「通信・設計」パッケージ

 「通信・設計」パッケージとは技術装置の普及に関する学習的な信頼関係の形成に関わることではなく非技術的イノベーションの検討に対するシンボル規格の表象的復元性を信号的な派生で多重分割することができるかという変調に関わる確率性の問題である。それゆえここで考察するのは言説空間のコード化の構築的な設計であると言ってもいい。どうして通信と設計に関する名称を冠しているにもかかわらず、ここで検討されるのが非技術的な言説空間なのか。それはある技術を普及させる目的とその技術を普及させるための手段が同じではないからである。ある先進的な技術を普及させるのに障害となる問題の一つとしてその技術を取り入れなくてもこれまで通りやっていけるというものがある。この論点は必ずしも現在の運営がうまくいっているという意味と同じではないことに注意する必要がある。ここでの論点は「自分の想像力に必要なものは技術的なものではない」と言いたいのであって、それが技術的に実現できる可能性があるかどうかとは何の関係もないし、それで利潤が得られるかどうかも関係がない。むしろ自分の夢を実現させるために利潤は積極的に放棄して非技術的な進路に進むことも十分考えられる。ただしそのことで現実の社会的・政治的条件が変更されることはなく、その条件の限界に沿った想像力の実現を目指したいということが核心にある。そのためのヴィジョンが必要であるというのだが、そのヴィジョンはグラフィカルユーザーインタフェース上に映された理念性であるというよりは有限系列の極限概念の近似にその論理的試行の頻度の記憶が残るような思考パターンの系譜性である。この系譜性がとして継承されるかどうかが次世代の教育の意志を宿らせることになるのだ、という連続性をヴィジョンと言っているのであり、そのためそれが技術的に複製されたものであるか、象徴的に分割されたものであるかどうかはどうでもよく、単に自分たちの想像力の規格に沿ったパターンが投影的に写像されていれば満足なのである。この規格はもちろん政治的な分裂が自分たちの代表制度を多数派として実現していくためのパターンと全く同じものであり、ある商品の売れ行きに関する予測が人気の宣伝として普及的に伝播していく手段ともセットであり、したがって必然的にこれらのシナリオは現実の政治条件の構成的矛盾を考慮するのではなく人間関係の複雑さに対する主観的配慮を見せることでその内在を代替する。これが何の解決にもならないのは明白である。だから言説空間のコード化の構築的な設計をシンボルの多重分割の記号性でアルゴリズムのアーキテクチャとしてサイクル化する必要があるのだ。


 「なんだ結局アルゴリズムを使うではないか。それが技術的でなくてなんなのか?」という問題を回避するためにここでアルゴリズムの定義を検討することにする。私がここでアルゴリズムというのはコンピュータプログラムとしてのアルゴリズムのことではない。そうではなくて条件分岐のための一連の命法や、そのための思考回路などをあらかじめ「計算」しておくことのできる手続きとしてのシステムのことを指している。そういう意味でなら料理の手順も確かにアルゴリズムと言える。そこで私は料理を教えようとしているのだ、というわけではない。というのも料理の手順とは確かに一連の条件や素材の分量、調理の方法などによって規定されるが、それとたとえばが放送されるための言説配置は全く別のものであり、その「料理を教える」という形式がアルゴリズムの手順操作に一定の留保を抜きにして単にスケジューリングの面白さを伝えるためのものになっているという場合に、その娯楽としての演出と料理としての手順を区別してそれぞれの言説配置のコードを簡略されたシンボルで置換してそのサイクルを比較してみるということが問題だからだ。この重ね合わされた手順と演出を分離して記号的に復号したシンボルの比較的な構成を言説空間と定義する。たとえばある料理の手順が「個人の感性」と入力されている場合に、その料理のプロセスの観点から見て素材や調理による状態変化を比較した結果、それが料理の味や見た目に反映されている場合に、その「個人の感性」はアルゴリズム的な条件分岐の観点から見て適正なサイクルであると判断する、といった具合である。