第9話 勝者の誓い


「やった、やったわ!」

 両手を組み、セレナは歓喜に打ち震えた。

 息を弾ませ戻った自室から、旅立つ二つの背中を見送り。それが遠く見えなくなった今も尚、戻って来ない事を願う──


 これで「聖女」は自分のものだ。

 尊い存在。そして王族の伴侶となる栄誉も、それに見合う暮らしも全て。


「貴族」ですら没落した貴族の自分には遠く、手の届かない存在だった。それなのにそれを超越した王族になれるのだ。

 これと言うのも今代の聖女が役立たずであったから。

 そしてセレナが聖女の血を引く子孫だったから……


「私は自分の手で幸せを掴んだの!」


 王弟であるリオに見初められ、愛されて。

 それだけでは不安だったから、柚子に毒を盛り亡き者にしようともした。きっと優しいリオは柚子の境遇を憐れみ、切り捨てられないと思ったからだ。

 それに不穏分子を排除するべきとは、次期王子妃としての配慮でもある。


「けれどあの女はしぶとく生き残って……」


 しかし過去の悔しさを笑い飛ばせる程、今の自分は寛大だ。

 仕方がないからロデルを利用した事も。


 ここに来る前、没落した家計の足しにすべく、貴族の三男坊である彼と付き合っていた。

 彼は自分に本気で、必死に騎士爵を得ようと頑張っていた。

 リオに見初められなければ、きっと彼と結婚していただろう。それくらい彼の努力は好ましいものだった。


「でも、私は王族になるの……」


 悲しげに顔を歪め、去りゆくロデルに別れを告げた。

『セレナ、僕には君が必要なんだ』

 そう微笑むリオが眼裏に浮かぶ。全ては彼の為──


 ロデルが上手く柚子を始末したら、彼に罪を着せ処分するつもりでいる。その為にもセレナは上手く立ち回ってきた。

 将来の王子妃の座をチラつかせ、神官長を味方につけ、柚子を追いやっていく。それでいて柚子に同情的に振る舞い、使用人への親切も忘れずに心掛け、心優しい聖女を演じてきた。


 この評判を活かし、ロデルに言い寄られて困っていた事を口にすれば、勘違いした彼がセレナの為に早まった真似をした、と周囲を煽る事ができる。

 セレナの瞳が潤み、涙が一筋頬を伝った。


「分かってる、あなたは私の幸せを一番願ってくれているって。だから……私、絶対に幸せになるわ!」


 立ち去った二人を見送り、随分と経つ。

 けれどその興奮から全く寝付けずにいる。これから自分が手にするものを数えてはまた、眠れないのだ。


 仕方が無いので起き上がり、何度もベッドと窓を行き来している。うきうきと胸を弾ませながらくるりと窓に背を向ければ、間近に佇む人影に気付き飛び上がりそうになった。

「──ああ、びっくりした……リオ?」


 驚きと共に思わず笑顔になる。

 こんな時間に訪ねてくるなんて……

(ああ、いよいよ私は彼のお嫁さんに……王族になるのね)

