「※この作品はフィクションです」の呪い

赤木フランカ(旧・赤木律夫)

※この作品はフィクションです

 当たり前のことだが、小説はフィクションである。にもかかわらず、なぜ読者をフィクションの世界に溺れさせ、フィクションだと気付かせる要素を排除する必要があるのだろうか? よく「没入感を阻害するから」という理由が挙げられるが、そもそも没入感と作品の価値は比例するのか?


 芥川龍之介の『羅生門』や『芋粥』では、作者である芥川龍之介が登場して読者に劇中の状況を解説している場面がある。これは無声映画のナレーションや紙芝居のように、作者が読者に語って聞かせているという体裁で書かれているということになる。つまり、小説はあくまでもこちらの世界の作者目線で書かれたもので、フィクションの世界に没入するという構造ではないのだ。


 また、作者と劇中のキャラクターが掛け合いをするということもある。これはメタネタとしてギャグマンガで用いられる手法で、劇中のキャラクターに対して作者がツッコミを入れたり、その逆をしたりする描写が見られる作品もある。


 冒頭から世界観を説明するのも、没入感を阻害するものだろう。明確に作者が登場しているわけではないが、作中世界を俯瞰的に見れる位置にある姓名不詳の人物(狂言回し?)が、読者を含む作中で描かれない場所にいる者たちに向かって話す。これもアニメや漫画ならともかく、小説では忌避されているように思う。


 冒頭で「これは、我々の知る世界とは別の歴史を辿った世界である」と記述し、作中世界と現実世界が隔絶されていることを明言する表現もある。作者ではないにしても、顔の見えない何者かが、現実世界から読者に呼びかけているのだ。これが最も没入感を阻害し、読者を突き放すやり方


 私はこのフィクションであるということを意識させる要素を排除する伝統に対して、読者との共感を第一にしてきた日本の現代文学の呪いのように感じている。しかし、現実逃避のために読んでるという人は、画面の向こうに行けないという事実を直視すると辛くなるのかもしれない。


 現実に軸足を置いて、フィクションの世界はフィクションの世界として楽しむことはできないのだろうか? 現実そう上手くいかないって思ってしまうなら、それはフィクションの見方としては不健全だ。フィクションは嘘だ。現実でありえないことであるのは当然だ。そういう人は小説より自己啓発本を読んだ方が良い。


 フィクションは現実を忘れるためのものではなく、フィクションは現実に包摂される要素であると私は考える。


――以上――

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