もちろんこの「個人の感性」が素材の取り扱い方や料理の手順にまちがって用いられている場合には、アルゴリズム的な観点から誤ったサイクルであると言える。さてここでの判断はかなり大雑把でかつ完全確定条件によって記述されると暗黙に仮定してきた。つまりある料理の出来はその手順や素材の取り扱い方が正しければ100パーセントおいしい料理が作れるという前提でアルゴリズムがサイクルの判断しているということである。たしかにインスタント食品や携帯食料の場合はそれでも正しいかもしれないが「手作りの料理」の場合はそうではないのではないか。そこで次はそのような「手作りの料理」の場合を検討してみよう。


 「手作りの料理」と「インスタント食品」の違いとは何か。というのも「インスタント食品」も捉え方次第では「手作りの料理」であると言えるからだ。料理が下手な人が出来合いの食材を盛り付けて、主食をそれとは別にとりわけておき、「これが私の手作り料理だ」と主張しても間違いであるわけではない。逆に料理の上手い人がインスタント食品の特別な利用方法を知っていてそれを他者にふるまうこともできるだろう。インスタント食品の成分からしても体に優しいものであることは可能であり、しかもそれは品質的に消費者の体験を基に作られたものであることは否定できない。そこで人が何を「手作りの料理」と判断しているかを考えてみよう。それは自分の手で手順通りに素材を確かめて作った料理であると仮定しよう。その場合、調味料の定義とはどのようなものになるのか。調味料を「素材の定義から検討する」べきなのだろうか。しかし論理的に言えば、素材を栄養素や商品規格としての味覚成分から割り出すことは必然的なことであり、それを個人的な手作りにすることは不可能ではないが、いちいちやるのは面倒ではないか。もちろん可能ならば特性ブレンドを制作していることが好ましいにしても。次に素材の品質だがそれは自分の栽培方法から取れたものを使うべきなのだろうか。それとも市販のものを使うべきなのだろうか。というのも市販の商品を使うとすればそれが「手作りの料理」という定義に違反することになるかもしれないからだ。しかし農家の人たちが作っている物を使うことは大丈夫なのか。もちろん大丈夫で土地から作られたものだからだ。では肉などの加工食品はどうなのか。加工されていることは手作りの定義に反さないのか。我々は手作りというからには実際に動物や魚を殺して、それで手作りの料理を提供することが素材の味を引き立たせることなのだろうか。いや、いい保存方法を知っているかどうか、新鮮さが失われないうちに調理することが重要ではないのか。もちろんその通りである。では手作りの味とは何なのか。大自然に囲まれて、その中で自分でレトルト食品や肉を焼いて食べることなのか。それとも自分の好きな人にどんな食材でもいいから料理を作ってもらえるのことなのか。さてこれらの通り「手作り料理」と「インスタント食品」の差異はシーンの状況説明の一環として言説的に配置される空間性にある。そのサイクルが好ましいかどうかで「手作り」であるか「インスタント」であるかが決まる。そしてこの意味で「インスタント食品でも手作りであればおいしい」という言葉が利用可能になる。


 ある言説空間の配置それ自体は欲望に関わらない。それが社会的・政治的承認となる場合に、その象徴的意志決定を行うことが不可能な場合の代補として特定のコード化された表象的連続性が記憶から投影されることで個人間の差異を欲望にする。このことは分割可能な標準化をもたらさないことから人々の独自の感性の生物的進化であるかのように子孫代々に伝承していくような物語の普遍性と等値される。しかしこの物語の配置は時間的連続性ではなく確率空間の微分的連続性なので有限系列における表象記憶の求積の限界に必然的に構造化される。だからそれを他者に継承するとは技術的な秘密を複製するという図面的な企図と混同される。それが確率空間の混入としての落差となる。では言説空間の配置を教えるとはどういうことなのだろうか。