 そわそわと胸元を隠し上目遣いでリオを見る。

 はしたないと思われないように、けれど決して嫌ではないと、暗がりで見えにくい彼の顔を覗き込みながら、セレナはするっとリオの腕に触れた。


「リオ……」

「……ねえ、君は契約を忘れてしまったの?」


 唐突な言葉にセレナは目を瞬かせる。

「え、何。急に……リオ?」

「セレナ」

 促すようなリオの圧力にセレナは喉を鳴らして返事をした。


「お、覚えているわ。あなたが偽聖女を召喚してしまったから、私に聖女の代役をお願いしに来た事。私には数代前の聖女の血が残っているから、その資格があるのでしょう?」

「うん、そうだよ。良かった、……とりあえず役目は失念していなかったようだね」


 ホッと息を吐くリオにセレナも笑顔になる。

「私はあなたと結婚して……王子妃になるのね……」

 うっとりとリオの美しい顔を見上げれば、彼はいつものように完璧な紳士の表情で、セレナの心を蕩かせる。

 セレナはリオの胸に両手を添え、頭をそっと、もたれさせた。


「……セレナ。君、何をしたんだい?」

 静かに問うリオに、セレナの胸がどきりと鳴る。

 リオは自分に会いに来た途中、もしかしたら柚子とロデルの二人が出て行く様子を見てしまったのかもしれない……

 責任感の強い彼の負担になってはいけない。

 セレナは唇を噛み締め目を潤ませた。


「あの二人を、……逃して差し上げました……」

 ぴくりとリオの胸が反応するのを宥めるように、自身の頬を押し付ける。

「だって柚子が可哀想では無いですか。役立たずで、行き場所もなく。だから手助けして差し上げたのです。これは確かに私の一存ですが、あなたを煩わせたく無かったからです。ごめんなさいリオ。あなたの為を思ったとは言え、勝手をしてしまって……」


 顔を上げ、ポロポロと零れる涙をそのままに、リオを見つめた。

 彼はきっとセレナに感謝し、許し、その賢明な判断を賛美する事だろう。

 そうしてきつく抱きしめられる事を、或いは口付けられる事を、セレナは目を閉じ待った。


「──君は馬鹿か?」


 けれどセレナに訪れたのは、冷たい声と突き放す彼の手だった。

 勢いよく突き飛ばされ。セレナはリオの思いもかけない行動に反応すらできず、尻餅をついた。


「リ、リオ……?」


 ぽかんと見上げ、お尻の衝撃に顔を顰めれば、あっという間に涙も乾く。


「僕が君に求めたのは聖女の代用だ」

「……し、知っているわ。……だから私は……」

「誤解があるようだから言っておくけれど、聖女は召喚した王族の正妻である。これは異世界から呼び出した女性への国からの敬意だ」


「……だから、私にそれをやって欲しいんでしょう?」

 そう口にすればリオの眼差しが冷たく眇められた。

 その様にいよいよセレナは違和感を持つ。

 彼はずっと完璧だった。完全にセレナに囚われていた筈なのに……けれど今までの無機質な笑顔とは違う今の方が……彼から滲み出す感情に、人間味を感じるのは何故だろうか……

 肌に感じる言い知れぬ緊張に、セレナはごくりと唾をのんだ。


「聖女は生涯を通し、一度も神殿から出る事は叶わない。政務なんて以ての外だ。その為伴侶となった王族は側室を娶る事を許される」

「……は?」


「僕が君に望んだのは、『聖女』の役だ。……君も聖女の子孫であるなら知っているかと思っていたんだが……神官と通じ産まれた不義の子の子孫では、口伝も途絶えるものなんだな……」

「な、何……? つまり私は……」

 緊張と混乱に頭がついていかない。

 そんな筈がないという思いが込み上げてくる。


「君には生涯神殿に留まって欲しいと言っているんだよ。ああ、僕は君に何の愛情も持ち合わせていないし、不義を咎めるつもりは無いから、神殿内では好きにしてくれて構わない。不自由ない暮らしも約束しよう……そう話した筈だ。まあ見る限り、伝わっていなかったみたいだけど」

 にっこりと笑った後、最後は顎を摩りながらリオは独りごちた。

 その様子を呆然と見ながらセレナの口元が戦慄く。


「私は……王族になれるんじゃないの?」

「なれないよ」

 

