言い方だと、誰かから訊いたようだけど」
「君が話そうとしてくれないからですぞ、兎川氏」
「なにそれ、猿井さんの口真似のつもり? それなら、呼び方が少し違うけれど?」
苦笑された。ほっとけ。「トガちゃん氏」はちょいと恥ずかしかったんだよ。
だが、どうにかこうにか張り詰めたものは解れてくれたらしい。肩の力を抜いて、呆れの籠もった溜め息をつかれる。
「はぁ、おおかた犬森さんでしょう。まあ、彼女ならいいわ。すでに聞いているのなら、話は早いってところだし」
「一応、兎川が喋ってくれるのを待ってたんだぞ。だから、犬森から聞いたのは状況だけだ」
俺の言葉を聞いて、兎川は柔らかな表情を浮かべた。腰掛けていた場所から一歩こちらに寄って、虚空を見上げながら独り言つように声を発する。
「いま思えば……あれは全部、私がいけないんでしょうね。私が『手伝って』とさえ言えていれば、違ったかもしれないもの」
「当時、それは言えそうだったのか?」
「分からないわ。あのときは、ただ必死だった。私がやらないといけない。一人でできるから大丈夫。他に負担をかけたくない。だから冷静に、一人でどうにかしないと――。そう思っていたから」
「向こうさんとしては、誘っておいてなんだよと思うかもしれないな」
「ええ、きっとその通りね。今日の試合でも言われたわ。まだ独りよがりなのね、って」
「だが、狸原だって言わなかったんじゃないか? 手伝おうかーとか、頼りなさいよーとか。だったらお互い様かもしれないだろ。兎川は、言われなきゃ分からんのだし」
「……馬鹿にしてる?」
兎川は顔の向きを変えて、不機嫌さを瞳に張り付けて睨んできた。そこから発されるのは冷たい視線だが、今日の俺は凍えない術を持っている。
「いつか言ったのはおまえだろ。遠慮しないで言って、ってな」
「確かに言ったかもしれないけど、言い方ってものがあるんじゃない?」
「どの口が言ってんだよ」
兎川は「ふん」と鼻で軽く笑ってすまし、後方に手を置いて体重をかける。リラックスできたと捉えていいだろうかな。
「結局は、ただのプライドのぶつかり合いだったってことね」
俺は軽く肩を上げて曖昧に応える。理由は単純に、それだけではないと思ったから。
手を差し伸べてくれるのを、頼られるのを――互いに密かな期待を持って、ずっと待っていた結果なのではないかと思うからだ。
「だが、もう分かってるだろ。一人でやる必要なんかない。人間、一人じゃ限界がある。どんだけ可能性を持ってるヤツでも、絶対なんてないんだってな」
日本じゃあ、神様だって分担している。それを人類が超越すべきではない。もっと正直に言えば、そんな完璧人間は許せない。不公平にもほどがある。独りには限界があるのだ。
「出会った当初みたいにさ、兎川はもっとアツくなればいい。俺がサボったとき、抗議レターを寄こしてきたようにな」
「あれは……っ、ペアだからというか……繰り返すものかとも思ったのも多少ある、けれど……相手が亀山くんだったからで……」
「なんだよ、それ。俺が特別みたいじゃん。照れるだろ」
「う、うっさい。分からないわよ、そんなこと。本当になんとなくなの!」
うわ、懐かしい。ふいっと顔を背けられて、じんわりと染められた頬が正面で堪能できる。見事に整っていて、本当にかわいらしいな。うっかり惚れてしまいそうだ。改めて、彼女とペアでよかったと思う。こんな美少女、普通には出会えやしないからな。
「けど、そうね、アツくなる……、ん? 私がアツくなれなかったから、だから……?」
兎川の声が段々と消えていく。何かに気づいた表情でぶつぶつと呟きながら、覚悟を決めた顔で口を開いた。
「亀山くん。私の属性だけど、実は――」
コンコンコンとノック音が聞こえ、兎川の声が遮られた。と思ったら、間髪入れずに扉が開かれる。この返事が待てない感じ、さては犬森だな。
「亀ちゃん〜、マジでよかったぁ〜!」
「おー、亀チャン。思ったよりも元気そうだな」
正解しちゃったよ。しかも、その背後には猫塚の姿もあるしで俺は目を丸くしてしまう。
さすがに時間も時間だから、二人とも制服で鞄だって持っている。ちょうど帰ろうとしたあたりなのだろう。ついでに寄ってくれたのだろうか。いい人たちだなぁ。
「犬森に、猫塚……なんだよ、もう夜なのに」
「さっき、熊ちゃんとすれ違って! 最終下校にはまだだし、ちょっと気になって残ってたというか……普通に心配だったから来ちゃった! ね?」
「ああ、よかったよ。熊崎とすれ違わなかったら、犬森がこっそり覗くトコだったし」
「あーっ、あたしだけみたいに言うな! 照れてんのか!?」
「はぁ!? 照れてねーし! 俺は連絡来るまで待とうって言っただろ!」
なんなんだよこの茶番。こっちまで恥ずかしくなるからやめろやめろ。わざわざ来てくれたかもしれない時点で経験ないのに、なおさら恥ずかしくなるっての。
「んで、三位決定戦はどうするんだ? さすがに無理そうか?」
「……?」
容量オーバーした俺の脳に、猫塚の問いかけが届く。ああ、そうか。準決勝で負けたからか。でも、なんで猫塚がそんなことを訊いて来るんだ?
