第3話 テディベアとか知らなかった。

 俺と犬森は素早く牛久先生の元へと駆け寄った。


「終わりました!」


 元気な陽キャ筆頭の犬森と一緒にいたからか、先生はやや感心した様子で声を漏らしかける。気持ちは分かるけど失礼なっ、と俺が目で訴えたら、彼女は見事な笑顔で告げてきた。


「柔軟が終わったらグラウンドを二周だ。それが終わったら、各自で練習を始めていいぞ。亀山は今日こそレポートに気合いを入れろよ。いいな、亀山?」


 先生の凛々しい声が体中に突き刺さった。こういうときに限って笑うんだよな。


 提出こそしているものの、レポートの内容は適当にそれっぽいことを並べているだけだった。上手い下手は分かるようになったが、違いや理由のほうはまだ分からないままであった。


「善処シマース」


 逃げるようにしてグラウンドを走りきり、逃げるようにして先生から距離を取る。他の生徒が箒を持ってグラウンドの中央へと移動する中、俺はいつもの木陰を目指した。自分の運動不足が再度よく実感される。定位置に着いても、肩で息をし続けていた。


「おお!」


 すると、どこかで歓声が上がる。顔を向けて確認してみると、一人の生徒に視線が集まっていた。それは紛れもなく、あのシトラス猫被り男だ。


 犬森と違って、彼の名前がすぐに出たことにはわけがある。決して、気になっていたとか意識していたそういう話ではない。


 飛行実習で牛久先生から出された『上手い人と下手な人の違い』レポートのために、見学していれば嫌でも目に付くのが猫塚岬という男子生徒なのである。

 物怖じしない姿勢で箒に乗っており、体幹がしっかり鍛えられているのか、体勢の崩れる様子が全くない。パフォーマンスもこなしそうだし、立ち乗りだって可能にしそうである。


「やっぱり上手いな」


 上手い人の筆頭が同じ外部生で、これまた驚きを隠せないものだ。やはり、高校からの新規入学は全体の三割弱というだけあって、高校から入るのは難しいのだろう。なんで俺は入れたんだ、という疑問はそろそろ捨て置きたい。


 記録が十分な量になってきたので、俺は座ってレポート用紙を取り出した。今日はどことなく晴れやかな気分だ。ようやく、理想の形でレポートが出せるからだろうか。

 ふふーんと鼻歌交じりに、俺は用紙と向き合った。参考人物欄にサクっと猫塚の名前を書き入れて、見た通りの特徴を文章にして――。


「亀チャン、危ない!」


「へぃ?」


 誰かから呼ばれて顔を上げると、すぐ傍まで箒が突撃してきていた。それも、顔面めがけてぶっ飛んで来ている。


「うわぁっ!」


 俺はなんとか箒を避けようとして、反射的に後ろへと仰け反った。そこですぐに「これじゃまずい!」と気づき、咄嗟にレポートを放り投げて、両手で後頭部を守ることにする。完全に油断していた。

 だが、幸いにも結果はセーフ。無事に生きているし、意識も飛んでいない。左の頬と手の甲に若干の痛みがあるが、それ以外はオールクリアの問題なし。準備運動しておいてよかった。


「だっ……大丈夫? 亀ちゃん!?」


 最初に素っ飛んで来たのは犬森だ。俺は上体を起こしつつ、平気だと手を振ってみせる。


「ああ、大丈夫だ。問題ない」


「問題なくないよ、血が出てるじゃん!」


 彼女から指摘され、じんじんするところを触ってみると、確かに赤いものが手に付いた。手の甲も、ところどころ擦り剥いている。あちゃ、避けるの下手くそか。


「治療しないと。熊ちゃん! みんな、熊ちゃん通して!」


「っ……ぼくに任せて!」


 犬森から「熊ちゃん」と呼ばれたかわいい子が、人集りをすり抜けて俺の目前に現れる。

 こいつがまー信じられないくらいにかわいかった。

 ショートボブの髪はナッツの色で、ふんわりとした癖毛が本人のおっとり感をより豊かに演出している。柔らかな瞳は、相手を見つめるだけで癒しを与えてくれそうなものだ。もはやテディベア。こんなかわいい女子いたのか、知らなかった。一人称? 個人の自由だろ。


 熊ちゃんは俺に向かって、震えた両手を翳してくる。だがすぐに、癒しの目をまん丸くして首を傾げた。


「あ、れ……?」


 おっと、こりゃまずいやつだ。

 クラス全員が見守っているところで、俺に魔法が効かないと勘づかれるのは大変よろしくない。情報を広めかねないため、兎川に不用心だと言われてしまうのは明らかだ。


「だ、大丈夫だ。俺、保健室行くから!」


 俺は素早く立ち上がり、牛久先生に向かって「では!」と和やかに告げる。隠し味として、小さじ四分の一くらいの爽やかさも入れておいた。このあまりの薄さには誰も気づくまいよ。


「おい待て、亀山。場所、ちゃんと分かるのか?」


「たぶん……」


 目を泳がせたことに気づいてか、先生は大きめな溜め息を吐く。そして、俺の傍にしゃがんでいた生徒に話しかけた。


「連れて行ってやれ、熊崎」


「は、はいっ。行こう、亀山くん!」


 熊ちゃんこと熊崎は、俺の腕に優しく触れてエスコートしてくれる。背丈は兎川くらいだから、女子の平均少し上――だいたい百六十センチくらいだと思う。実にいい。




 そんな中、俺は偶然見かけていた。猫塚が心底から不快そうな表情で、ある方向を睨んでいたことを。

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