 静かに、はっきりと、リオが告げる。

 ……描いていた輝かしい未来像がガラガラと崩れる音が聞こえた。

 王宮で、沢山の貴婦人から嫉妬と羨望を受ける存在になれるのではなかったのか──


 自分の容姿は美しい。

 貴族の血も混じっている。

 聖女の器も持っている。


 ……だからリオは自分を見初め、好きに振る舞う権利すら与えてくれたのだと、疑いもしなかった。


「そんな……」

 愕然とするセレナにリオはふっと息を吐いた。

「良い条件だと思うけどね、君が柚子に敷いたレールよりずっと」

 びくりと身体が強張る。


「え、な、何?」

 まさか知る筈はない。

 けれど自分が王族となれないなら、それをもし知られたら罪に問われるかもしれない。そんな考えが頭をよぎれば自然と身体が強張った。


「侍女が欲しい、護衛がいる、料理が口に合わない、尊厳が欲しい……君の希望は全て叶えて来たのに、どうして君は、僕の大切なものを傷つけようとするのかな?」


 そう言うリオは、

 ……笑っているのに──

 どうして身体が震えるんだろう。


 セレナはがたがたと治らない身体を両腕で抱え、必死に口角を吊り上げる。皆が褒め讃える、聖女の微笑みを意識して。

「リオ、私は、あなたの為に……」

「いらない世話だよ、よくも柚子を娼館宿に売ろうとしてくれたな」

「ひっ」


 す、と表情が抜け落ちたリオの顔にセレナの身体がのけぞる。

「住み込みの宿? ふざけるな、君の恋人は柚子を殺そうとしたよ。そんな場所に送るくらいなら、殺してあげた方がマシだと判断したんだろうね。だから僕自ら殺してあげたよ。きっと彼もこれから起こる何よりも、『死んだ方がマシ』なんだろうから」


 そう言うと一気に腰の剣を抜き去り、セレナに向かって放り投げた。

 赤黒いものがついたままの刃からは、血の匂いが漂ってくる。


「……っ、いやあ!」


 一歩、二歩と近付いてくる男から身を捩り、床を引っ掻くように後ろにずり下がろうとするが、服の裾を足で踏まれ、進めない。


 身動きが取れないままに。がっと首を手で掴まれ、恐怖で息が止まりそうになる。

「私、は……あなたの為、に……」

「あは、まだ言ってるよ。僕の持ってる物が欲しいから、に立ち振る舞ったんだろ。見え透いてるんだよ、そんな女ばっか見てきたんだから」


 そのまま乱暴に床に放られ、げほげほと咽せれば間近にリオが屈み込むのか分かり、再び恐怖に支配される。


「ねえ君は、死んだ方がマシって考えかい?」

「……っ」

 はくはくと空気を食むように口を動かす。喉が、声が出せない程に緊張しているのが分かる。

 その様を見て、リオは楽しそうに首を傾げた。

「娼館って何をするところか知ってる?」

 その単語にセレナの全身が拒絶を表した。


「────っ!! お、お許し下さい!」


 質の良い場所である必要などない。どうせ産まれも知れぬ卑しい身。下層民が行くような場所で充分だ。

 もう二度とリオの前に出られないようにしておかなければと、王子妃としての最初の采配のつもりだったのだから。


 ──今その駒が、自分にすげ替えられようとしている。

 確かにそんな場所なら死んだ方がマシだ。

 けど、嫌だ。死にたくない!

 どうして自分は与えられた役割以上のものを望もうとしたのか。何不自由ない暮らしが待っていたというのに……


 けれど自分に傅く貴族たちの姿を思い描き、……その蜜のような想像に、抗えなかったのだ。


「お許しください! お許しください!」


 床に額付いて必死に懇願する。

 リオから放たれる冷たい空気に汗をかき、固唾を飲んで断罪を待つ。


「二度と僕の邪魔をするな」


 それだけ言うとリオは踵を返し出て行ってしまった。

 セレナはほっと息を吐き、そして助かった命を確かめるように、自身の肩を掻き抱いた。

 ──目の前に落ちた剣、その錆に決して自分はならないのだと己に誓った。



 それからセレナは聖女となった。

 誰もが羨み、敬う存在。

 高く高く育ち茂る聖樹は、けれど王都から遠い地で誰の目にも留まらない。

 そして神殿から一歩も出ず、聖樹に祈りを捧げる事が聖女の生涯の使命。

 やがて人々は平和と感謝と共に、セレナという個を忘れていく。


 天寿を全うするまで、彼女は生涯をその閉じられた世界で何かに怯えるように、静かに過ごした。

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