第3話 蒼い獣人

 夜と朝のはざまで夢の微睡に溺れていると、近くでパタンっと物音が聞こえた気がした。

 遠くからパタパタぱたぱたと数人の足音がする。

 それは小さな体格で、そう――仔犬よりは大きい。

 ゴブリンよりも大きいが、それほどあくどいというわけでもない。

 中型犬が立った程度の背丈で、生まれてまだ数年という幼さを持つだけだ。

 ただ無邪気さという神から与えられた暴虐を尽くすだけであって‥‥‥決して、悪意あるものではない。

 しかし、朝早くはそろそろ勘弁して欲しい。

 アレックスは巨大なその体躯を乗せるには小さく見えるダブルサイズのベッドの上で、青と白のまだら模様に染まった狼の耳を前後させた。

 さあ、来るぞ。一、二、三‥‥‥。

 数えた通り、四になるまえに彼らは到来する。

 彼の家には扉を閉めるというルールはない。娘夫婦はそうでもなかったが、彼の自室にはそんなものは儲けていない。

 だから、「わーっ!」と明るいはしゃぎ声とともに飛び込んできて、そのままベッドの上に寝そべる祖父の腹や胸の上にジャンピングする孫たちを遮るものは何もなかった。

 三人。三つ子の兄妹たちは、同じように跳ね、同じように着地してから、口々にそれぞれ思っていたことを口に出す。

「おじいちゃん、おはよう!」

「おめでとう! 今日だよね」

「ばっか、違うよ。明日だよ!」

「あれ、そうだっけ?」

「そうだよ、エルゼは忘れ物ばっかり」

「そんなことないよ。アーシタの方が多いじゃない。先生だって言っていた」

「俺よりロンメルの方が多いよ!」

「僕は‥‥‥」

 と、一番気弱だが最初に生まれた長兄が次兄に口ごもると、末妹のエルゼが「そうそう」と次兄の肩を持つ。

「おいおい。俺の上でケンカは止めろ。それから、ロンメルが一番上のお兄ちゃんだ。年上にはちゃんと敬意を払うんだ」

「おじいちゃん、古いー」

「ほんとう。生まれた日は同じなのに」

「僕はどうでもいいよ」

 三者三様。一卵性三生児は本日も賑やかだ。

「あーはいはい。俺の定年退職は明後日だ。だから、もう少し寝かせてくれ、な?」

「それより、テレビ! なんかやっているよ。白骨死体って」

「白骨死体?」

 まだ眠いのに、それは無視されてしまい、アレックスはベッドから居間へと連行された。身長は百八十あるかないか。暑い胸板に、ぶっとい腕、上半身裸で下はスウェット一枚だが、その腹はきっちり八つに別れている。

「なんだ、今朝見つかったのか」

 ベッドの側に置いてあった腕時計のような何かを左腕に装着すると、それはパネル式になっていて数種類の波形を描き出す。

「正常だな」

 そう呟くと、頭上にある狼の獣耳。白と青に彩られたそれを後ろに向けたまま、三人の孫と共に長椅子に腰を据えた。左にアーシタ、右にロンメル、真ん中にエルゼが座りいつもの特等席が完成する。