例えばゲーム的に考えると①あるモンスターを倒す②その素材の肉のを獲得する③ストックされた肉を「調理」してシチューという名称の料理アイコンを作る④アイコン化されたシチューをパーティのみんなと食べる、ということになるのだろうか。それでキャラクターの満腹度があがるとプレイヤーは満足するのだろうか。それともある料理のを狙って、その状況毎の有効な利用法の一つとして言説空間の配置が存在するのか。確かにモンスターを倒した時に獲得できる肉が「上質な肉」で「瘦せすぎた肉」でないことは満足できることである。ただその肉を使ってできる料理が「クリームシチュー」や「ビーフシチュー」であったりするのはまだしも「ハヤシライス」とか「正体不明の物質」になったりするのは困る。そしてその料理の効果が希少なものであったりするのはさらに困る。その操作は「確率的混入」という状態と定義される。この水準での表象的連続性のデザインは次のような特徴を持つ。①切れ目ない連続性という結び目が交互に瞬間を構成する。そのため状態の品質の強度という名目では極めて信頼性の高い設計がもたらされる。②しかしある操作と別の操作との間にある関連性を精査するときには切れ目ない連続性という概念は成立しない。それが可能となるのは条件に対する一意性が存在することと高度の独立性が試行の内容とは、無関係に成立する場合だけである。条件が分岐的で試行が表現に対して十分に独立的でない場合には確率的な期待値をどのように求めてもそれは一様性の範囲を出ない。③そのことから過度な独立性がデザインの試行ではなくデザインの手順に持ち込まれる。それは設計に関する内容を略式操作に置換することで秘密を守ろうとし、そのことを公開性に不完全な重みづけをすることで精度に対する現実の条件を対人関係の帰属条件にすり替える。④故に人間関係間の表象の差異をどのようにパターンに対して合成的にずらしていくかということがアルゴリズムのサイクルの適正な判断となる。ただしそのことは現実の社会的条件を逸脱すれば説得力が失われるため、非技術的な特徴を強調することで非日常感を演出しつつ、しかし人気と売れ行きの基本パターンに対しては政治の論理と同様の反復による重み付けがなされる。したがってこれらは結局現在の政治的・社会的条件を安全性という監査で保存するという名目になる。政治がある特定の人事を用いて物事を実際に動かすことができるとか、政治に一念を持って打ち込めば必ず期待に沿う結果をもたらすことができるとかいう「合意」が漂っているのはそれゆえである。政治的立場の批判は政治的言説空間の前提に対する批判ではありえない。なぜならそれは物質的相互関係を基礎的な構造と見なして、その変更不可能性から表象的差異を「確率的に」揺り動かそうという発想だからである。しかしそれは資本主義的な消費構造と何も変わらないので単に観念的な補完性の形式を反対の主張として要求することになる。試行に関する独立性を要求するための分割的な象徴性と立場に関する物質条件の思考の独立性は明らかに別の問題であるにもかかわらず、立場の違いを乗り越えて「合意」形成を図ろうとしても失敗するのは当然である。だからシナリオを作るという合意性が身分の違いを乗り越えるという物語性だと錯覚されるのだ。


 さてここで注意したいのはこれらの言説がに対して非難をしているわけではないということだ。しかし同時にこれらが特定の社会的条件では非難として受け取られる可能性がないという意味ではない。そしてそこにこそ政治的な矛盾のサイクル的な問題が存在する。なぜなら自分たちの主観的内在性の代替基準を表現するという行為とゲーム内設計の表象的連結性が政治的状況に対して矛盾しているということのシナリオ的な区別がつかないということこそ、試行の独立性が十分に留保されていないという社会的な消費の物質条件を人間関係として規定しているからだ。だからこの矛盾に敵対するための表現上のコードは「人間嫌い」で「魔王的な軍団」を率いる身分的な種族性の統率性であるということになる。このコードがファンタジー的であるのは現実的な身分関係を物質的に反映しないような観念的な代補の配慮だということを証明している。