歪曲 残り0日

花火大会の始まる十五分ほど前に、

僕達は大きな河川沿いの祭り会場に辿り着いた。

沢山の屋台が所狭しと並び、

前が見えないほどの

大勢の人間が会場を賑わせている。

空は雲一つない綺麗な夜空で、

屋台に備え付けられている照明などのおかげで

この場所の近辺は明るく、

陽気な雰囲気があったが、

少し離れただけで辺りは

不気味な夜の暗闇が広がっていた。

左手からは、

菫の小さくて温かい手と

僕の手が絡み合っている感触が伝わってくる。

香水のような強い甘い匂いを溶かし込んだ

安心感が、僕の心を覆い尽くしていた。

僕は今、恐らく、

彼女の匂いに泥酔していると自分で思う。

乱れた彼女の姿が思い浮かんでは、

縛り付けて自分のものにしたくなってしまう。

昨日、菫との初めての性行為の最中に、

いきなり、匂いは狂気的なほど強くなった。

彼女の裸体や、声、熱、感触、液体、

そういう部分を、自分だけで独占

したくなってしまったのだと思う。

あの時の僕は、雄というよりは人間だった。

菫が「駄目」だと言えば、徹底的にそこを苛めて、

反応が激しさを失ってきたら、

新しい部分を刺激して、とにかく

菫について僕しか知らないものを欲しがった。

そして、僕だけの菫を、

この先の未来もずっと僕だけのものにしたくて、

途中から、

避妊具も無しに彼女に僕を刻み付けた。

何度も中で果てるたびに、

彼女は僕を抱き締めて、受け入れてくれた。

それが雌としての彼女の一面なのか、

僕の願いを受け入れてくれていたのかは

今も分からないままだ。

そうして行為を終えてから、

甘い匂いは一層強くなり、類似した別のものに

変化したかのように刺々しくなった。

菫が僕以外の異性に

触れられることを想像しただけで、

甘い匂いは黒い煙のようになって、

心が不安感で満たされて耐えられない。

簡単に止まらなくなった独占欲に、

人間の脆さと狂気を知った。

左手を伝って菫を見下ろすと、

首元の見える位置に赤い跡があった。

昨日、彼女の身体中につけた跡の一つだが、

自分のものだと主張しているようで、

彼女がより愛おしく感じる。

「朔真君、見過ぎだよ。前見ないと、危ないから」

「え?」

言われて、無意識のうちに

彼女を見つめ続けていたことに気付いた。

「ああ、ごめん。無意識で」

揉まれて溢れ出す濁った感情を抑え込むと、

菫は上目遣いで、期待をしているような、

内に高揚感を隠したような声で囁いてきた。

「見惚れてた、とかじゃないんだ」

咄嗟に「肌、綺麗だと思って」と返すと、

彼女は満足気に笑った。

本当は見惚れていた訳ではなく、

ただ、無意識に彼女を凝視していたのだが、

それは心のうちに隠して消した。

屋台を見て回っているうちに

菫の首元に汗が垂れてくるのを発見して、

僕も少し体が火照っていることに気付いた。

何か冷たいものを探し屋台の列を見渡していくと、

涼しげな青色の看板に書かれた

ラムネの文字が見えた。

菫に言うと、

「夏祭りといえば、だね」と目を輝かせて

氷水に浸して冷やしてある

青いガラス瓶を見つめていた。

揃ってラムネを購入し、瓶を傾けると

爽やかで甘い液体が口内で弾けた。

爽快感と清涼感を覚えつつ

喉に流し込み口内にラムネが無くなると、

途端に何事もなかったかのように口内の感じが

自然な状態に戻る。

ガラス瓶の中に入っているビー玉を気にしながら

ラムネを飲んでいる菫の姿を見て、

過ぎて仕舞えば、夏祭りの特別な記憶も

僕達は簡単に失ってしまうのではないかと思い、

寂しい気分になった。

「花火大会もうすぐ始まるだろうし、

そろそろ移動しようよ」

菫が提案してきたのは、

彼女が半分ほどラムネを飲み終わった頃だった。

以前「私、花火大会

見るのに絶好の場所を知ってるんだ」と、

毎年、同性の友達と

花火大会に行っていたらしい彼女は言っていた。

会場とは少し離れた所なのだそうだが、

人もほとんど居らず、ゆったりと

観賞出来るのが魅力らしい。

その話をされた時、僕は今年も

その場所で花火を見ることを提案し、

彼女もそれに乗った。

詳しい場所については聞いていなかったが、

彼女が案内してくれると思っていて

特に心配していなかった。

僕達は、ラムネ片手に会場から抜け出した。

少し離れただけで、辺りから声が消え、

活気が燃え尽きて人気がなくなり、暗くて、

不気味な雰囲気があった。

街灯だけが頼りなく道を照らしている。

菫の方を見ると、平然として絶好の場所、

とやらに向かい歩いている。

彼女にとっては、まるで違う世界に

迷い込んでしまったかのようなこの感覚も

毎年のことなのかもしれない。

一斉に立った鳥肌と急に引っ込んだ汗、

ざわざわと揺れる心臓と感じる嫌な予感、

それらを全部見ないふりして

僕は彼女の手を強く握った。

「ほら、もうすぐ着くよ」

いつも通りの儚げな声が聞こえて前を見ると、

この先の坂の上にブランコだけが

設置されている寂しげな公園があった。

その場所だけ時間が止まっているかのようで、

廃退的な美しさと薄気味悪さを備えていた。

「菫」

僕は立ち止まり、彼女の名前を呼ぶ。

「どうしたの?」

「本当に、去年も、

一昨年も、この場所で花火を見たの?」

「そうだけど」

菫は首を傾げる。

「怖くは、ないの?こんな不気味な場所」

「不気味、なのかな?私達はずっと、

子供の頃からここで花火を見てて、

これが当たり前だったから、分かんない」

僕は初めて、菫を怖いと思った。

恐らく、人間の価値観を

決めるのはその人間が生きてきた過去だ。

だから、理解出来ないというよりは、

同じ人間でもこれほどまでに価値観の違いが

生まれてしまうという事実が怖かった。

どうしてこんな廃れた薄気味悪い場所に

抵抗なく行こうと思えるのか、僕には分からない。

突然、菫が何かに気付いたような顔をして、

公園に向かって手を振り出した。

驚いて彼女の向いている方を確認すると、

小柄な人影が二つ、こちらに手を振り返していた。

よく観察してみると二つとも髪が長く、

女性だと推測出来た。

「やっぱり、いた。前言ってた、私の友達だよ」

菫は嬉しそうにそう言って、

僕の手を引っ張って公園に歩いて行く。

同時に嫌な予感が、押し寄せてくる。

このまま進んではいけない気がした。

人影達の手の振り方がおかしいような、

誘っているような、ぎこちないような。

だが、僕は菫の歩みを止めさせる

理由を持ち合わせていなかった。

彼女に引っ張られ公園に近づいていき、

人影の表情が見えた瞬間だった。

炸裂音と共に花火が咲いて、視界が暗転した。

薄れていく意識の中で、ラムネのガラス瓶の

割れる音と菫の悲鳴が聞こえた。

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