「また起こしたの? この子達ったら」

「いいよ。エマも忙しいだろう。面倒は見ておく」

「ごめんなさい、お父さん」

 壁面のテレビの向こう側、キッチンから娘が顔を出した。その頭には獣耳はなく、黒髪と鳶色の目をしている。

 その向こうからは、「お父さん、すいません。もう出ます!」と、娘婿のフランが挨拶をしたが、そちらも枯れ草色の髪に苔色の瞳をしていて、人間だ。

 必然、孫たちにも獣耳も長い立派な狼の尾もない。

 エマは養女でフランはその夫。どちらも人間族だった。いま出て行ったフランを含めても、この家のなかで異質なのは‥‥‥アレックス。彼だけだった。

「今日のニュースです。塔の街として知られるカルサイト市の路上で、死体が発見されました。遺体は損傷がひどく、警察や総合ギルドではこの遺体の持ち主を‥‥‥」

「総合ギルド? なんでうちが」

 父親似の男ども、母親似の孫娘をあやしながら、八歳になる彼らと共に、アレックスは大きく首を傾げた。祖父の真似をして孫たちもまた、それぞれに首を傾げる。

 エルゼがふいっと立ち上がり、考え事をしていると右に左にと深く揺れる祖父の尾を撫でて「よしよし。お前は落ち着くのよ?」なんて言いながら抱きしめていた。

「総合ギルド?」「なんで? 警察は?」と、兄たちは不思議そうな顔をして祖父を見上げている。

「さて、なんでだろうな?」

 一番、俺が知りたいぞ。その理由を。

「どうやら死因は自殺と見られており、人通りの少ない裏路地に遺体があったことからも、飛び降りた日は数日前と見られている模様です」

 画面がナレーターから現場へと切り替わる。

 白黒の映像しか映らないそれだが、陰惨な事件現場まで子供たちに見せるのは教育上よくない。

「お前ら、そろそろ学校に行く支度をしなさい」

 アレックスはリモコンを手にすると、そっとチャンネルを変えて孫たちに促した。

「えー」

「はーい」

「なんでギルド‥‥‥?」

 と口々に言って孫たちは散っていく。

「どっかの国の高官でも死んだかね? 内務調査まで回って来なきゃいいんだが」

 しかし、一瞬だけカメラに映り込んだギルド職員の中には、見覚えのある同僚の顔があった。

「お父さん、明後日のことなんだけれど。早く帰宅できそう?」

 壁向こうからエマの問いかける声がする。

 明後日。

 アレックスは四十歳の定年退職を迎える。その記念を祝おうと、家族全員でささやかなパーティーをしようという話になっていたのだ。

「局に妙な調査が入らなきゃ、どうにかそうだな‥‥‥十九時には戻れると思う」

「なら、その頃に用意できるようにしておくわ」

 孫たちが食卓を囲み朝食を食べ始めたのを確認すると、アレックスは自室に向かった。

 ベッドの上を丁寧に整頓し、ブラシを取り出すと自慢の尾にそれをかけはじめる。

 寝癖であちこちが爆発していたそれがようやく整う頃、孫たちを連れてエマが先に出るわ、と玄関先で声を上げた。

「ああ、わかった。気をつけてな」

 そう一言返すと、衣装棚を開き、ギルドの制服‥‥‥ではなく、クラッシックスーツを取り出して、それをいそいそと身に纏い始めた。

 尾はお尻よりも少し上にあり、そこだけシャツの穴から出すとスボンにはかからずに済む。ジャケットを羽織り、ワイシャツの袖口を止め、ネクタイを結んでから用意は整う。

 そのまま革靴にスリッパから履き直すと、壁にかかったいまは亡き相棒と両親の写真に挨拶をして、玄関の施錠をする。

 おとといからの雨が綺麗に止んで、視界の空を初夏の入道雲が占拠していた。

「この初夏の時期に、死体が何日も発見されないなんてことはまずないだろうしなあ」

 そうぼやくと、中古で手に入れた四枚ドアの箱型の車をガレージから引っ張り出して街を流すこと十数分。中央通りにある総合ギルドビルの前は、朝のこの時間になるといつも混雑している。路面には線路が敷かれ、その上を蒸気機関車が止まった車の合間を縫うようにして走っていく。窓を開けていたらあの黒鉛が紛れ込んでスーツに煤が着くから、多少の暑さは我慢する必要があった。

「なんかおかしい‥‥‥嫌な朝だ。市内の魔力も曇ってやがる」

 蒼い狼の獣人はその身に風の精霊を宿している。

 彼らがよどんだ大気を嫌うように、アレックスの尾もまた不機嫌に揺れ、そこから漏れ出した魔力は腕に付けた装置の波形を大きく乱した。

 この装置はアレックスの魔力を制御する役割を果たしていた。

「俺は機械に制限されなきゃ生きられない獣人かよ、まったく」

 暑さと共に辟易するようにぼやく。

 しばらく待って渋滞を抜けると、ギルドビルの地下駐車場の車を押し込んだ。

 暑さで脱いだジャケットを片手に取ると、忘れていたと思い出し、腰のベルトに二つ、ホルスターを通す。そこには二挺の拳銃が収まっていた。

 そのまま窮屈な車体から大柄な肉体を押し出すと、地上へと向かう階段に足を掛けた時だ。

 仕事用ではなく、私的な用事に利用するための通信器具。

 俗に言われる双方向対話式携帯用魔道具。携帯が鳴ったのは。

 長方形の薄い金属板のようなそれの一部に発信番号が表示されている。

 相手は見覚えのない、というか公衆通信魔道具からの発信だった。訝しみながらそれに出る。

「はい、俺だ」

「アレックスか!」

「ああ、ドンか。どうした久しぶりだな」

「至急、会って話したいことがあるんだ。時間は空いてないか?」

「時間? いや、いま忙しくてな」

 相手は軍隊に所属していた頃の戦友だった。急いでいるようには見えないおっとりとした声で話すものだから、こちらとしてもそんなに急用ではないのかもしれない、と思ってしまう。

