第96話
「マスター。例の男を連行してきました。殺しますか?」
「…ハスキー。やっぱお前は阿呆だと俺は思うんだが……」
席に座っていた青年が飲んでいたコーヒーカップをゆっくりと手元に置き頭を抱え始める。
「あのな?…さっき説明したばかりだろ?色々と手伝って貰ってる知り合いが来るから「普通」に対応してくれと…」
「……すみません。てっきりマスターにとっての「普通」とはつまり「そういうこと」なのかとばかり…」
「そういうこと?…詳しく説明してくれ。変な言い回しやオブラートに包む必要はないから端的かつ率直に」
「その…油断させてから全戦力でその男を始末するのかと」
「……」
コーヒーカップに手を伸ばそうとしていた青年の手が中空でピッタリと制止する。それは男から見ても珍しい光景だ。
「まさか、お前がクロ以上の逸材だったとはな……」
青年が皮肉交じりに店員を褒める。本来ならば苦言と捉えなければいけないその言葉。だがその言葉を店員は最上級の誉め言葉だと勘違いしてしまう。
「当然です。私はクロよりも強いですから」
ブンッ!ブンッ!と高速で店員の尻尾が左右に揺れ始める。その姿は飼い主に撫でられるのを待つ大型犬のそれと同じだ。
「……」
「……」
青年も、そして男もその姿に何も言う事が出来なかった。
「いや…えっとな……まあ、お前はそれでいいのかもな……」
「…?どういう意味ですか?ご主…いえ、マスター」
「ああ。つまりお前はそのままが一番輝いているってことだよ」
「…っ!?嬉しいです。マス…いえ、ご主人様の方からお誘いをしてくれるとは」
「え…?」
「今直ぐ帰り支度をしてきます。少しだけ待っていてくださいご主人様!!」
「おっ…おい!?お前「研修中」とはいえ仕事中だろうが!?」
猛スピードでバックヤードへと消えていく店員を信じられないものを見るような目で見送る青年。これもまた男からすれば珍しい光景だ。慌てて立ち上がった青年が別の店員へと指示を飛ばす。
「ミルフィー!ハスキーのアホがまた暴走してる!そっちで何とか対応してくれ!!」
「えっ!?また!?」
「どいてくださいミルフィー。私はこれからご主人様とクリエイティブな夜を過ごさなければいけないんです」
「かっ…金本!?この子ほんとに怖いんだけど!?」
何かが壊れるような音と爆発音がバックヤードから聞こえ始める。
「「……」」
その物音を青年と男は気まずそうに聞いていた。
「暴走機関車みたいなやつだ。変な方向で思い込みも強いし、かと言ったらやたらと従順な姿も見せる。あいつを見てるとクロが可愛く見えるんだから本当に恐ろしいよ…」
「…いや、よくよく考えれば呼び出したばかりの「あいつら」もあんな感じだったような……」
青年が苦悶の表情をその顔に浮かべる。だが男は知っていた。その全てが擬態に過ぎないという事を。騙されてはいけない。その妙に人間らしい仕草に気を許してはいけない。これから対峙しなければいけない怪物は、決してそのような人間的な感情を持っている存在ではない。
「…ふん。随分と愉快な職場じゃないか?楽しそうで羨ましいぜ」
男が皮肉を口から吐き出しつつ覚悟を決める。そう。ここからが本番。今までの出来事は全て前哨戦に過ぎないのだ。
「それで…俺から何を聞きたいんだ?……金本大助さんよ?」
「ん?…そりゃあもう…いろいろさ」
苦笑いを浮かべていた金本大助の表情が一瞬で無表情へと戻る。そしてゆっくりとその濁った瞳が男の目をジッと見つめ始めた。
「お互い積もった話もあるし、今夜はのんびりと語り明かそう。それに…この場所に居れば、あんたも命の心配をしなくて済むだろ?」
「……」
「ああ…安心してくれ。俺から誘ったんだから今日は全て俺の奢りだ。好きなメニューを注文してくれて構わない」
「……」
「それともまさか…」
金本大助の瞳がスッと細くなる。
「「食べない」なんてつまらない選択はしないよな?」
「っ……」
男が考えている事など全て把握している。それを確信させるには十分な動作だ。
「そんなに警戒しないでくれ。とりあえず「今は」本当に話がしたいだけなんだよ。……佐々木一郎さん」
「…イカレ野郎が」
「……」
進むか立ち止まるか。提示された選択肢はその2つだけだ。リスク承知で一歩でも前に進むか、それとも緩やかな「死」を待つのか。選ばなければならない。自分自身の意思で、その答えを。
「……とりあえずだ」
「ん…?」
「この店で一番高いメニューを持ってこい」
「ふふ…」
佐々木一郎の返答に心底嬉しそうな表情を金本大助が浮かべる。
「なんだよ?全部お前の奢りなんだろ?まさか今更撤回するつもりか?」
「まさか。…大歓迎だよ」
そうしてこの男、佐々木一郎の長い夜は幕を開けた。
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