このことを逆に言うと「ゲーム的な観念」とは現実の物質条件を無視してコマンド的なインタフェースにフィードバックをヴァーチャルアイテムのように取り出せて個人的な消費に利用できることを意味している。それができた方が手順の手間が少なく済みかつそれが技術的に公開された頑強な条件で人間関係を円滑にすることができるからだ。これが非技術的イノベーションの原動力に属する言説空間の構築である。もし「ゲーム的観念」でさえアイテムを取り出すのに恐ろしいほどの遅延がかり、それが保存方法や安全性において著しく信頼できないものであるとしたら、実際の人間関係に費やす時間的余裕を作り出せないことは確実である。そうなるとゲームは単に数字をいじくってそこからもっとも有利な利潤を生みだし、その投資の継続性を確認する行為と変わらなくなる。だから映像表現とゲーム部分を分けて、それぞれを「独立に」楽しむべきだという意見になってしまう。これを「個人の感性」というのではサイクルの構築がうまくいっていないこと、多様性を単なる種類の多さに結びつけるだけで現実的なフィードバックの条件を欠いた集合の要素にしてしまうことである。そこで試行が起こらないのは投資と金融融資の資産的条件が一定水準以上であるような名目管理の比率を年次で割り出すための口実を「固定資産」の社会的条件と言っているにすぎないからだ。


 「ソーシャルネットワークゲームが巨大な産業ビジネスとしてのチャンスを持っていることは認めよう。しかしゲームとはあくまでビジネスの収益化のための方法に過ぎない。その形態がどんなものであれ、そこに収益があればこそそれに挑戦しているのであってそうでなければ単に今までのやり方を取るだけだ」さて問題である。ネッワークインフラを支えるための基礎的な設備投資金は国が援助する以外にどのように確保するのか?その国の援助は税金の使い道の議論以外で取り上げられることがあるのか?今まで通りのやり方がビジネスに通用するのか?それが通用しないとすればどのようにゲームを運用するのか?単に金と時間が有り余っている人向けのサービスとしてニッチ的な需要を細々と満たすのか?その場合に収益決算は年次ごとの比率で測るべきなのか?ゲーム産業が成長する条件がそのような年次の加算的増加で測られるものなのか?ネットワークの需要は人々が通信機能を個別的な設計として情報を生産する割合に全面的に依存している。ということはネットワークの需要を単なる融資の投資条件に沿った規格で運用しようとする限りいかなる年次収入もある通信機器の実際的購入費の分割支払い以外にその収支を合わせることはできない。実はたった一つだけネットワークサービスをゲームを通さずに分配する方法が存在する。それはウイルスの生物的感染をそのつど犠牲者の割合から計算し、その感染の比率に応じた医療保険を高額な将来設計の負担として納入するという形式だ。これならば人々は医療保険を受けるために高額の税金をあえて払い続けなければならず、そのための設備投資の一環としてネットワークサービスが利用できるということになる。どうやらどこかで聞いた話が出てきたようだ。ここで主張されているのはもちろん感染拡大のための予防接種が「実は」必要でないという問題でない。そうではなく、感染の予防のための手続きと現実的な政治的手続きに関する保険制度の矛盾が感染者数の比率で表明されるということの構造的欠陥にある。ここには中抜きの制度的原則がどの程度のものなのかを測定するための基準は存在しない。実用可能範囲を定めるための安全性は人間が生物的な危害から重大な脅威を受けるまで待機するという時間割で構成されるわけだからどのような通信機器が設置されたとしても物流の規制は現場の混乱をもたらす。そこから国民への説明は公的なセキュリティの観点から行われない。専守防衛という言葉は敵が攻撃を仕掛けてくる前に反撃可能であるだけの製造的な設計ラインの性能指標を満たすことが求められるが国の援助がないのでうまくいかずどのような技術的構築も不完全なデータ収集の備蓄でやりくりするという事態しか生じない。つまり専守防衛とはのことだ。