「どうだ、明後日は? 俺の引退する日だよ。良かったら家に来てくれ、招待する」

「いや、そうしたいんだが‥‥‥ああ、だめだ。また連絡する」

 それだけ言って、通話は切れてしまった。

「なんだ?」

 まあ、招待はしたし、また掛けてくるだろう。

 あと二日。

 何事もなく終わって欲しい。そう祈ると、アレックスは階段を上がり始めた。


 彼の職場はビルの高層階にある。

 華やかなギルドの受付嬢たちとは真逆の、堅実な捜査が売り物になるそんな場所。

 表の世界で華々しく活躍するギルドの冒険者たちが不正を働いていないか、その遂行した任務内容に虚偽の報告がなかったかなどを探索するのが、内務調査局の役割だ。

 アレックスはその中でも、外務部と呼ばれる外国から国内に持ち込まれた事件処理に関して調査をすることを専門にしていた。

 朝一のミーティング。

 その議題はもちろん、あの飛び降り事件だった。

「二日前だ。雨とサソリのせいで死亡推定時刻の判別に手間取ってな」

「サソリ? どうしてそんなものが」

「やつら、何でも喰っちまうんだよ。魔力も服も遺体も‥‥‥遺されたのは白骨死体だけだ」

「……惨いな」

 会議室の画面には立体的な映像が映し出されている。さまざまな角度の写真などもそこには含まれていた。

「誰なんだ?」

 その場の責任者が分からん、と告げる。

「サソリが魔力反応や痕跡ごと丸のみしちまった。当人かどうかの判別も怪しい。だが遺留品の持ち主は‥‥‥」

「なんてこった」

 アレックスはそこに投影された女性の写真を目にして呻いた。それは彼の知り合いで、さらに戦友の娘だった。

「メイル・バナーシー。市立図書館の司書をしている、二十六歳。昨日、遺留品の身分証明書に登録されている住所に警官をやったが、当人はいなかった。同居している家族の話では、二日前から戻っていないそうだ」

「つまり、当人で間違いなし。そういうことか」

 ならいいんだがな、と責任者は渋そうな顔をする。

 さっき彼から連絡があったのはこのことかと、アレックスは納得した。メイルはドンの、娘だ。父親としては‥‥‥いや、連絡してくる必要があるか? それも困ったこと? どういう意味だ、と眉根を寄せる。

 その答えは次の瞬間、明らかになった。

「姉がいる。リタ・エゲナー、二十六歳。メイルとは一卵性双生児で、見た目もうり二つ。魔力反応もうり二つ。二日前から行方不明らしい」

「ああ……」

 ドンの要件はそれだったかと理解する。

 くそっ、切らずに聞いておけばよかった。

 あの焦り方は、姉の方が行方不明になったままだからだったのだ。

 なんとなく手遅れだという感覚が胸の奥に生まれてくる。ここは犯罪も多い田舎町なのだ。女性が行方不明になって二日も戻らないとあれば、その多くの結末は――死が待っている。

 知人の不幸に顔を曇らせるアレックスに、上司は「悪いんだが」と前置きを付けて新しい命令を下した。

「このリタ・エゲナーは‥‥‥魔王フェイブスタークの部下だそうだ。知っていたか?」

 明らかに知っているな? という口ぶりだった。

 リタは内務調査局ではそれなりに有名人だ。魔王軍の将校として、このカルサイトの街で兵士募集などの事務所運営をしている。王国の中枢ともつながりが深い女性だった。

「ここに居る奴なら、誰でも知っていますよ」

「なら、話が早い。外交特権の問題で魔王軍に捜査権を譲ることになる。二日後だ。それまでに」

 なんだ?

 事件を解決しろ?

 そんな短期間でか、無茶を言うな。

 そう反論しようとしたら、違った。

「あちらから専任の捜査官が今夜、到着する。二日間でいい、街を案内してやってくれ」

「捜査は‥‥‥?」

「魔王ごときに好き勝手されてたまるか。ここはギルドの足元なんだぞ」

 つまり、どうにか口実を付けて捜査期間を引き伸ばしたいらしい。

 魔王軍の関係者を捜査に極力関わらせるな。

 それは残り二日間で引退するアレックスに課された、最後の任務になりそうだった。

 


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