第24話 赤鬼激怒

 後続の集団から駆けつけた指揮官が、横たわる若武者のところへ慌てて駆け寄った。使い込まれた朱塗りの兜に立派な立物装飾が目立つ。かなり高位な身分であることがそれだけで分かる。

「若!」

「……おお、義父殿」

 力なく微笑みを浮かべる松平下野守の手を取り、蒼白な顔色の井伊兵部は彼の傷を確かめる。後見役の心配を見て取り、負傷した松平は先に大丈夫だと声をかけた。

「案じられるな。命に別状あるような怪我ではないので」

「それならば……」

 戦国の世を生きる武将なら、あとに響かない傷ぐらいは名誉の証だ。井伊自身も自分の話なら、それだけ激しい戦いを生き延びて来たのだと自慢のネタにしているぐらいなのだが……。

 ただそれが、井伊が後見を命ぜられた主君徳川内府の息子であり、将来を期待している娘婿となれば……銃撃で馬から撃ち落されたと聞けば、青くなっても当然だ。

 付き添う家臣の見立ても大事ないとの事だったので、猛将もホッと安堵した。

「島津の足止めを突破しようと強行しましたら、このありさまで」

「心配しましたぞ。無茶はしないで下され」

「それを義父殿あなたが言いますか」

 井伊さん、戦場に出るたびに怪我して帰って来ることで有名。

「ははは、見ての通り今日は全くの無傷ですよ。敵が弱くて傷を負う機会さえ無い。気合を入れて臨んだのに、あまりにぬるくて拍子抜けしているぐらいです」

「ははは、ほどほどに」

 一回り下の義理の息子にたしなめられ、意地を張って見せる兵部。


 和やかに笑いあう二人は、この時気が付いていなかった。

 ……今の一言で、“ふらぐ”が立ったということに。


   ◆

  

 落ち着けば追いかけるという下野守を激励し、追撃を替わった井伊兵部は再び馬上の人となり……走り始めた頃には、人が変わったように表情が厳しくなっていた。

「下野様を撃ち落とした者はそれなりの武将であったようです」

「どの程度の者だか知らないが、大将首以外に価値はない」

 横で馬を走らせる部下の報告に、徳川きっての猛将は苦虫をかみつぶした顔で吐き捨てた。

「若に今必要なのはそこらに落ちているような凡百のよくある首ではない。少なくとも、大名辺りを討ち取った手柄だ!」


 その点で言えば、島津維新を討ち取ることができればまずまずだ。

 一軍を率いる大名級で、開戦初頭に思いきり辱めてくれた因縁の相手で、最後の最後に本陣を脅かして総大将徳川内府に冷や汗をかかせてくれた。そして完全試合をダメにしてくれそうな今この逃走劇……徳川家の後継者争いで松平下野守を有利にさせる得点稼ぎに、これ以上の獲物はいない。


 徳川内府の長男は以前の事件で切腹を命じられて、すでにこの世にいない。

 次男は豊国大公に近すぎたと睨まれて、すでに後継ぎ候補から脱落している。

 そして最有力の三男は今回別動隊の総大将を任されておきながら、肝心な今日の戦いに間に合わずに大恥をかいている。

 となれば、四男下野守が期待以上の活躍を見せれば……。


 娘婿の栄達を願う義父としても、徳川家重臣として自分の立場を強くするうえでも、井伊兵部は喉から手が出るほど島津弘歌の首を欲していた。


 いつの間にか井伊の周囲を囲むように走る集団は、皆朱塗り赤色の鎧を身に着けた者ばかりになっている。

 徳川家の誇る切り込み部隊、“井伊の赤備え”だ。

 かつての強敵、武田家が誇った精鋭部隊。弾正公による甲斐攻めで武田が滅んだ後、徳川に降伏した生き残りは急成長中だった井伊兵部に預けられた。今では“井伊の赤鬼”と呼ばれる彼の武名とともに、徳川家の決戦兵力として日ノ本中にその名が鳴り響いている。

 まさに火のような激しい勢いで駆ける軍団を率いて、井伊兵部は鬼の形相で吠えた。

「芋侍どもを一匹残らず撫で斬りにせよ! 島津の首を手土産に献上するぞ!」

 

「このたびの島津の大将、“ロリ島津”とかいう年端もいかない童女という話なのですが……」

「かまわん! 足りなければ付け合わせに他の首もまとめて献上だ!」

「そうですか……」

 なんかやだなあ……という空気を漂わせている家臣たちを、ヤバい目つきの兵部が睨みつけた。

「……散々戦場を引っ搔き回してくれたクソガキに哀れみをかけている余裕があったら、自分の首の心配をしたらどうだ?」

「申し訳ありませんッ!」


 “赤鬼”と呼ばれる猛将、井伊兵部。敵にも容赦ないが身内にも厳しすぎて、上司が怖くて徳川本家に転属願を出す家臣が後を絶たなかったと言われている。

 

   ◆


 長寿院が足止めの為に残ったと聞かされ、さすがの弘歌もショボンと気落ちしていた。

旅庵新納盛淳長寿院も、いなくなっちゃったのじゃ……」

 物心ついてからずっと教育係お小言係だった老臣が……二人とも、もういない。

「戦の生き死には世の常ですよ」

 豊歌に言われても、まだ十にならない弘歌には、理屈と実感は違うものだ。

「お豊は平気なのじゃ?」

「悼む気持ちはありますが、それを考えるのは今ではありません」

 豊歌は今も二人の周囲を囲む島津兵たちを指した。

「まだ戦いの最中です。そして我らは軍勢を率いる立場です。まずはこの撤退戦を成功させることを考えねば……死者を想って泣くのはその後です」

「……うむ、そうなのじゃ」

 弘歌は滲み始めていた涙を拭いて毅然と前を向いた。


 弘歌は、この合戦の総大将。

 逃げ延びるか全滅するまで、あくまで戦わねばならないのだ。


「それにしても、徳川も石田に付いたくらいでそんなに怒らなくてもいいのじゃ。ワシ何にもしてないのに」

 確かに本戦中お昼寝していたので、ある意味何もしていない。

「そんなに付け狙われるほどのことはしてないのですが、不思議ですよね」

 この人は開戦直後にやらかした。

「ちゃんと帰る前に、『バイバイ』って挨拶もしてきたのにのう」

 それが実はマズかった。


   ◆


 島津勢は伊勢街道を南にひた走る。

 後ろからの追手は、さっきからしばらく姿を見せていない。長寿院隊が相当に頑張ってくれたようだ。

「さて、これで追手をけていれば良いのですが……」

 豊歌はそうつぶやいたが、それは期待であって本気ではない。戦場経験から来る直感が、まだ終わっていないと告げている。

 そんな彼女の心の声に答えるかのように……。

「後ろに土煙が見えます!」

「……来ましたか」


 先ほどくだしたのは松平下野守。

「今日の戦いで松平は常に、井伊と協同して動いていたはず。来ないはずはないと思いましたが……」

 豊歌が振り返ると、猛烈な勢いで追いすがってくる軍勢が赤一色なのが見て取れた。間違いない。

 島津の猛将は、思わず会心の笑みをこぼしてしまった。

「あれだけ怒り狂っているというのなら……長寿院殿、松平勢にだいぶ損害を与えてくれたみたいですね」




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物語の豆知識:

 井伊さんは自分にも他人にも厳しいので有名らしいのですが、厳しすぎてすぐに部下を手打ちにした為「人斬り兵部」と呼ばれたとも。戦国時代の土方歳三というか……。



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