そこで自給率からの殲滅時間単位を計画し奇襲攻撃による情報漏洩を警戒してもそもそも通信速度の相対的優位が存在しないのだからどのような奇襲が敵基地に行われようがネットワーク優位性がある敵には事前に察知され物流の配備と部隊移動単位の双方向性がもたらされる接敵位置からの反撃が可能となる。そもそも医療設備のインフラ投資とは軍事的には国家的な過剰備蓄の流通を別の現場単位に移動させるための合法的処置であるのに、医療体制そのものが崩壊しているようなネットワークの分散状況に対して外資の物流による援助を行っても別の国の商品を買ってその需要を満たすという役割になるだけだ。それをやればやるほど自給率と国民経済の生産単位が落ち込むのは自明の理である。もちろんである傀儡政権にとってはこれらすべては何の関係のない話ではあるが。


 ある性的な需要の産業的割合と戦争との関係は人々の特有の行動規範性から生じるのではなく、社会的自由に対する名目が性的快楽の許容度にしか存在しないという錯覚から表現と言説の空間的短絡を引き起こすその作用に関与する。なぜなら人々の想像空間を性的関心が侵入することはその言説的な名目の秩序を揺るがす事態をもたらすからだ。ポルノの普及自体はネットワークの流通開始時や平和である時期の産業発展性における欲望の解放時の方が多いにもかかわらず、戦争と性の類比が推測されるのはエロスとタナトスというフロイトが持ち込んだ二項関係に端を発する破壊と快楽の不安を産業的規範の性的倒錯で閉じ込めようとする文化戦略の失敗を露呈するものであるからだ。現在ではこの観点は転倒してフロイトは人々には抑圧されても残る根源的な残虐性が存在することを無意識として発見した人物だという風にまで拡張されているが、フロイトが暴露した文化戦略の偽善性と集団的な道徳意識の超自我によるエネルギーの転倒が戦争という形態で反復されるという視点はもちろん無視される。精神分析的には倒錯とは決して寛容の度合いを測る物差しではない。それは特定の欲望と二次過程の防衛戦略が組み合わされた内在的エネルギー単位の変形と定義される。それは物理学的空間と性的な空間(特にペニス)が侵入するための状況を別の表象的な対象に転移させてその状態に固着するための潜在的な条件を規定している。もちろんこの条件はカウンターカルチャーという名目で商品化された時、かなり薄められたはずであり、そこにはヒッピー的な瞑想的境地に対する憧憬という誤った薬物的短絡と性的な露出が組み合わされた技術的カテゴリーが配置されている。しかしここで把握するのが難しいのは性と音楽との間にある関係である。というのもそれは精神分析がかなり苦手としている分野だからだ。それは主に振動周波数の平均分割単位に関する脳と物理的衝撃の反響の起点と弦の間にある判断が性的な管の空気圧の音源とアレンジのアレゴリーを形成するという問題である。音程の記憶による判断と和音によるハーモニーの形成は固着的な関心の効果を逸らす働きがあるのだが、情緒的なメロディーと転調のリーダーの変化との関係は特にない。しかし音の特性的に音量の大きさは周波数の合算されたエネルギーの総量ではなく楽器ごとの音色と周波数のズレでより多く把握されるという問題と性的な色は特定の快楽の「転調した」反復振動数のリズムで刻まれるという「高揚」イメージを合算することで声に甘い含みをくぐらせることができるというデジタル変調の空間的写像性がアナログ的な恋愛のマス目の視覚比率に対してということが問題なのである。ここでの主語はが、と言いたくなるところだが実際はが凌辱しているのであり、しかも実際には「存在しない」分割基礎単位の音源が孕みを発生させているのである。機械の冷酷無比な運動は視覚的イメージに合わせたものにすぎない。ここでなぜフロイトがエロスとタナトスを愛と破壊の単位で規定したかを比較してもいいかもしれない。というのも原理的には視覚的な機械運動としてのピストンは永久に破壊をもたらすかもしれないが、音源的な基底振動数が愛の包絡を持ち込んでいるというシステムは固有のサイクルに従った律動を続けているだけだからだ。もちろん我々はラカン的な理解から本質的に「性的関係は存在しない」ということを知っている。シンボル的なファルス関数の力動系と表象的差異の置換言説構造は決して一致せず、そこに男女という関数を代入しても隠喩が連鎖するだけで不釣り合いな関係が生まれるだけである。しかし技術条件の象徴的な双方向性はその位置にはない。というのもネットワーク的な声のレイヤーはキャラクターの象徴的な分割多重性に完全に基礎づけられているからだ。ただしそれには一つだけ条件がありシナリオ的な投影関係が即座に崩壊するだけのインタラクティブな関係性の速さというが完全に意志決定によってサイクル化されていなければならないということである。