「三位決定戦の相手は、この二人なのよ」
俺の頭上に浮かんだ疑問符に兎川が答えてくれた。
その紹介を受けた犬森は、照れながらニヘッと笑う。ベッドの側にしゃがみ込んだ顔はとても人懐っこくて、とても悔しさが感じられなかった。同じく負け組だろうに。
「えへへ〜、あたしたちも負けちゃったんだよねー」
「犬森がヘマしてな」
「また言う! それは認めるけど、猫塚がもっと早ければもしかしたかもじゃん!」
犬森は座ったまま見上げて、猫塚は立って見下ろしながら、ともに噛みつき合う。わざわざ医務室に来てまで戯れるなと思うが、おかげで心が軽くなったのも事実だ。
そんな二人はさて置き、兎川は澄ました顔で改めて俺に向き直った。
「亀山くん、出場するかどうかはあなたに委ねるわ。当然、身体のほうは医師の判断を仰ぐことになるけど、気持ちの面で無理はさせたくないから」
「出るよ、先生がなんと言おうと出てやる。大丈夫だ。兎川となら今度こそやれるだろ?」
「それはもちろん、私を誰だと思っているの?」
我ながら珍しく意気込んでしまい、若干の恥ずかしさを覚える。そこに、当然の如く答えてくれた兎川にもこそばゆさを感じた。慣れないことだらけで、完全パンク状態だ。
「んなら、作戦会議しなきゃだな。亀チャンの元気なトコ見れたし、俺たちは行こうか」
意識は俺たちのほうに向けていたのか、猫塚が話題を拾い上げてくる。犬森の髪をわしゃわしゃとしながら、「ほら帰るぞー」と呼びかけた。
「むっ、仕切るな猫塚ぁ! 髪もくしゃくしゃだし!」
「いいだろ、帰るだけなんだし」
「よくない! 亀ちゃんもハナちゃんも、またね! よっしゃ、やったるで!」
「そんなに気合い入れすぎると、寝れなくなるぞ?」
「だー、うるさい!」
医務室を出てからも、犬森の大きな声はよく響いてきた。これはもう、喧嘩するほど仲がいいと言っていいやつだろう。一緒に帰路につくほど仲良くなったようで、俺は安心した。
犬森の声が聞こえなくなるまでは揃って耳を傾け、聞こえなくなってから、少し気がかりな様子を兎川が見せる。
「三位決定戦、本当に出てくれるの?」
「正直言えば、初めの頃はこんな大会面倒だなーって思ってた。そもそも、こんな超人たちに俺が追いつけっかよって。だから、サボりもしたわけだけどさ」
「そうね」
「だが今は、もう少しやってみたいと思ってる。この学校に来るって決めて、そこで兎川と出会って……いろいろもらったからな」
「……うん」
「兎川が開いてくれた扉の先が広くて、明るくて楽しい場所に繋がってたからさ、今度は俺が返したい。兎川が信じてくれた俺の可能性で、しっかりと恩返しがしたいんだ。だから、俺だけじゃ意味がない。おまえも、兎川も来ないと意味ないんだ。自分は扉だけ開けて引き返そうだなんて、そんなもったいないことすんなよな」
兎川はわずかに驚いた顔をして、やがて微笑んだ。また一歩こちらに近づき、上目ぎみに挑発的な瞳を向けてくる。
「あら、生意気ね」
それが少し刺激的だから、自分で言ったことが重ねて恥ずかしくなってきた。わずかに視線を逸らして、俺は右手で頬をカリカリと掻く。
「ごめん、やっぱ訂正。実は、もう少しやりたいなって思ったのは今現在じゃなくて、準決勝のときなんだ」
「なによ。やっぱり遅いわね、あなた」
初対面でも同じ言葉を言われた気がする。
だが当時と違って、今回の兎川は「ふふっ。格好つかないところも含め、本当に亀山くんらしいわね?」と上品に笑いながら言った。こんなにも美しくてかわいらしい顔を、俺だけが満喫できるなんてどんな贅沢だろう。
「一人では無理でも二人なら、少なくとも二倍は抱えられる。俺たち二人で、ちゃんと考えようぜ」
「偉そうに言っているようだけど、何か案はあるのかしら?」
「そうだな。まずは、兎川の属性をハッキリと教えてもらってから、だな――」
微笑みを返した兎川と二人で、熊崎と先生、それと星良が来るまで作戦を話し込んだ。
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