笑わないお笑い好き

天鳥そら

第1話笑わないお笑い好き

お笑い、コメディ、誰だって一度は見たことや聞いたことがあるだろう。テレビやラジオでも人を笑わせようとする意気込みをもった人間ばかりが出演している。漫才、コント、一発芸、コメディ、俺はお笑い全般好きだけど、そのなかでも一番好きなのは……。


「有田君、これ、落ちたよ」


振り返ると天然パーマの少女が本を差し出していた。切りすぎたせいなのか頭が爆発している。まるで、チリチリに焦げた頭だ。爆弾を使ったコントのワンシーンを思い出して、心の中でくすっと笑った。もちろん、表情に出したりはしない。


「ありがとう。春日さん」


カバンに勉強道具を入れているときにでも落としたのだろう。放課後、教室に居残る理由もない俺は早々に廊下に出た。教室から出たばかりの、俺を追いかけてくれたらしかった。礼を言って受け取ろうとするとさっと俺の落とし物を引っ込めた。


ふざけているのかと怪訝な表情を浮かべると、春日は俺のことを面白いおもちゃを見るような子供の表情を浮かべていた。


「有田君って、落語好きなの?」


「ああ、好きだよ」


春日の手にあるのは、古い落語の本だった。面白くて有名な噺ばかりが載っている素人向けの本だ。いわゆる入門書というやつ。


「もしかして、噺家さん目指していたりするの?」


人の秘密を盗み見するような視線にため息をつく。


「そんなんじゃないよ。落語じゃなくて、お笑い全般なんでも好きだしね」


「へえ、なんか意外。夏目漱石とか、太宰治とか、そういうの好きそうな顔してる。笑ったところとか見たいことないし」


どうしてそう思われるのか自分自身が一番理解しているから、何も言い返さなかった。不思議だろうが、俺はどんなに面白い話を聞いても笑わない。落語もコントも、漫才も無表情で聞き倒すのだ。客としては最悪だろう。はじめから終わりまで、笑い声なし笑顔なしですますのだ。


だからといって面白くないわけじゃない。心の中では地面に突っ伏して、おなかを抱えて笑ている。だけど、俺の心の中のことにまで想像力を働かせる演者はいないだろう。いたら不気味すぎる。


「俺はお笑い好きだよ。だけど、顔には出ないんだよな」


「ヤなヤツだね」


春日の不意を突いて落語の本をひったくると、急いで廊下を歩きだす。言われなくても分かっているさ。だから、俺は寄席やコントが行われる会場に行くことは決してない。プロだろうがアマチュアだろうが、お客さんを笑わせるが彼らの仕事だ。彼らの渾身の芸に俺は応えられない。


まわりは全員笑っているのに、俺だけが無表情で拍手をしている。その様子を見て凍りついた演者の表情が忘れられない。それから、一度も生で見ることはなかった。


なぜ笑えないのかわからない。いつから笑えなかったかもわからない。気づいたら無表情でひたすらお笑い番組を貪り見る俺を、家族は奇異な目で眺めるようになっていた。


「心から面白いと思っているんだけどな」


昇降口で乱暴に上靴から靴に履き替え、まわりが驚くのも構わず走って校門を出た。隣にある公園に急ぎ、緑の芝生に覆われた丘の上をのぼると誰もいないベンチに座る。春日から奪い取るようにした落語の本をぱらぱらとめくった。


「有田君、あのさ」


背後から声をかけられて思わずのけぞった。先ほど学校内で話していた春日だ。後ろも振り返らず脇目もふらずに走った。どう考えても、俺の後ろから追ってきたようには思えない。


「お前、超能力者かよ」


「有田君がここに来るのが分かったから、近道して追ってきたんだよ。足早いね~」


「全速力で走ったんだけどな。怖え女だな。一体なんなんだよ」


気味の悪いものを見るようにまじまじと眺めていると、春日はワイシャツの一つ目と二つ目のボタンをはずして服の中に風を送るように動かす。白いシャツにブラが透けて見えそうで思わず視線をそらした。


「落語に興味あるなら。今度、落研に来てみない?お兄ちゃんが、目指してるんだよね。噺家さん」


「おちけんって、あの大学のサークルかなんかでやってる?」


「そうそう、寄席もやってるよ。良ければ一度来てみない?」


落語を生で見れると聞いて思わず胸が高鳴った。


「ね?どう?受付の手伝いとかたまに頼まれるんだ。練習風景も見せてもらえるよ」


落語に興味がある人ってなかなかいなくてさと笑う春日の表情は晴れやかだ。春日の表情とは対照的に俺の心が重く沈む。演者の凍りついた表情がまざまざと思い出された。


「いや、やめとく」


「なんで?好きなんでしょ?助かるんだよ。落語に興味がある人が手伝ってくれると。この間なんか、友達と一緒に行ったけど……」


「俺は無理なんだ!」


春日の話をさえぎって叫ぶ。近くの木にとまった鳥がチルチルと鳴いていた。


「なんで?何が無理なの?生で見るのは嫌だとか?」


純粋な子どものような問いかけに、ぽろりとこぼした。


「俺は、笑えないんだ。どんなに面白いと思っても、笑えない。そんなの噺家さんに失礼だろ?」


お金は対価だ。だが、コメディアンや噺家にとって、お客さんの笑い顔こそ目に見えない対価にあたる。自分はその大切な対価を支払ってやれないんだ。これであきらめただろうと思って、春日に背中を見せた。これ以上、自分のこの妙な性質を話すのは嫌だった。


「誘ってくれたのは嬉しかったよ。ありがとう」


それじゃあと振り向きもせずに走ろうとすると、カバンを持っていない右手に小さな紙きれが握らされた。春日の手のあたたかさが伝わり顔が火照る。


「気が向いたらおいでよ。有田君が今言ったことも話してみる」


ゆっくり手を開くと、一枚のチケットがくしゃりと歪んでいた。手作り感あふれるチケットは学生のサークルでやる寄席だろう。


「春日、俺は」


「いいから、おいで。本当に落語が好きならね。嫌いな人が無理やり聞きに来るよりずっといいよ」


春日はそのまま軽やかに走っていく。短かすぎる髪がはねて、お日様の光があたる。追いかけて返す気にもなれずぼんやりと突っ立ったまま見送った。


「落研か」


手のひらに乗った紙切れが、日の光にあたってきらきらと輝いていた。









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