 冗長性と誤り符号訂正という分割多重化に関わる信号伝播システムの設計は機械状無意識という形態で発露されるのではなく自己コヒーレント検波という差異を強度の遅延から再演算するための位相シフトで行われる。このことを私の目的に言い換えると、すべての通信に対してその情報の位相が通じているか否かを表象で伝えて相手方にすべての行程に対してその差異を確認するという手間を取らずに、自分自身のシンボル的な言説配置からアーキテクチャの構築サイクルを設計した後で、それを相手方とのフィードバックでその情報の位相を参照する、となる。このことは当然確認応答には関わらない。もし相手の声が聴きたいだけならばいちいちアーキテクチャを設計したりせずに電話でもすればいい。しかし相手に伝えたい情報を絞る場合に、表象的な連関だけを伝えてもそれを復号するためのコードがなければ読み解くにいろいろな解釈が産み出されてしまう。それが実際に一対一対応にのみ開かれるチャンネルならば被害は少ないがインターネット空間のように膨大な人々の前でそのようなことを伝えれば、あらゆる非難解釈の種を生み出しかねないし、釈明すればするほど被害や噂が拡散するという結果になってしまう。そのためインターネットで情報を伝えるためには自分にとって有利な噂を拡散するというやり方ではなく、アーキテクチャの言説サイクルを構築し、その表象的な連関から条件的に分割された確率性の分布に崩壊の律動性を意志決定のための象徴性として展開しなければならない。もしアーキテクチャのセットが単純に人間関係で使われるものと同じならば普段使っているのと同じ言葉を使っているつもりが他人に求愛したり暴言を吐いたり情緒不安定な錯乱をしているという風に複数の意味にとられてしまうからだ。したがってネット上では一対一対応の場合以外は基本的に確率で人間関係の表象が崩壊してしまうような半減期の律動性を埋め込む必要がある。私がこの手段をキャラクター化するためにネットワークのユニット単位としてカードを設計するべきであるというのはすでに述べた。崩壊の律動性が意志決定であるというのは、カードの信用創造の発行主体であるブロックチェーンの壊変サイクルにおいては、キャラクターのユニット単位としての壊変の確率性を象徴的な性の分割規定として基底振動数を定めなければならないからだ。そうしないと単なる記憶セットの情報集合による機械検索になってしまう。逆に言うとそれらの集合は技術的な雇用条件としては検索可能な離散関数としてキャラクター的な表現にモデルとして帰属していなければならない。身分的な免許制度ではリスト的な索引の名目から性格的な傾向性の情報開示が行われるのであって、モデル的な再現性からその条件の分割規定が構築されるわけではないからだ。だからそのモデルはキャラクターを意志決定で崩壊させている主体のアーキテクチャの現実的な社会条件を政治的に召喚するものとなる。さてこれらの内容が「文化・配信」パッケージで構築されるデッキ単位のオープンワールド設計のキャラクター操作の実況ということになるだろう。では「メタバース」は?先取りしていえばこうなる。メタバースはパッケージ単位の公共支援策には入らない。なぜならそれは興行収支収入に関する法律的な形式を個人的アイデンティティに帰属させるものだからだ。それは性ではなくの活動性を交流企画に変換するものでしかない、と私はみなしているからである。

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